27.溢想あふれるおもい
慌てて自転車を停め、何も持たずに病院の裏口から入り廊下を速足で進む。直接病室に向かうには裏口の方が近い。
突き当たりの自動販売機を右折したところで、ちょうど開いたばかりのエレベーターに乗ろうかと一瞬迷ったけれどすぐ隣の階段を選択した。体力に自信があるわけではないが1段飛ばしで階段を駆け上がる。
『2階の西病棟211』
エレベーターとほぼ同時に2階に到着し、わらわらと降りてくる人たちを横切ってすれ違った看護師に軽く会釈してから、言われた病室に飛び込んだ。
「御影さんっ!」
「あ…」
ノックもせずにいきなりドアを開けた私が悪いのかもしれないけれど、慌てて駆け込んだ私を見て明らかに気まずそうな顔の彼。
ベッドに横たわり点滴に繋がれ痛々しい姿なのに反対の手はちゃっかり看護師の手を握っているではないか。
「やぁ」
「…やぁ?」
若い看護師は顔を真っ赤にしながら「失礼しました」と病室を出て行った。
「あ~あ」
残念そうにドアを見つめている御影さん。
「ところで君は…どこの店の子だっけ?」
「はい?何を言っているんですか?…御影さん、ですよね?」
「そうだよ?」
御影さんにしては緩慢な話し方だし、頓狂なことばかり言う。そういえば、あの御影さんが「やぁ」なんて言うだろうかと首を傾げた時、
「バカか君は?よく見てみろ」
「ん?」
背後からの暴言に驚いて振り返ると、ベッドにいたはずの御影さんが私を睨んでいる。
「え?み、御影さんがふたり?」
「あんなのと一緒にするな」
あんなのと言われた彼は、ニコニコ笑顔で手を振っている。
確かに、ふたりを見比べてみると、どこか違う。
「あいつは、俺の兄」
「え!お兄さん?すみませんでした。…あ、今朝お子さんが生まれたそうですね?おめでとうございます」
「ありがとう、元気な女の子だよ。…怜、ずいぶん可愛らしい婚約者だね」
「違う」
「僕を心配して来てくれたのかい?」
「え…っと…」
さっきは気が動転していたし、御影さんだと思い込んでいたからちょっとした違和感だけだったけれど、ふたりが並ぶとあまり似ていない。
顔のパーツは同じようだけれど、トータル的に兄の煉さんの方が奥二重でガタイがいいし、性格も明るくフレンドリーな感じ。
「瑳はどうしてここに?」
「えっと…」
答えに戸惑っていると、
「瑳ちゃん!やっぱりここにいた」
息を切らしながら飛び込んできた英先生が代わりに答えてくれる。
「僕が瑳ちゃんに連絡したんだけど…何を勘違いしたのか途中で電話が切れて…それから繋がらないし。まさかと思って来てみたら」
「英先生!すみませんでした。御影さんが倒れたって聞いて、びっくりしちゃって」
恥ずかしくて御影さん(どっちも)を見られない。
「遅かったな、
「悪かったよ」
一瞬誰の事かと思ったが、英先生の本名だ。瀬戸瑛という名は聞いていたけれど、実際そう呼ばれている先生を見たことがなかったから新鮮だった。
「じゃあこの子は僕と怜を間違えて飛んできたの?可愛いね~」
「あ、いえ…」
「じゃあ僕のことは煉って呼んでね。瑳ちゃん」
「え?あ、はい」
「煉!瑳ちゃんにちょっかい出さないでよ」
「わかってるよ」
英先生と煉さんは、互いを名前で呼びあっていて驚いたけどそういえば幼なじみだって言っていたし、当然か。
そのやりとりをつまらなそうに傍観している御影さん。だんだんイライラしてきたのか、タバコが入っているだろう上着の内ポケットに何度も手を入れては引っ込めてを繰り返していた。
「で?非常に元気そうな煉が、先生と俺に何の用?」
「ひどいな~怜は」
「用がないなら帰る」
「たったひとりの兄ちゃんが心配じゃないのか?」
「ない。俺は暇じゃ、」
御影さんが声をあらげようとした時、
「「れいとあきらだ!」」
ふたつの声が重なって聞こえた。
「え?」
全く気づかなかったけれど、声の方を見ると、部屋の奥のソファに同じ服装、同じサイズ、同じリズムで足をパタパタ揺らしている男の子たちが同じ顔で笑う。
「
「「うん」」
たたた、とふたりが走ってきて御影さんの両側を陣取ると同じタイミングでぎゅーっと抱きつく。
か、かわいい…
「子どもの前で看護師口説こうとしてたのか、煉」
「違うよ怜、そー怖い顔するなよ」
あはは、と苦笑いの煉さん。
「煉さんは、どうされたんですか?」
「あ~瑳ちゃんだけだよ、心配してくれるの」
ありがとう、と私の手を握った煉さんだったが、英先生の怖い顔に気付いてすぐに離し、咳払いをしてから話を切り出す。
