32.霖雨りんう

 御影さんが上谷さんを部屋から追い出してから、しばらく続いていた沈黙に耐えかね、私から切り出す。

「私、バイトやめませんから」

「なぜ?」

「御影さんには、関係ありません」

「確かに。何をしようと君の自由だが、やはり君には無理だ」

「だから、出来るように練習を」

「いいかげんにしろ」

「え?」

「あいつらに何をしてやった?キスをして触らせたか?口でしてやったか?」

「そんなことしてません!…その前に、御影さんたちが入ってきたから」

「あぁそうか、それは悪かった。邪魔をして」

 冷たい目。

「い、いえ、べつに」

「お詫びに、俺が相手をしようか?」

 張り付けたような不適な笑み。

「キスを教えたのも俺だし?…またいかせてやろうか?」

 抑揚のない声。

「……」

「黙ってないで答えろ」

 あくまでも落ち着いた口調。

「俺では不満か?…なら、英先生に教わればいい」

 黙りこくった私に苛立つこともなく、淡々としている御影さんの態度につい哀しくなり、危うく涙がこぼれそうになる。自分を叱咤しそれをぐっと押さえ込んで、彼を睨み付ける。

「そんなことで脅したって、私は引きませんよ!」 

「言うようになったな、ガキが」

「…ガキかどうか、試したらどうですか」

「へぇ、そうか。わかった…ただしもう、引き返せないからな」

 言いながら私の口元に視線を落とす御影さん。

「わかっているんだろうな?」

 じっとりと焦らすようなそれだけでドキドキしてしまう。

「は、はい」

 御影さんの冷たい指の腹が下唇に触れ輪郭をゆっくりとなぞっていく。恥ずかしくて逃げ出したい気持ちでいっぱいなのに、なぜか動けない。声も出せない。

 そして徐々に近付いてきた唇は、触れる直前で止まる。

「やめた」

「え?」

 伏し目がちだった目が私を見る。

「気が変わった」

 御影さんは片頬だけでニヤリと笑うと、ネクタイを緩めながらテーブルの上に腰掛けた。

「俺をその気にさせてみろ」

「は?」

「ほら、何してる?」

「そんなこと…」

「できないのか?君は口先だけか?」

「違います」

「だったら、早くしろ」

 座ったままの御影さんは、自らの膝の上を指す。

「来いよ」

 と手を引かれ、前につんのめるようにして倒れこんだ私は、御影さんの胸に抱き止められた。

「す、すみません」

 促されるままに彼の膝の上に座ってしまったのはいいけれど、こんなにも近くで向かい合い、少しだけ御影さんを見下ろしているこの状況…本当ならもっと見ていたいけれど、見られたくはない。

 逃げようと後ずさった腰を捕まれ、ぐ、と強く引き寄せられると、更に密着度が増す。

「焦らしているつもりか?」

「いえ…」

「俺の肩に手を置け」

「は、はい」

 私にだってできる。

 緊張か動悸かわからないくらいの早鐘で心臓が壊れてしまいそうだけれど、思いきって私から御影さんにキスをする。

 彼の呼吸を感じながらついばむような軽い口付けを繰り返す。

 初めて自分からキスをしたわけだし、私にしては上級テクニックなのに、

「ヘタクソ」

「え?お、おかしいな」

「不合格。ピンクは向いてない」

「どうしてダメなんですか?」

「色気ゼロ。…君はなぜまたピンクをやろうとする?」

「それは…御影さんが」

「また俺のせいか?」

「…そうですよ」

 忘れたいことがあるから。

「自暴自棄になるな。こんなことをしたって何も変わらない」

「御影さんにはわからない」 

「いや、わかる。俺もそうだった。何かを忘れたくて他で埋めようとしても虚しさが増すだけで、少しも消えやしない」

「なに、それ」

 昔女遊びが酷かったと言っていたけど、それは沙奈瑚さんを忘れようと誰かを抱いていたというのだろうか。自分はそうやって痛みをごまかしてきたと?

「痛みより、虚しさの方がいいです」

「そこだよ。君が向いてない理由。ミルクたちはちゃんと危機管理能力がある。自分を守ろうとする力がある。誰かに頼ったり助けを求めたりできる。加減も知っているし話術もあるから、彼女と話したいだけで来る人もいるくらいだ。それに、守るものがあるから。それが自分だったり家族だったり…だから安心して任せられる。君のようにどうなってもいいと思っているような奴には無理だ」

「思ってない」

「思っているだろ。だからこんなことをしているんだろう?なかなかいい眺めだがな」

 はだけた胸元に手を入れられ更に広げられる。

「や、やめてください」

「隠すな。…もっと見せてみろ」

「茶化さないでくださいよ!」

「こんなことで照れているようなら辞めてしまえ」

「嫌です!」

「なぜ?君はもうひとりじゃない。家族ともわだかまりが解け、理解のある友達や英先生だっているだろう?学校にばれて困るようなバイトなんて辞めるべきだ」

「嫌です」

「だから理由を聞いている」

「…会えなくなる」

「は?」

「御影さんに会えなくなる、から。御影さんの役に立ちたいから」

「またそんなくだらないことを」

「くだらなくない…好きだから!」

「…ッ」

 面と向かって、しかもこんなに至近距離で言ってしまった。

「ふざけるな」

 相変わらず冷たい瞳。

「ふざけてなんか、ないです」

「だから一時の感情に惑わされるなと言っ、」

「だから違いますって!!」

 遮るように声を荒げ反論してみてもムダだとわかっている。いつだってその瞳に私は映らないから。

「…この前、俺に聞いたよな…なぜそんなことを言うのかと」

「え?…はい」

「過去に経験があるからだ…一時の感情に負け俺を支えてくれた親友を裏切ってしまいそうになったことがある。でもあの時、思い止まって本当に良かったと思っている。後悔しなくて済んだ」

「……本当にそうですか?」

「は?」

「だって…逃げただけじゃないですか?」

「ガキにはわからないんだ」

「確かにガキですけど、後悔なんてしない。私の気持ちは変わりません」

「うるさい!」

 怒鳴り声が頭に響く。やっと言えたんだからこの際1回も2回も変わらないから開き直る。

「私、御影さんが好、」

「黙れッ」

 塞ぐように口付けられ、再び口を開こうとするのを阻止される。絡み付くような長いキスの後に、

「…だったら、どうしたい?」

「え?」

「もっとキスがしたいか?それとも俺とやりたいのか?」

「御影さん?」

「好きだから、どうした?結婚はしてやれないが、体だけの付き合いなら、いつでも歓迎する」

「な、何言ってるんですか?私、何も求めてなんかない」

「なんだよ、最後に抱いてやっても良かったのに」

「ひどい…でも私、バイトやめませんから」

「君がやめたくなくても、そうなるだろうな」

 またキスをされそうになるのを手で遮る。

「やめてください。ミルクさんたちが来るんじゃ…」

「ミルクは今控え室にいないはずだ」

「え?だったら、何で上谷さんに」

「ミルクはいないが、君を探している者がいる」

「私を?」

 その時、

「瑳ちゃん?」

 部屋の向こうから声がした。ドンドンと戸を叩く音が響く。

「え?もしかして私を探している人って…英先生ですか?」

「そうだ」

 御影さんが小さく呟いたと同時に突然抱き上げられ、畳に押し倒される。

「み、御影さん?」

「俺も雨は嫌いじゃない。でも雨は災害を引き起こすし、誰かの哀しみを呼び覚ましたりもする。…優しいだけじゃないんだ」

 そのまま覆い被さるように口を塞がれる。さっきよりもずっと乱暴なキスに混乱し、反論する暇すらない。

 訳がわからないながらも精一杯彼の胸を押し返す。

「や、やめてください!」

「なぜ?」

「だって、先生が…」

「べつにいいだろ?見せつけてやれば。ほら、口を開けろ」

「やだ…」

「俺が好きなんだろ?」

 抵抗した手を片手で抑えつけられ、完全に身動きがとれない。

 ぐっと強く閉じていたはずの口の中に指を突っ込まれその隙に舌が押し入ってきて、何もかも持って行かれそうになる。

「んッ!んー!」

 いつもと違う御影さんに恐怖心さえ覚える。声が出せないながらも精一杯叫ぶと、バンッと部屋の戸が開いた。

「何してるんだ、怜!」



 今思えば気のせいかもしれないけれど、先生と上谷さんが部屋に飛び込んできて御影さんを引き離す直前、微かに聞こえた気がした。

「俺の中の霖雨は、もう二度と止まない」

 と。

「瑳ちゃん?」

 英先生の声が遠くに聞こえる。

「大丈夫?落ち着いた?」

 固まる私に先生は何があったかは聞かず、体にも一切触れずに声を掛け続けてくれていた。

 自分でも驚くほど冷静に、状況を把握できている。今一度自分の身に何が起こったのかを思い返していたところだったし、大丈夫。

 ゆかりさんに、ピンクでの作法を教えるからこの部屋で待っていろと言われ、そしたら突然襲われて、御影さんに助けられて、それから…御影さんは上谷さんに連れられ会社に戻っただろう。

「あのバカ何を考えているんだか…」

「……がう」

 違うと言ったつもりが、声になっていなかった。何故か次から次へと溢れてくる涙のせいで言葉にならない。気持ちを伝えられないのが悔しくて顔をあげると、

「瑳ちゃん…」

 先生まで泣きそうに顔を歪めていることに驚いた。

「先生…私、大丈夫、です」

「うん」

「御影さんは…悪くないんです」

「うん、わかったよ。だから、抱き締めてもいいかな?」

 しばらくして首肯すると、同時に強く抱き寄せられる。温もりに満ちた先生の腕の中で、更に泣いてしまった。

「瑳ちゃん、僕と結婚しようか」

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