34.慈雨じう☆
退院の手続きを終え病室に戻ると、何やら複雑な会話が聞こえてきた。また煉と看護師が取り込み中か?と少し中の様子を伺っていると、突然おっさんの嗚咽が聞こえた。
何かと思えば、ヘタな泣き真似をする兄貴と青ざめた顔の女性がいる。
「君にすごく会いたがっていたよ」
「え?うそ…」
「あぁ、良い奴だったよ怜は」
「そんな…」
「あー哀しいなぁ~うぅ」
なんて、兄貴は肩を震わせ、泣いているのではなく笑っているのだ。
「おい煉、勝手に殺すな」
「あ、あははは」
「え?御影さん?生きてる!」
懐かしい顔が俺を見る。髪を結い上げているせいか、少し痩せ大人っぽくも見えるが変わらぬ大きな瞳からポロポロと涙が溢れた。
「当たり前だ」
「事故にあって入院してるって、聞いて」
「あぁ」
「沙奈瑚さんと英先生が深刻な顔して…今日になるかもしれないって言って、それで私…」
「まったく、あのふたりは」
「それに病室が片付づいてて…」
「だから、急遽今日になったんだよ、退院が」
「そう、なんですか?」
「前にも肋骨やってるからちょっと入院が長引いただけで他はなんともない」
「良かった」
安堵感が更に涙を誘うのだろう。ほっとした表情から口がわなわなと震えへの字に曲がると一気に顔が崩れた。
「本当に、良かった」
「もう泣くな。…俺は死なないから」
「はい…」
この1年半、こんな風に泣いた彼女の涙や怒らせてしまった時の表情、求めるように見つめられた瞳。温もりを感じた掌。キスをした時の、柔らかな唇。
会えなくても、思い出そうとせずとも自然とどこかで感じていた瑳の存在。それは徐々に…
「御影さん!」
必死で涙を拭い一呼吸ついた彼女は、思い出したように突然切り出す。
「王手社を辞めたのは…私の、せいですよね」
「んーまぁ、そうだな」
「え、」
自分から誘導するかのように質問しておいて、即答した俺に驚き僅かに目を見開く瑳。
「ほ、本当にごめんなさい。何も知らないで逃げたみたいになって」
「いや、逃げたのは俺だ。結婚も仕事も…君からも」
「でももう心配いらないよ、瑳ちゃん」
しばらく黙って俺と瑳の話を聞いていた煉が割り込んでくる。
「怜はもう別の出版社に移ってすでに編集長やってるから」
「え?」
驚きのあまり、必要以上に瞬きをする彼女。
「も、もうですか?」
「小さい会社だけど、充実してる」
「ちなみに怜はまだ独身だから安心してね、瑳ちゃん」
「煉は口を挟むな。とくに女にも困ってない」
「あ~怜って冷たい男だねー瑳ちゃんに会いたい会いたい言ってたくせに」
「言ってない」
「素直じゃないなぁ。瑳ちゃんは今、一時帰国中だからまたしばらく会えなくなるからね!じゃぁ僕は先に行ってるからごゆっくりー」
煉は俺を睨み付けるように大きなため息をつき、見かねた様子で病室を出ていった。
「驚いたよ…突然現れたと思ったらそんな格好だし」
ノースリーブのパーティードレスのような服から覗く二の腕。結い上げているとはいえ、よく見ると乱れて髪飾りがずれているし、おまけに雨に濡れているようだった。
「あ、式場に上着忘れて…」
「綺麗になった…って言おとしたが、化粧は崩れているし髪も濡れているな」
いかに急いでここへ来たのかがわかる。
「すみません…でも御影さんが雨男だから悪いんですよ」
瑳は相変わらず綺麗に笑う。名前のように、愛らしく。
「やっぱり私、雨が好きです」
「俺も嫌いではないが…雨は憂鬱だし降り続けば災害にも繋がる」
「でも!」
言葉を遮るように強めに言った瑳は、訝しがる俺を見ても怯む様子もなく続ける。
「雨が降らないと人も植物も生きられないですよね?」
「…だから、何だよ」
「御影さん言ってましたよね?俺の中の霖雨は止まないって…」
「あぁ」
