第2話 雨水 後編

 結衣と果帆はエレベーターを上がり、段ボール箱を三〇三教室に届けた。教室のドアを開けると、すでに人がいた。スーツ姿だが、職員という感じではなかった。

「ありがとう」柔和に笑う顔をどこかで見たことがあると思ったら、非常勤講師の栗栖だった。後期に一般教養で履修した自然史科学の講義を担当していた。普段は理学部の地球システム科学科で古生物学なるものを教えているらしい。生物の歩んできた歴史を時に俯瞰し、時に近視眼的にスポットを当てながら、栗栖は生命史研究の歴史を語っていた。その授業は印象深く、こういう話を高校生の時に聞くことができれば、理科ももっと身近に感じることができただろうに、とも思っていた。


「栗栖先生だ。久しぶりですね」果帆も気づいたようで、明るく挨拶をした。結衣も「おはようございます」とだけ言った。

「なんだ、君たちか。おはよう。こんなに早くから大変だね」栗栖は言いながら、結衣たちの持ってきた段ボールを持ち、教壇の隅に置いた。普通、一般教養の講師と親しく話すことはない。これはひとえに果帆の社交性と、栗栖の気さくな性格に起因していた。人数が少なく、講師と学生の距離が近かったのもあるが、授業の終わったあと、毎回のように果帆と二人で授業に関係あることないことを喋っているうちに、栗栖も二人を覚えてくれたのだ。


「先生の方こそ。試験監督なんて」

「去年もやったから、だいたいは大丈夫だよ。真面目に試験を受けていてくれれば、特に仕事もないしね」

 栗栖は穏やかに言った。

「試験時間まで時間はあるけど、早い子だと一時間前には来ちゃうから、それまでに準備をしておかないとな」栗栖は教卓から封筒を取り出し、中の書類に目を通した。きっと、今日の段取りが書かれているのだろう。栗栖の表情が真剣なものに変わる。大丈夫だと言っても、やはり緊張しているのだ。結衣と果帆はゆっくりとあとずさり、教室を出た。


 同じような作業を何回か繰り返した。どの教室も、試験監督をする職員や先生たちは栗栖と同じように静かに張り詰めた空気を醸していた。受験生の立場でしか試験に臨んだことのなかった自分にとって、この雰囲気は異質で、それでいて心地よかった。決して主人公にはなれなくても、主人公となるべき人を——今日で言えば受験生を——支える人も必要だし、そういう局面も人生では大切なのだろう。


 試験時間が近づき、担当する教室が割り振られた。結衣と果帆は揃って三〇三教室での試験監督補助を言い渡された。

 栗栖の言っていた通り、その時にはすでに数人の受験生が席に座っていた。時間が経つにつれ、受験生が続々と入室し、室内の緊張感は高まっていった。結衣と果帆は教室の隅に立ち、時折、「ご自身の受験票に記載されている番号と、机に貼付されている番号をよく確認してください」であるとか、「お手洗いは廊下を出て左側にあります」であるとか、それらしいことを発信していた。

 試験開始十分前、いよいよ問題冊子の配布が始まる。栗栖が段ボール箱を開き、十部ずつ束ねられた冊子を一山ずつ、結衣と果帆に渡した。二手に分かれ、ゆっくりと机の上に置いていく。その途中で、ちらりと受験票の写真と本人の顔を確かめる。不正が起こらないように見張るのも大切な仕事だ。

 銘々席に着いたその顔は、一様に硬かった。しきりに手を開いたり閉じたりしている人、腕をだらりと降ろして瞑想している人、文房具の具合を確かめている人、じっと栗栖の顔を見ている人。男女様々な人がいる。このうちの何割かが、自分たちの後輩になる。そう思うと、感慨深い思いが胸に溢れた。




「試験監督も大変ね」

 営業の終わったカフェで、結衣は佳奈子に今日のことを話していた。アルバイトに入る前、「今日の話聞かせてね」と言われた時は冗談かと思っていたが、テーブルの上の砂糖や灰皿を整えていると佳奈子が後ろからそっと近づいてきて「どうだったの、どうだったの?」と繰り返し聞いてくるものだから、結衣は「面白い話なんてないですよ」と前置きして、一日のあらましを説明していた。

「私たちは見ているだけでしたけどね」

 結衣はソファーに座り、ぬるくなったコーヒーを口にする。たとえ冷めてしまっても、佳奈子の淹れるコーヒーは格別だった。しかもカフェインレスだ。夜でも優しいコーヒーが味わいたいからと、佳奈子が数ヶ月前からメニューに取り入れていた。


「きっと、今日受験した子達はみんな大変な努力をして、試験を迎えたんでしょう。それでも上手くいかないこともあるし。厳しいのね、現実って」

 向かいの席で同じようにカップを持ちながら、佳奈子は少しだけ悲しそうな顔をした。自分の店を持ち、毎月利益を出し続ける方がよほど難しいのではないかと思ったが、結衣は口を挟まないでおいた。

「私もそうでしたけど、受験勉強をしていた時は、なんでこんなに苦しい思いをしなきゃいけないんだろうって、ずっと疑問でした。まるで嵐ですよ、心の中が」

 代わりに口をついたのは、愚痴とも嘆息ともつかない戯言だった。


「嵐ね。雨? それとも雪?」

 思いがけない質問にしばらく考えてから、結衣はおもむろに口を開いた。

「暴風雪です。前が見えないくらい」結衣は二月の故郷の風景を思い浮かべた。豪雪地帯ではないが、激しい雪が地面を鳴らし、轟々と風が吹き荒れる日が稀にある。二年前の今頃は、まさに心の中に爆弾低気圧が発生し、荒れ狂う風雨に翻弄されていた。

 将来の夢も希望も曖昧なまま、それでも前に進まなければいけないのに、その前がどちらなのか、それさえもわからない。まさに暗中模索といった状況が長く続いた。爆発しそうな心を抱え、模試の結果に一喜一憂し、家族にあたったこともあった。


「でも、それも今日でお終いね」

「そうだといいんですけどね」そうは言いながら、結衣も同じことを思っていた。

 今日、あの殺風景な教室に座っていた彼ら彼女らも、結衣と同じように荒れた天気の日もあっただろう。でも、これが過ぎれば春がやってくるよ、と結衣は心の中で呟いた。

 雪が雨に変わって冬が溶けていく。雪の下から覗くのは、きっと荒れた土地ではない、と結衣は想像した。

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