第3話 啓蟄 前編

 カフェで働いている時はいつも、世間と隔絶されたような錯覚を覚える。どれだけ季節が巡っても、カフェの中は常に佳奈子の作り出した独特の空気が隅々まで広がっている。佳奈子にはそういう特殊な力が備わっているのではないか、と結衣は妄想じみた想いに駆られる。

 試験監督補助のアルバイトが終わり、結衣は三月の一ヶ月間、オープンからクローズまで働くことにしていた。十一時から二十一時まで、途中で昼と夜の休憩を挟んで、八時間みっちりとホールを動き回る。


 佳奈子の経営するこの《カフェ・ラ・ルーチェ》で働き始めて二年が経とうとしていた。大学生になりたての自分を受け入れてくれたこの場所には、本当に感謝していた。そして、そこを取り仕切る佳奈子に対して、結衣は憧れにも似た感情を抱いていた。女性として自立し、自身の夢の中にいるその姿は、理想の将来像でもあった。いつか佳奈子のようになりたい。その想いは結衣を鼓舞し、仕事に取り組む原動力になっていた。


「三番テーブルのお客様、《チョコレートケーキ》と《プリン・ア・ラ・モード》、それから《ブレンド》二つです」結衣は、客から聞いた注文をカウンターにいる修平に伝えた。

 修平は、結衣がアルバイトをする前からこのカフェで働いていた。バリスタの資格を持つ修平は、この店にはなくてはならない存在だ。年齢は聞いたことがなかったが、おおよそ二十代後半くらいだろうか。寡黙で真面目、職人気質の修平は、しかしスイーツにも明るく、嬉々として厨房に向かう背中はやはり楽しそうだ。


 カフェでは月に一回、『新規メニュー決定会合』なる会議が開かれる。内容はそのものズバリで、最初その名前を聞いた時は重々しい雰囲気を想像していたのだが、いざ参加してみると、銘々が作ってみたい、食べてみたいメニューを自由に出し合う、ちょっとしたお茶会のような場だった。

 一月に開かれたその『新規メニュー決定会合』で見事佳奈子のお眼鏡にかなったのが修平の作った《プリン・ア・ラ・モード》だった。それから少しずつ改良を重ね、三月一日から新しくカフェのメニューに加わった。他のケーキは業者から仕入れているのに、このプリンだけは修平の手作りだった。一日限定十食という希少さもあって、初めての週末となった今日は特によく売れた。まだ一時過ぎだというのに、これが最後のひとつだ。


 修平の負担が大きくなることは、カフェのみんながわかっていた。普段であればほとんど厨房に入ることのない修平が、十食分とはいえ厨房に篭る時間がある。その間にコーヒーの注文が入れば、あまりコーヒーを淹れることのない佳奈子がカウンターに入り、結衣は結衣でホールと厨房を行き来することになる。

 ホールは結衣ともうひとり、ひとつ年下の真弓で担当していた。真弓はこの一月からアルバイトを始めたばかりだ。よりにもよってその『新規メニュー決定会合』のあった日が真弓の初出勤日で、わけもわからず新作のスイーツを食べさせられ、「美味しいです」としか言えずに縮まった姿が愛おしく、結衣は妹のように可愛がっていた。


 真弓は早く仕事に慣れようと必死な様子で、今日もホール中を駆けずり回っていた。しかし、今日に限ってはそれがかえってよくなかった。

 佳奈子の機嫌が徐々に悪くなっているのは、カウンターから漏れ出す刺々しい空気から察していた。佳奈子は、せわしないのが好きではないのだ。それは決して、自分が怠けたいから、ということではない。それではさすがに経営者としても店長としても失格だ。

「お客さんにはのんびりとしてもらいたいじゃない。私たちがあくせくしてたら、折角のコーヒーが台無しよ」


 佳奈子の言いたいことは、つまるところそういうことだった。コーヒー一杯に丹精を込める。焦って淹れても、それはコーヒー色をした液体になるだけで、本当のコーヒーではないのだ。そういう理屈は、結衣もわからないではなかった。

「でも、忙しくなるのはしょうがないじゃないですか。お店が繁盛している証拠なんだし」

 営業が終わったあとで、そんな会話をしたことがあった。バレンタインデーだったその日も、同じようにたくさんの客が来て、結衣も真弓もてんてこ舞いになった。閉店後の片付けもそぞろに、結衣と真弓は修平のくれたチョコレートケーキを食べていた。


「焦ることはないって話よ。どれだけ注文が入っても、私たちの目は二つしかないし、腕は二本しかない。でも、だからこそ、お客さんがどれだけたくさん来ても、そのお客さん全員を、同じように満足させないと、カフェとしては失格」


 佳奈子のその言葉が脳裏をかすめ、結衣は店内を見回した。テーブルのほとんどは埋まっていて、カウンターは常連客が居座っている。いつもならば、佳奈子は常連客とゆったり会話をし、たまにテーブルを回って、見知った顔があれば声をかけ、店の空気を作っていた。修平が厨房に入るとその分余裕がなくなる。きっと、佳奈子はそれが悔しくて、悲しくて、胸の中から溢れ出す感情をドリッパーにぶつけているのだ。

 佳奈子の淹れるコーヒーは、修平のそれとはまた違う味わいがある。客は佳奈子のコーヒーも楽しみにしていたし、働きアリのように動き回る結衣たちを咎める人はいなかった。佳奈子だけが、どうすることもできないジレンマと戦っているように思えた。


 何度かカウンターとホールを行ったり来たりしているうちに、焦れた様子で時計を見る客の様子に気づいた。さっきプリンを注文した常連の客だった。

 注文から十分以上が過ぎていた。さすがに時間がかかりすぎている。デコレーションなど手作業が多いのは確かだが、午前中はこんなに待たなかったはずだ。


「修平さん、プリンまだですか?」

 厨房に入った結衣の目に、調理台を前にして腕を組み、仁王立ちをする修平の姿が映った。いつもは精悍な修平の顔に、明らかな動揺が見て取れた。結衣は嫌な予感がした。修平に近づく。調理台にはクリームの絞りが置いたままになっていた。先端からクリームがにじみ出ている。


「結衣ちゃん。緊急事態だ」震える声は、隠すことのできない悲壮感に満ちていた。その視線はじっと調理台の上の皿に注がれていた。それを見て、結衣はこめかみの辺りが熱くなるのを感じた。

 最後の一個、そのプリンが無残に崩れていた。白いクリームにカラメルが絡んだその醜態を無残に皿の上に晒し、プリンは悶え苦しんでいるように見えた。

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