もうきっと10年以上前から降り続く冷たくじめじめとした長雨、それはもう傷の痛みも感じなくなる程に凍てつき俺を縛っている。
「御影さん、もしかして知らないんですか?霖雨蒼生って言葉があるの」
「え?」
「たくさんの人たちに恵を与えて救うって意味ですよ!」
瑳は得意げに笑う。
「だから、霖雨はただの長雨じゃありません。恵みの雨、恩恵という意味もあるんですよ」
俺が言葉の意味を知らないはずがない。知っているけれど、そんな風に考えたことはなかった。
「少なくとも私にとってはそうです」
自信に満ち溢れた表情。
「…バカバカしい。そんなくだらないことを言いに来たのか?」
「くだらなくないです。私、あれからずっと考えていたんですよ?だからもう、一時の感情なんかじゃありません」
かなり年の離れた子どもに、ゆっくりと穏やかな口調で諭され、俺は陳腐な言葉で反論するしかできない。
「ふざけるな…どうしてまた、俺の前に現れたんだ」
本当は怖かった。生きる意味を見いだせない空っぽな自分に向き合うのが。
一時の感情だけで瑳を巻き込みたくなかった。真っ直ぐで無垢な瑳を、俺なんかが汚してはならないと思った。だから彼女を突き放し、離れた。
今までは離れればリセットできていた事。仕事も恋も環境も壊れる度に捨て、そしてまた自分のいいように築き上げる。そして何かにすがることで紛らわし、忙しさに追われることで考えないようにしてきた。
1年もかけ作り上げた今の環境など、そんな嘘で塗り固めた人生など虚しいだけだとわかっていた。
そこには何かが足りないとわかっていたけれど、また気づかぬふりをして何とか取り繕い過ごしてきたというのに、
「……私、御影さんみたいな編集者になりたいんです」
彼女に会った瞬間、溢れてきた温かい気持ち。
「どうした突然」
「将来の夢です!英先生の担当になって、いつか編集長になります!語学力をいかして世界に先生の作品を広めるのもいいですよね…」
「でかい夢だな」
鼻で笑いながらも、あまりにもはっきりと断言されてしまうと彼女なら簡単に叶えてしまいそうな気がした。
「でも私の隣には御影さんがいてほしいです。40年50年先も御影さんと一緒に…おじいちゃんおばあちゃんになっても縁側で熱いお茶を飲みながら一緒に本を読んでいたいです」
「何を言って…」
くだらない、と一蹴するつもりが、なぜか言葉につまる。
彼女の語る妄想が、あまりにも幼稚でバカげているはずなのに、何故かなんの苦もなく想像できてしまって、何も言い返せない。
「み、御影さんが…泣いてる?」
「え」
腹の底から一気に溢れた温かい何かがついに抑えきれなくなり、こぼれ落ちる。
「…だからもう、会いたくなかったんだ」
会わなければ、何をも跳ね返す鉄壁の自分でいられた。凍てついた強い心で。けれど本当は…。
「御影さん?」
こんな俺でも、若い頃は愛について考えたことがある。
どんな犠牲を払ってでも手にいれ、愛する人のためなら死んでもいいと思った。 これこそ愛だと、誰よりも愛していると言わんばかりに身勝手にまわりを傷つけてきた。
けれどそんな死を覚悟できる愛など、
気づかせてくれた友がいた。
どん底にいた俺を救ってくれた友に誓った言葉がふと頭に浮かんだ。
『一緒に未来を描ける相手と、生きていきたい』
はっきりとは覚えていないけれど、あの頃は本気で思っていた。
たとえその道がどんなに辛いものになるとわかっていても、そんな相手となら乗り越えられる。いつか俺もそんな人と出逢いたいと。
すべてを清算しゼロからのスタートを切り、何事もなく過ごす日々の中でいつの間にか、瑳の存在が徐々に大きくなっていた。
一時の感情ではない。本当は、会いたくてたまらなかった。
もしもまた会うことができたならその時は、言おうと決めていたことがある。
