28.声音こわね

 倒したグラスが畳に落ちる鈍い音がして、ようやく我に返る。

「え?あ、す、すみません!」

 こぼれたビールが常連客の遠野さんの服にかかってしまい、また迷惑をかけてしまった。

「そんなのいいよ。どうかしたの?ゆずちゃん」

「え?」

「今日は具合でもよくないのかな?」

「いいえ、違います。申し訳ありませんでした」

「そんなに固くならず。いつもの笑顔が見たいだけだよ」

 遠野さんの笑顔につい、気が緩んでしまう。

 バイト中なのに、考えるのはいつもあの人のことばかり。後ろから抱きしめられた時のあの温もりと、耳元で『ごめん』と囁かれた、あの声。

 迷惑だと、はっきり拒否されたのに。でもそう簡単には忘れられない。

 授業も身が入らず、しっかりしなくてはと切り替えて蘭館にきたつもりなのに、さっそくの失敗。

 御影さんも、『瑳』の意味のように私には笑顔が似合っていると言ってくれたのに。



「どういうつもりなの?ゆず」

「すみませんでした」

「お客様に励まされてる場合じゃないでしょう?」

「はい」

 遠野さんたち御一行を見送り、ようやく控え室に帰ってくるなり、ミルクさんに捕まる。

 最近バイトにも慣れ失敗もしなくなっていたのに、久々にミルクさんの説教を聞かされ気持ちがさらに滅入る。

「まぁまぁ、ミルクさん、その辺で」

「あ、すみませんオーナー」

 控え室に入るや否やミルクさんに説教をされていたので気付かなかったけれど、奥にいた女性がソファから立ち上がり近づいてくる。

「今日は新オーナーがじきじきにご挨拶回りをされているのよ」

「え!あ杠葉瑳です。よろしくお願いします」

 新オーナー、と紹介された女性に深々と頭を下げると、

「あなた…」

「はい?」

 頭を上げると、見覚えのある顔。

「私は、王手ゆかりといいます」

「あ…」

「ここのコンパニオンだったのね」

「はい」

「前オーナーの母にかわって私がオーナーになりました。よろしくね」

「はい、こちらこそよろしくお願いします」

 頭を下げ握手を交わすと、ゆかりさんの視線に気づく。

「ゆずさんだっけ?あなた可愛いわね。…今ピンクコンパニオンの人手が足りなくて困っているのよ。やってみる気はない?」

「え?…いえ、私には無理です」

「そんなことないわ」

「ゆかりさん、ゆずには向いていないので、やめさせたんです」

 ミルクさんも助けてくれる。

「大丈夫よ。色々教えてあげるから」

「ですが…御影さんもゆずには無理だと」

「怜さんが?…今までは母が怜さんやミルクさんに任せていたかもしれないけれど、今度は私が責任を持ってやるから安心して」

「はい…」

 どうやって断ろうか考えていると、控え室のドアがノックされ、

「ミルクはいるか?」

 御影さんの声がする。

「急ですまないが、ちょっといいか?」

「はい」

 とミルクさんがゆかりさんに一礼し、入り口へと走っていった。呼ばれていないのにゆかりさんも私も御影さんの声にいち早く反応してしまっていた。つい目で追ってしまう癖をなんとかしなくては。

「ゆずさん、その事考えておいてね」

 こそ、と耳打ちするように言って、ミルクさんと御影さんが話しているところに、堂々と割り込んで行ったゆかりさん。

「ゆかりも来ていたのか」

「えぇ、ご挨拶に」

 確かに前まではオーナーの代わりに御影さんやミルクさんが人選や教育をしていたから、私にはピンクなんて無理だと言っていただけで、御影さんが私を心配してくれての事ではない。

 ブルーローズの経営に関わらなくなった今、私がどうしようと御影さんには関係がないこと。

「ねぇ、聞いてるの?ゆずさん」 

「え?す、すみません。オーナー」

 ぐちゃぐちゃと考えていたせいで、話をふられていたことにすら気が付かなかった。

「だから、明日もバイト入れる?って聞いたんだけど」

「明日は…何もないので大丈夫です」

「涼風先生の接待が急に明日に決まったものだから、ミルクさんが出られないらしいの。だからゆずさん、よろしくね」

「え?」

 ミルクさんを見ると、申し訳なさそうに手を合わせている。御影さんは少し苛立ったように大きなため息をつく。

「ゆかり、これは本当に失敗できない大事な接待になるんだ。ゆずでなくてもいいだろう?」

「大丈夫ですよ。マニュアルもありますしね」

「そういう問題では…」

「すみません怜さん、お得意様への挨拶回りの途中ですので。ミルクさん、そろそろ時間よ」

 ゆかりさんは淡々と話を進め、御影さんの意見も聞かずにミルクさんを連れて部屋を出ていってしまった。

「瑳、俺はもう口を出せないが、嫌ならしっかり断った方がいい」

「いえ、大丈夫です」

「そうか…涼風先生用のマニュアルは、しっかり読んでおけよ」

「はい。先生とまたお仕事されるんですね」

「あぁ、ゆかりが先生との誤解を解いてくれたおかげで、またうちで書いてくれることになったんだ」

「ゆかりさんが?…すごいですね」

「ま、社長令嬢と言っても、ゆかりは肩書きだけでなくしっかりと学歴や社会経験もあって人望も厚い」

「そう、ですか…」

 なぜか、胸がチクリとした。

「では明日、頼むな」

「…はい」

 やっぱりダメだ。この声は反則だよ。

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