二十四節気

長谷川ルイ

第1章 春

第1話 雨水 前編

 路地に佇むカフェの周りには、昨日の夜に降った雪がまだうっすらと残っていた。二月も中盤を過ぎて、季節は行ったり来たりを繰り返している。今週は随分と暖かい日もあったというのに、昨日あたりからはまた真冬に逆戻りしていた。吐くたびに白く帯を引く息が、路地を吹き抜ける風に霧散していく。それを横目に見ながら、結衣は《カフェ・ラ・ルーチェ》と看板のかかった店先に辿り着いた。

 そのドアを前にして、結衣は一旦立ち止まった。ドアに嵌め込まれた曇りガラスに上半身が映る。自分があるべき場所に立ったことを確認し、今日の仕事を頭に思い描く。それは儀式と言ってもよかった。仕事をする前の準備体操、イメージトレーニングのようなものだ。


 結衣はドアの取っ手を手前に引き、一歩カフェへ踏み込んだ。

「あら、今日はスーツなの?」

 早速、店長でありオーナーの佳奈子に見つかった。テーブルを拭く手を止めた佳奈子は、片方の手でカップを持ったまま、腰にもう片方の手を当てて結衣に向き直った。

「朝から試験監督補助のバイトだったんですよ」結衣は答えながら店内を見渡す。照明の落とされたカフェには、カウンター席が五つ、テーブル席が五つとソファー席が二組あるのだが、今は客がひとりもいなかった。結衣はちらりと壁にかかった時計を見る。時刻は夕方の五時、普段ならそれなりに賑わう時間帯だ。先週はそれこそ猫の手も借りたいほどの忙しさだったのに、客足は分からないものだ。


「そういえば、もうそんな時期ね」佳奈子はカウンターにコーヒーカップとソーサーを置くと、そのまま椅子に座った。体を回転させ、結衣に体を向ける。

「今日は随分とお客さんがいませんね」

「試験があるからでしょ、きっと。大学も閉鎖されてて、学生さんはほとんどいないみたい」

「そういえばそうですね」結衣は思い出したように言った。試験期間中は、当然だが学生は大学への立ち入りが厳しく制限される。不正が行われないようにするためだ。試験監督補助のアルバイトをするにしても、守衛室でサインをし、講義棟に入るのにも学生証の提示による身元確認が必須だった。


「何はともあれ、お疲れ様でした」佳奈子がうやうやしく頭を下げる。首元に飾られた小ぶりのネックレスがからりと光り、結衣はついその白い首筋に見とれてしまった。佳奈子が頭を上げる素振りを見せ、結衣は慌てて視線を外した。

「じゃあ、着替えてきます」佳奈子に悟られないように、わざとらしく肩のバッグをかけ直し、歩き出した。

「はい。……そうだ。営業が終わったら、今日の試験監督の話聞かせてね」

 思わぬ言葉をかけられ、結衣はちらりと佳奈子を振り返った。佳奈子はおもちゃを見つけた子供のように、嬉しそうな顔をしていた。結衣は曖昧に返事をして、そのまま控え室に入った。

 ロッカーの前で上着を脱ぎ、スカートのファスナーに手をかける。佳奈子に話を聞かせてと言われたからか、指に力を入れると、ファスナーが開く代わりに記憶のチャックがゆっくりと開き、朝の景色が頭に浮かんだ。




 今日、結衣は朝の六時に大学にいた。

「ギリギリ間に合ったね」果帆に脇を突かれる。集合場所の大講義室には、すでに多くの学生がいて、壇上ではスーツ姿の職員が今日の注意事項を話していた。

「スーツ着るのに手間取っちゃって」スカートのファスナーに思わず手が伸びた。入学式の時は特に気にならなかったのに、今日着てみたらぱんぱんで、結衣は朝から青ざめた。寝正月だったのを後悔しても遅く、ヒールの低い靴を履いて駅から歩いてきたら、集合時間間際になってしまった。

 壇上の職員が資料をめくり、一日の流れに話を移していた。事前にある程度班分けをしているらしく、一通りの説明が終わると、それに従って各々が持ち場に着くことになった。結衣と果帆は、試験問題の運搬を仰せつかった。運搬組の並ぶ列について順番を待っていると、果帆が振り返り、「ちょっと緊張してきたね」と言った。その言葉とは裏腹に、果帆はとても楽しそうな顔をしていた。


「第一志望の子だっているんだもんね」

「そりゃあね。私だって結衣だって、そうだったんだし」

 受験は酷だ。どれだけ努力をしても、叶わない夢がある。そういう現実を若干十八歳の若者に突きつける、今日は非情な日でもあるのだ。誰が悪いわけでもない。そうして選抜しなければこの国の秩序が保たれないし、教育が成り立たなくなる。学校にはレベルがあり、自分にも身の丈がある。そういう意味では、世間を知り、己を知る、受験はそういう機会でもある。

 自分もそうやってこの大学を受験し、どうにか合格することができた。

 信州の山の中で育った結衣は、都会での生活に憧れていた。渋谷や原宿といった若者の街を闊歩し、クレープ片手にウインドウショッピングをする。あるいは、自由が丘や表参道にあるおしゃれなカフェで緩やかな時間を過ごす。漠然とした都会のイメージは、しかし幻想でしかなかった。


 それがいざ目の前にやってきた時、結衣はおおいに戸惑い、そして疲れ果てた。通学電車では身動きが取れなくなるほどの人に囲まれ、ターミナル駅では幾多の改札や出口に方向感覚を失った。早足で歩く周りの人についていくこともできず、雑踏の中で足踏みしかできない自分がいた。

 そんな時に仲良くなったのが果帆だった。東京で生まれ育った果帆は、人生という階段の数段先を登っていた。そんな果帆に引き上げられるように、結衣の生活は彩りが豊かになり、充実したものへと変貌していった。カフェのアルバイトを勧めてくれたのも果帆だ。そのおかげで、結衣は大学とは違う世界を知ることができた。東京に来て二年が過ぎ、ようやく東京での生活にも慣れてきた。それは今までの自分の価値観とは違う、多様な考え方に翻弄された日々の結果として、結衣が享受したものだった。


 移動する列に並ぶ果帆の後ろについていると、その背中が不意に遠くに感じた。果帆にとって結衣はどういう存在なのか、詮ないことだとわかっていても、その思考は時として結衣の心を占領してしまう。そうして弱い自分の姿を見下ろしているうちに、列は進み、結衣たちの前にバインダーを持った大学職員が現れた。

 二人続けて氏名を名乗ると、その職員から台車を渡された。そのまま一階の会議室で試験問題の入った段ボール箱を受け取ると、そこで今度は三〇三教室に行くように指示された。


「休みの日の学校って、やっぱりどきどきするね」廊下を歩きながら、果帆はまるで子供のような言い方をした。そういう天真爛漫で憎めない性格が、結衣を惹きつける所以でもあった。果帆に出会わなかったら、今の結衣はなかったかもしれない。だから、果帆には感謝しているのだ。

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