「俺は…君が好きだ」
「え?」
大きな目を何度も瞬かせながら俺を見る彼女。しかし、だんだんと表情が曇ってくる。
「う、嘘だ」
「嘘をついてどうするんだ?…離れて改めて自覚した。ずっと、会いたかった」
耳元に囁くと静かに泣き出した彼女を、優しく抱き締める。年齢も立場も関係ない。道徳さえもすべてを忘れてずっとこのままでいたいと思う。
「嘘だ…夢?どっきり?」
「現実だ。…君こそさっき、兄貴に告白してなかったか?」
「え?聞いてたんですか?」
「あいつが好きなのか?」
「違いますよ。みか…怜さん、だと思って」
「じゃあちゃんと俺に聞かせて」
「で、でも聞いてたんですよね?」
「いいから」
「…えっと、その」
「今更照れるな」
「だって…」
「どうした? …君がなってくれるんだろう?」
「え?」
「俺の生き甲斐に」
「やっぱり聞いてたんじゃないですか!」
「違うのか?」
「い、いえ、なります!」
「だったら、ちゃんと聞かせて」
「えっと……あ、愛してます!」
「は?」
赤面して必死で告白をした彼女を見て、つい可笑しくて笑ってしまう。
「ひどいですよ!」
「あ、悪い…愛か。若い頃は俺もそれ連発してたなって思ったら可笑しくなって」
「ひどい!バカにして」
「違うんだ。悪かったよ」
当時俺もそれが最上級だと思い込んで、無駄に相手に押し付けていた。言えば言うほど相手からも同等の愛を貰えると信じて。
けれど、それは見返りを求めて言うものでも相手を言いくるめるためのものでもない。
「連発してたなら、私にも言ってくださいよ!」
「君にはまだ早い」
年齢差や立場などは関係なく、素直に相手を大切に想う。こんな風にまた誰かを想える日が来るなんて。
かつての、ふたりの親友…ひとりは恋人を亡くしながらも懸命に前を見ていた。もうひとりは何があっても一途に愛する人を想い続けた。彼らが、何があっても心を失わずにいられた理由がようやくわかった。
誰かを幸せにしたいと思うことがこんなにも心を温かくするなんて、思いもしなかった。
失うことばかりに怯え再び誰かを愛することなど無理だと決めつけていた俺には、たどり着けるはずもない。
答えを得るのに10年もかかってしまったが、ようやく親友に会いに行けそうだ。今なら笑顔で、あの約束の言葉を言える自信がある。
あの時から…もしかしたらもっと前から俺の中で降り続いていた霖雨。彼女はそれを厭うでもなく晴らすでもなく、好きだと言ってくれた。
闇の中でひとり膝を抱え閉じ籠っていた俺を無理に連れ出すでもなく、ただ足元を照らし続け立ち止まっても黙って寄り添ってくれる。
止まない雨はない、明けない夜はないというけれど…例えまた激しい雨に呑まれても闇夜に押し潰されたとしてもそれを憎まずにいられる自分でありたい。
たとえどんなに激しい雨が続いた夜であっても、君となら――。
「瑳、悪いが君の夢をすべて叶えるのは難しいだろうな」
「そう、ですよね…すみません。変なこと言って」
「…俺は、猫舌だから」
「へ?」
「それに緑茶は好んで飲まない」
「はい…」
「だから、縁側で飲むのは適温のコーヒーにしてくれるか?」
「……」
声にならない返事が微かに聞こえた。いつも輝きを失わないその瞳からまたボロボロと大粒の涙が溢れ出す。
気の遠くなる未来でも、彼女となら同じ夢を見ていられる気がするから。
だから、
「 好きだよ、瑳。40年先も50年先も一緒にいよう」
中学生の告白みたいな恥ずかしいセリフだけれど、自然と素直な気持ちで言えた。
好き、だなんて逆に初めて言ったような気がするが…それはまだ、教えてやらない。
俺が君の生き甲斐となれる、その日まで。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます