第4話 啓蟄 後編

 結衣は冷蔵庫を開けた。朝には確かにその一角を占めていたプリンは、もうなかった。修平は最後の一個ということで緊張していたらしい。クリームがプリンにかぶさってしまい、慌てた修平はクリームを取り除くつもりでプリンまでえぐってしまったようだ。

「佳奈子さんを呼んできてくれ」

 修平が静かに言った。結衣は厨房を飛び出し、カウンターを覗き込んだ。佳奈子はちょうどコーヒーを淹れていた。


「佳奈子さん、すいません」

「どうしたの?」佳奈子は首をかしげる。結衣の必死な形相を見て、「ちょっと待ってて。これが終わったら行くから」と小さな声で言った。何が起こったのか、佳奈子にはすぐに察しがついたようだ。結衣はひとりで厨房に戻る気にはなれなかった。蒼白の修平を見ていたくなかった。佳奈子の顔を正面から見たくはなかった。

 結衣はカウンターの隅で佳奈子のことを待っていた。佳奈子の動作はゆったりとして、それでいて無駄がない。どんなに忙しくても、佳奈子の周りだけは時間の進み方が違うのだ。修平にも結衣にも、もちろん真弓にも真似できない。それが佳奈子のスタイルであり、このカフェの骨格なのかもしれない。


 コーヒーを出してから、佳奈子は厨房へ入った。結衣はその後ろに続いた。修平はなすすべもなく、その場に立ちすくんだままだった。

「遅かれ早かれ、こういうことは起こると思ってた」佳奈子は作業台の上に置かれたプリンを見るや、ふうっと息を吐き出した。

「すいません。最後のひとつなのに」修平は頭を下げる。

「三番テーブルのお客様よね。行ってくるわ」佳奈子はエプロンの裾を整えて、ホールへ向かった。

 佳奈子がいなくなると、厨房は薄ら寒い空気に支配された。結衣はやり場のない視線をプリンに向けた。すっかり温まってしまったクリームをだらしなく垂らし、瀕死の重傷を負ったプリンは、変わらずそこにあった。二本しかない腕を焦って動かした、これがその末路だった。


 ほどなくして、佳奈子が戻ってきた。「チョコレートケーキに変更して。常連さんでよかったわ。あとで、コーヒーのおかわりサービスして差し上げてね」心持ちほっとした様子の佳奈子は、修平と結衣に向かって矢継ぎ早に指示を出した。

「すいませんでした。気をつけます」修平が殊勝に頭を下げた。

「あとで、ちゃんと話しましょう」佳奈子は寂しそうに笑い、そう言って、フロアに戻っていく。

「これ、どうします?」結衣が修平に顔を向けた。修平は焦燥した顔に倦んだ笑顔を浮かべ、「結衣ちゃんが良ければ、食べて。冷蔵庫に入れておくから」と力なく言った。


 修平はプリンの乗った皿にそっとラップをかぶせ、冷蔵庫に入れた。かわりにケースからチョコレートケーキを二つ取り上げる。黙々と作業を進める修平の背中を見ながら、結衣はいたたまれない気持ちになった。

 焦っても仕方がない。佳奈子の言葉が像を結び、結衣に語りかける。焦りは不注意を呼び、そして不注意は決定的なミスに繋がる。言葉ではわかったつもりになっても、こうして事態に直面しなければ、実感できないこともあった。そして、それでは遅いのだということも、あのプリンの惨状が物語っているような気がした。


 カフェの営業後、いつもと同じように開かれた反省会では、さすがの修平も沈痛な面持ちで、体を前に起こしていた。目の前のテーブルには、問題のプリンがあった。修平が冷蔵庫から取り出したそれを、結衣と真弓は遠慮がちに食べた。

「最近、ちょっと忙しい日が続いてて、それはいいことなんだけど、みんな、浮き足立ってたわね」佳奈子の口調は柔らかい。不機嫌な時でも、大抵はそういう語り口調なのだ。

「そうかもしれません」修平が応える。「落ち着いてやっていれば、問題はなかったはずなんですけど」


「失敗しちゃったものはしょうがないけど……。どうするか、考えた?」詰問する佳奈子をまっすぐ正面に見て、修平は対策案を示した。

「練習は、これからも続けます。あと、限定十食とは言っていますが、プリンそのものは、二、三個余分に作ることにします」

「そうね。そうして」佳奈子は頷いた。「気持ちにも余裕が生まれるはずよ」

「佳奈子さん。私たちも、プリンの作り方、勉強した方がいいと思います」

 そこで、プリンを食べていた真弓がスプーンを皿に起き、口を開いた。それは結衣も考えていたことだった。《プリン・ア・ラ・モード》は、今のところ修平しか作れない。プリンの仕込みやらオーダーを受けてからの仕上げやら、作業の工程も多く、それなりに時間がかかる。修平はその注文が入るたび、厨房に入ることになるのだ。


「このあいだのバレンタインデーの時もそうでしたけど、結局厨房を修平さんひとりに任せっきりにしちゃうから、修平さんの負担ばかりが大きくなって」結衣は言いながら、もしかしたらと思った。佳奈子が、不機嫌になりながらも黙っていたのは、こういうことだったのかもしれない。

「わかった。それでこそ、このお店で働く人たち」結衣の想いを裏付けるように、佳奈子はいつもに増して嬉しそうに言った。「明日はお休みだけど、午前中、ちょっと時間ある?」




 佳奈子の発案で、翌日の日曜日は、四人揃ってプリンを作ることにした。いつもは営業時間の合間にしている仕込みを、みんなで協力してやることにしたのだ。修平が、未だに卵をおっかなびっくり割っている姿が面白く、結衣と真弓はくすくすと笑った。「こんな姿は見られたくなかったのに」修平はぼやきながら、牛乳を火にかけた。

 修平が考えたというレシピの通りに作業は進んだ。牛乳と卵を混ぜたプリン液を容器に入れ、それをオーブンに並べる。どうして十食限定なのかと思ったら、このオーブンの敷板に並ぶ最大数が十個だったのだ。


「これからは、二回焼かないといけないな」修平が呟いた。

「いいじゃないですか。三十分くらいなら、焼くのは朝だって構わないし」真弓が修平の顔を覗き込んだ。ね、と笑顔を向ける。

「これ、冷やすのにどれくらいかかるんですか」結衣が修平に聞いた。

「二時間くらいかかるんじゃないか? いつもは前の日に作るから、あんまり考えたことないけど」


 議論を続けながら、結衣は思った。やはり、佳奈子はこれを見越していたのだ。別に修平に失敗させるのを企んでいたのではない。こうして、みんなが修平のやっていることを理解し、協力できるようになることを期待して、自発的にそういう流れになるまで辛抱強く待っていたのだ。

 佳奈子はどこまでも真摯にカフェに向き合っていた。そして、そこで働く結衣たちのことも、決して見放したり無下にしたりしない。佳奈子のようになりたい。結衣の気持ちは膨らむ一方だった。


「やっぱり、新しいことはみんなでやらなくっちゃ」佳奈子は、修平たちのやり取りを聞きながら、嬉しそうに微笑んだ。

 春は、みんなに平等にやってくる。新しいことを始める時は、どうしても問題や障害に行く手を阻まれることがある。それでも、新しい地平を見たいと望み、強い決意を持って世界に一歩を踏み出す勇気を与えてくれる。それはまさに、春の息吹と共に地面から顔を出す動物たちのように、自然と沸き立つ勇気なのだ。

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