1.香気こうき
そんなつもりはなかったと、今さらそんなことを言っても誰も私の話など信じてはくれないだろう。
太股辺りに手が伸びてきて執拗に撫で回されながら、面白くもない同じ話をまた聞かされる。
絵にかいたような典型的なエロ親父…じゃなくて、おじ様に臭い息をかけられても楽しそうに笑ってお酌をする。
ただ酔っぱらいの相手をするだけで稼げると言うから…旅館の宴会場で仲居の様な仕事をするだけだと聞いたからバイトを引き受けたのに。なのに、こんなことまでされるなんて。
「かわいい子入ったって聞いてたけど君かぁ。よろしくね」
「ゆずと申します。よろしくお願いします」
綺麗な着物を着て綺麗に化粧して私を知らない人たちと会話をする。私も相手のことはほとんど知らない。
話し相手になる分には楽しくも感じるし、また君と話したいな、と言ってくれる人もいるのでやりがいを感じたりもする。
けれど、こういった客に対してはなかなか慣れない。
「副社長!」
「な、なんだね?
私とおじ様の間に割り込んできたチョイイケメンのおかげで、腿から手が離れる。
「ここにいたんですか?さっき向こうでミルクちゃんが探してましたよ」
「おぉ、そうかそうか」
おじ様はニタニタと嬉しそうに席を立つとあっちへこっちへふらつきながら歩いていった。
「ありがとうございました…えーっと」
「俺は上谷。うちの会社よくこの
「はい。助かりました」
頭を下げて席を立とうとすると、
「待って」
腕を捕まれ引き止められる。
「ちょっと話そうよ」
私は、慣れないながらも着物が乱れないように上前を抑えながら座り直し、一杯くれるかな、と出された彼のグラスにビールを注ぐ。
「上谷さんはどんなお仕事をされているんですか?」
「うちの会社はすぐ隣の出版社」
「え!隣って…まさか王手社ですか?」
「そうだけど」
「うわぁ」
退屈しのぎでしかなかった定番の質問に、まさかのワードが飛び出し、思わず食いついてしまった。
「すごいです!」
「え?そうかな?でも毎日毎日怖い先輩に怒鳴られて大変だよ」
「そうなんですか。編集の方ですか?」
「そう。文学のね」
「本当ですか?すごい!じゃぁいろんな作家さんともお会いされてるんですよね」
驚きのあまり我を忘れ彼に詰め寄ると、弾みでグラスを倒してしまった。
「あ、す、すみません!」
「あ~」
グラスに残っていたビールは少量だったが、場所が悪く、座布団や畳にまで広がる。慌ててその辺の布巾で拭いてごまかしても、またミルクさんに怒られるんだろうな、とまず思った。
「大丈夫?」
上谷さんも手伝ってくれたが、彼のスーツのズボンの裾も濡れている。
「申し訳ありません。今、タオルをお持ちしますね」
「いいよいいよ、これくらい大丈夫」
「今誰か呼んで…」
「いいって。みんな盛り上がってるし騒ぎにするほどのことじゃないしさ。…それより、トイレってどこだっけ?」
「えっと、部屋を出て右の奥ですが…」
ありがとう、と立ち上がった上谷さんだけれど、何だか覚束ない足取り。
「大丈夫ですか?」
「ちょっと飲みすぎたみたい」
盛り上がっている周りに悪いからと、上谷さんは誰にも言わずに静かに宴会場を出た。ふらついている彼をとても見ていられなくて、仕方なくトイレの前まで彼を支えながら誘導した。
「終わるまで待っていましょうか?ふらふらでは危ないですから」
彼の腕を離そうとすると、
「ねぇ一緒に抜けない?」
逆に手を掴まれる。
「え?」
「もうそろそろ宴会もお開きだし」
「え、いや、でも…」
「いいでしょ?楽しもうよ」
掴まれた手を引かれ、トイレ脇の喫煙所まで連れて行かれる。先程までふらふらと今にも倒れてしまいそうだったはずの人の力とは思えない。
「上谷さん、どうしたんですか?離して下さい」
少し暗がりになっていて静まり返っているこんな所で騒いでも意味がないと思ったけれど、急に彼の顔が近づいてきて、怖くなって咄嗟に目を瞑る。
と、その時、パァン、と一発良い音がして、
「いってぇ!何すんだよ!」
掴まれていたはずの手が解放される。恐る恐る目を開けると、
「おー良い音。頭ん中は完全に空だな」
横から割り込んできたのは、長身のスーツ姿の男性。長めの前髪から覗く切れ長の涼しげな目が上から私を見下ろす。
何故か右手に片方だけのスリッパを持つ彼が目を細めると、更に増す威圧感。
何が起きたかわからず固まった私を他所に、彼は再度右手を掲げる。
「よぉ、上谷」
「み、
彼はとても良い匂いがした。
タバコの匂いに混じって鼻腔を掠めた爽やかな匂い。けれどそれは、彼には不似合いな甘い香水の匂いに掻き消された。
「何をしている?」
「い、いや…べつに」
「上谷、お前確か、宴会幹事だったよな?」
「そうですけど…ちょっと、休憩です。それもう下ろしてくださいよ」
「ん?あぁ」
上谷さんに言われ、彼は思い出したようにスリッパを履きなおした。
「御影さんこそ!宴会断っといてなんで…あ、またお見合いっすか?」
「そうだよ」
「御影さんのお兄さんもなかなかあきらめ悪いっすね」
「まったくだ」
最初は不快にさえ感じた甘い匂いはお見合い相手のものだろうか。今はもう大して気にはならない。
「それより上谷…その子どーする気だったんだ?」
「え、いや…」
「この子ノーマルな上にどーみてもまだ未成年だろ?マズイんじゃないか」
「え…うそ…ゆずちゃん、い、いくつ?」
「ハタチです」
「おい、嘘をつくな」
「…19」
「あ?」
鋭い目付きの彼に被せ気味に突っ込まれ、
「…18、です」
「まぁ、そんなとこだろうな」
上谷さんもその目に刺され、顔色が変わる。
「えー!でもゆずちゃんはピンクだから、誘えばサービスしてくれるって他の子に言われて」
「ピンクってなんですか?」
「は?」
ふたりが揃って私を見た。
「そんなことも知らずにコンパニオンやっていたのか?」
「すみません」
「ピンクは、少しエッチな要求も受けてくれる子のことだよ」
「え!」
近くに私たち以外の人はいないけれど、上谷はさんが小声で教えてくれた。
「ゆずちゃんはブルーローズって店のコンパニオン派遣のバイトでしょう?」
「はい」
「その中にもピンクコンパニオンは何人かいるはずだよ」
「いくらピンクだろうがそーいうサービスはしないだろ。今時厳しいからな」
「個別にサービスしてくれる子がいるって聞いたのになぁ」
「いるわけないだろ。変な噂をたてるな」
「すみませんでした。…だから御影さん、この事はどうか、ご内密に」
「…俺に謝る事じゃない」
「はい。ゆずちゃんホントにごめんね。編集やってるって言ってあんなに感激されたのはじめてだから嬉しくて、つい」
「いいえ、私こそすみませんでした。ぜひまたお仕事の話聞きたいです」
上谷さんは怖そうな彼に宴会場に戻るように言われ、姿が見えなくなるまで何度も頭を下げながら帰って行った。
「あ、あの、助けていただいてありがとうございました」
そして取り残された私も頭を下げる。
「いや、べつに。助けたつもりはない」
最初に香った爽やかな彼の匂いを確かめたかったけれど、とても和やかに話せる雰囲気ではない。
「君はまだ高校生だろ?コンパニオンなんてやめるべきだ」
「え、でも…」
上谷さんの先輩だか何だか知らないけれど、いきなり現れて説教されても困る。反論しようとすると、
「あーそうだ、君」
「はい?」
「先程使っていた椿の間に忘れ物をしたようなんだが、なんせ見合いの席で飲みすぎてしまったようで…迷っていたところなんだ。一緒に来てもらえないだろうか」
怖そうな人だなと思ったのに、急に笑ってそう言った彼。
「椿の間ですか?いいですよ」
こちらです、と彼の後方を指すと、彼はまた再び不機嫌そうな顔でわざとらしくため息をついた。
「え?どうかしました?」
さっきの笑顔はどこに?
「学習しろ。…さっきの上谷とのやり取りを見ていて俺が酔っていたように見えたか?」
「え?んーいいえ」
「ではなぜ明らかな嘘を信じて俺を案内しようとする?空き部屋に連れ込まれるのが落ちだ。さっき上谷に同じ手口で騙されたばかりだろ?」
「騙された?」
「気づいてないのか?あいつだって全く酔っていなかっただろ」
「うそ…」
「やっぱりか。……自分の身くらい自分で守れないようじゃ襲われても文句言えないからな」
「そんな…」
「まず疑え。そいういう危機感も覚悟もないのにこんなことしてるのか?」
「覚悟…?」
「ミルクのやつどういう教育しているんだ」
「ミルクさんを知ってるんですか?」
「あぁ」
呆れたと言わんばかりに、彼は背を向けた。そして振り向き様に、冷やかな視線だけをよこす。
「このバイト、たかが酔っぱらいの相手だと思ってなめてかかると痛い目に遭うぞ」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます