29.願掛がんかけ

「どうした、ゆかり。騒がしいな」

「怜さん!」

「え?御影さん」

 撫子間なでしこのまの前でゆかりさんに説教されているところに、御影さんが小声で入ってくる。

「この子、焼酎と日本酒を間違えて用意してしまったみたいで」

「は?」

「あれだけマニュアル通りに準備するように言ってあったでしょう?」

「で、でもマニュアルには…」

 帯の中に忍ばせておいた紙を取り出そうとすると、

「言い訳はやめなさい」

 マニュアルを奪うように取り上げられてしまった。

 涼風先生は細かいことを気にされる方で、部屋の温度や湿度、座布団の厚さに素材、食事の好みや接客側の言葉遣いなど細々としたことがマニュアルに記してあり、御影さんに言われ何度もマニュアルを確認したはず。

 確かにそこには、【乾杯は日本酒】と書いてあったのに。

「ゆかり、今、中はどういう状況だ?」

「まだ涼風先生には気付かれていません。別の者がなんとか会話を繋いでいますし、今焼酎を下にお願いしたところです」

「そうか、わかった」

 御影さんが、涼風先生とまた仕事ができると喜んでいたのに、そのチャンスを台無しにしてしまうかもしれないというこの状況。

 御影さんに怒られると覚悟するが、彼は私を見ようともしない。

「どうするのよ、せっかく怜さんの名誉が挽回されるチャンスだったのに」

「申し訳ありません」

 ゆかりさんがため息混じりに呟く。当然だ。涼風先生との仕事が駄目になった時の、御影さんの取り乱し怒り苦しんだ姿。

 あんなに感情をむき出しにした御影さんは初めてみた。その辛さをまた味合わせてしまうかもしれないなんて。

「謝って済む問題ではないわ」

「やめろゆかり。今さら言っても仕方ないだろ」

「そうですけど」

 ゆかりさんが怒るのも無理はない。彼女が御影さんのために繋いだ縁なのに、それすら無駄になってしまうかもしれないのだから。

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