「双子が生まれた時は海外にいたから間に合わなかったんだけど、今朝ね、初めて妻の出産に立ちあったんだ。…でもね、あまりの凄絶さに僕の方が倒れちゃって。帰国したばかりで疲労が溜まっていたこともあって、入院することになっちゃってね。…だから郁と颯を1日預かってくれないかな?」
「「はぁ?」」
双子ちゃんみたいに、先生と御影さんの声が同調する。
「無理だよ、僕は締切近いし」
「俺だって…無理だ!」
ふたりが煉さんに抗議をしている間、双子ちゃんたちの顔が徐々に曇ってくる。
泣き出しはしないが手を繋ぎ、淋しそうな目で英先生と御影さんを交互に見ていたふたりがなんだか可哀想になってくる。
「お姉ちゃんの家に来る?」
すると双子ちゃんたちの表情がパッと明るくなり、まんまるパッチリおめめが輝く。
「瑳!そんなわけにはいかないだろ」
「どうしてですか?」
「ガキにガキは預けらない」
御影さんが怒ると双子ちゃんはいつの間にか私の両サイドに収まり、私を盾にして御影さんを睨み付けている。
「「さながいい~」」
あれから、英先生が「僕が瑳ちゃんとふたりで面倒を見るよ」と言い出したのを、御影さんが慌てて止めて、「わかった。うちで預かる」と、しぶしぶならがら承諾。食事だけはずっとコンビニというわけにもいかないので私と先生が担当するに落ち着いた。
しかし先生には仕事をしてもらわないと困るからと、執筆を優先させるよう説得していた御影さん。私は夕飯の買い出しをしてから御影さんのマンションで合流することになった。
ところが双子ちゃんの好物を聞いていなかったため、御影さんに電話をかけたけれど一向に出てくれない。
まぁカレーなら間違いはないかと、甘口と辛口を両方買った。
御影さんのマンションに入ったのは2回目だけれどあの時とはまた雰囲気が違って明るく、物が増え同じ部屋とは思えなかった。
「瑳、もしかして電話した?」
今さらスマホの着信に気づいた御影さんが悪びれた様子もなく聞いてくる。
「はい、何回も」
「何か用だった?」
「双子ちゃんの好物がわからないので電話したんですけど…ふたりともカレー好き?」
「「うん、だいすき」」
相変わらずナイスタイミングの回答をするふたり。同じ顔すぎてどっちがどっちだか自信がない。
「カレーか…甘口…だよな?」
「はい。あ、でも御影さんと先生用に辛口も作りますから」
「そうか…悪かったな瑳。巻き込んで。先生に預けるわけにはいかないからな」
「いいえ、ふたりがとても可愛いので、むしろ一緒にいたいです」
「「さなぁ~」」
声だけでなく、動きまでもシンクロしながら抱きついてくるふたり。
「飛びっきり美味しいカレー作るからね」
御影さんがふたごちゃんたちの相手をしてくれている間に夕飯の支度をする。
いつもは自分のためにしか料理をしないし、誰かのために作るなんて初めての事で、ましてや御影さんのために。できるだけ意識しないように、なんて無理だけれど、いつものように普通に作れば大丈夫と何度も言い聞かせた。
その時、インターホンが鳴る。
「あ、先生だな。瑳出てくれないか?」
「はい」
リビングから玄関へと急ぐ。
意外と早かったな、と確認もせずにすぐにドアを開けると、
「 あれ?」
しかしそこに立っていたのは、賢そうな眼鏡をかけたスタイルの良い大人の女性。整った笑みが一瞬で消えた。
「あなた、誰?…ここで何してるの」
「え…」
こんなキレイなお姉さんは知らないけれど、どこかで聞いたことのある声。彼女が長い髪をかきあげるとふわりとバラのような香りがした。
「怜さんは?」
「えっと…」
たぶんこの前インターホン越しに声を聞いた婚約者さん。
「あの…私、杠葉っていいます。えっと、御影さんの甥っ子さんたちのお世話をすることになって…今、夕飯を‥」
「意味がわからないわ。あなた、怜さんの、何?」
「え…と、友達、です」
「は?」
だって上司でも先輩でもない。もちろん恋人でもない。キスはしたことあるけど。
「おい、瑳?いつまで玄関に…」
「あ、怜さん!」
御影さんがリビングから出てきて顔を出した途端、彼女に捕まった。御影さんも先生が来たと思いこんでいただろうから、一瞬固まったようにも見えた。
私がいたのはきっとマズかったのだろう。
「ゆかり…」
「 電話しても出ないから心配で」
さっきの彼女と明らかに声が違う。何トーンも上がったように感じる。
「あぁ、気付かなかった」
「これ、どういうことですか?」
「突然甥っ子を預かることになって…英先生と彼女が手伝いたいと言うものだから」
「え?」
ずいぶん話が違うような。
「そーなんですかぁ?でしたら、私を呼んでくださればいいのに」
「預かるのは明日の昼までだし、ゆかりの手を煩わせるほどでもない」
「ですけど」
「これから英先生もいらっしゃるから」
さっきから、リビングで御影さんを呼ぶ声が聞こえる。ふたつ重なって「れ~い~?」と探している様子。
それを知ってもなお、引き下がろうとしないゆかりさんに、
「また、連絡する」
とだけ言い、私を置いてリビングに戻ってしまった御影さん。
「…だから、ガキは嫌いよ」
「え?」
「いいえ。…そーいえばこのニオイ…まさか、カレー?」
「はい。子どもはカレーなら間違いないかと」
「ふーん」
御影さんを見つめる表情とは打って変わって、私を見定めるような冷ややかな眼差し。
「あ、でもちゃんと英先生と御影さん用に辛口も用意しましたよ」
「え?あなた友達なのに怜さんの好みも知らないの?」
「怜さん甘党なのよ」
「え?そうなんですか?コーヒーはブラックだったと思うし…あまりそんなイメージがなくて」
「カレーは甘口が好きなのよ。ま、恥ずかしがってそう言わないかもしれないけれど…あ、ほら甥っ子さんの前じゃ余計にね。あたなだけに教えたんだから、怜さんにも私が言ったって言っちゃダメよ」
「はい、ありがとうございました」
ゆかりさんが帰ってすぐ、英先生から、遅くなりそうだから先に食べていてくれと連絡があった。
意外と良い人そうなゆかりさんのアドバイス通り、内緒で御影さんの分も私たちと同じ甘口のカレーを用意した。
子どもたちふたりは、おかわりまでして喜んで食べてくれたし一安心していると、御影さんのスマホが鳴る。仕事の電話なのか、丁寧な口調で話ながら廊下に出て行った。
「ふたりとも、カレー美味しかった?」
「「うん」」
「そっか。良かった~」
「ママのカレーの次においし~」
「ありがとう。ママのだったら御影さんももっと美味しそうに食べてくれたかなぁ?」
「うーん。れいはカレー食べないからね」
「そーだねー」
双子ちゃんたちが、ひそひそと会話をしている。
どっちがどっちか未だによくわからないけれど、
「もしかして御影さんって…カレー嫌いなの?」
「うん。前うちに来た時、間違えてぼくの甘いカレー食べて吐きそうになってたよね」
「うんうん。辛いのじゃないと食べないよね」
ふたりは顔を見合わせてくすくすと楽しそうに笑っている。
「うそ…どうしよう」
御影さんのお皿にはまだ半分ほどのカレーが残っている。美味しいと言ってくれたけれど、どうりでペースが遅いなとは思った。
しばらくして電話を終えた御影さんが部屋に戻ってくる。
「あれ、ふたりは?」
「見たいアニメがあるそうで、奥の部屋に行っちゃいました」
「そうか」
「…御影さん」
「ん?」
「何で、言わないんですか?」
「何を」
スマホをズボンのポケットにしまいながら、私の隣に座る御影さん。きっと気合いを入れて残りのカレーに手をつけようとしているんだろう。
「もう、いいですよ!」
「は?」
「カレーキライなんですよね?特に甘口。何で、言ってくれないんですか」
「あーいや、キライではないが…これはやはり甘口か?」
「ご、ごめんなさい…間違えてしまって」
ゆかりさんに教えてもらったなんて言えない。きっと彼女も勘違いをしていたんだろう。
「間違えた?」
「はい。すみません」
「そうか。これでも辛口なのかと思った」
「違います」
「…ゆかりに何か言われたんだろ」
「え?あ、いえ…」
「そうか」
「…御影さんにはいつも助けてもらっているから、今回は少しでも役に立てればなんて、勝手に、思って…なのに、やっぱりダメでしたね。ごめんなさい」
「謝ることはない。思っていたのと違って最初はむせたが、これなら甘口も克服できそうだ」
「嘘つかないでくださいよ…いつも厳しいくせに」
「そんなことはない。いつも優しいだろ?」
「え?…はい」
「なんだその間は」
結局カレーは残さず食べてくれたけれど、きっと無理をしているんだろうなと思った。
御影さんは冷えたビールをほとんど流し込むように飲みながら、キッチンで後片付けをしている私に手招きする。
「もういいから、座れよ。洗い物までさせて悪かったな」
「いいえ、双子ちゃんたちとも仲良くなれてよかったです」
「その割には物憂げだな」
「え?」
促されて隣に座ると、御影さんの匂いがした。
しばらく一緒にいるといつのまにか馴染んでしまっていたけれど、一度離れるとまた改めて鼻腔をくすぐられる。香水なのか体臭なのかわからないけれど好きな匂い。そこに染み付いたタバコとアルコールの匂いが交ざっているけれど、子どもたちがいるせいか、部屋では一度も吸っていない。
ビールを飲みながらテレビをみている御影さんがいて、彼をこんなに近くで見ていられる私がいるなんて。信じられない。
「なんか、御影さんが結婚したら、こんな風に旦那さんやってやがてはパパになるのかって思ったら…喜ばしいことなのに、なんだか…」
素直に喜びたくないような。
「なんだよ、急に。俺には子どもなんてとても考えられない」
「でも双子ちゃん御影さんになついてますよ」
「それは兄の子だし、少しの間一緒にいるだけなら平気だが」
「そんなことないですよ。女の子だったら御影さんきっと溺愛して離さないんだろうな」
「どうかな…」
くだらないとでも言いたげに鼻で笑うと、またビールをぐいぐいと飲み干した。
「そーいえば…この前君に言われたこと、結構刺さってるんだけど」
「え?」
「誰も好きになろうとしてない、って」
「あ…すみません。そーいうつもりじゃ…」
「いや、いいんだ」
御影さんは、扉を半分ほど開けてある奥の寝室に時々目をやり、双子の様子を伺いながら話し出す。
「あまりに的確なことを言われて驚いただけ」
「的確?」
「そう。べつに結婚をしたくないわけでもないけど、まわりには心配されるからとりあえず見合いさえしていれば兄貴も安心だろうなんてどっかで思っていた…君の言うように、また誰かを想うことなんてできるはずがないと、はなから思っていたんだろうな」
やっぱり。
でも御影さんはちゃんと前を向いて歩き始めた。
「ずっと訂正したかったんだが…俺が今でも
「そうなんですか」
病院で、御影さんが沙奈瑚さんを見ていたあの表情…決して他の人には見せない顔。
「確かにあの頃は、彼女が好きだった。既に兄貴のものだったけど…なんとなく生きていた平凡な日常に意味が生まれ、俺のすべてになった」
御影さんは、顔色ひとつ変えずにビールをもうひとつ空にした。
「だ、大丈夫ですか?もうやめた方が」
あまりの饒舌さに驚き、またお酒の力を借りて傷をごまかしているように感じて不安になる。
「大丈夫だ。あいつらもテレビに夢中だし」
「いえ、そうじゃなくて、…無理に話さなくても」
それだけじゃなく、きっと聞きたくはないから。
わかっていたけど、はっきりと言葉にされると、辛い。
「もう先生から聞いているかもしれないが…ちゃんと自分で瑳に話したかった」
「御影さん…」
決して私を見ないけれど、その瞳は実直。嘘偽り、お酒による勢いなどではないとわかる。
わかってしまう。
「義姉への感情をコントロールできず自暴自棄になっていた頃、俺を支えてくれた親友がいたんだ。前の会社で色々あって仕事を辞めこっちに引っ越してくる時、彼らとも疎遠になった。そして今度は仕事が生き甲斐になった」
「それってもしかしてこの前私を助けてくれた紳士なお兄さんですか?」
「あぁ、そうだ。そいつとその彼女に、ずいぶん助けれた」
「そうだったんですね」
「あぁ。それなのに、この前仕事でトラブルまで気づかなかった…ひとりで生きてきたように意気がっておきながら、今までもそうやって誰かに助けられ何かにすがって生きてきたんだと」
「御影さん?」
「俺には仕事しかないのに、それまで失ったらと考えたらゾッとして、今度こそすがるものがなくなるって…君にも八つ当たりして、悪かった」
「いいえ」
御影さんは、ようやく私を見て自嘲気味に微笑んだ。徐々に酔いが回ってきたのか、ビールを片手に目だけは鋭く怒っているようにも感じる。
「でも今は…幸せなんですよね?」
「幸せかぁ…その概念がよくわからないけど、まぁそうなんだと思う」
「思う?ってなんですか?幸せだって言いましたよね?はっきり」
だから私は、忘れようって決めたのに。
「ああ、言った。でも、愛や幸せなんて人それぞれ価値観が違うだろ?一生独身だろうが離婚直後だろうが、本人が幸せだと感じていれば幸せ。まわりが決めることじゃない」
「そうですけど」
だから私は、気持ちを封印したのに。
「俺は兄たちの喜ぶ顔を見て、これが幸せかと感じた。俺の結婚なんかで誰かを笑顔にできるのかと。これでやっと引け目を感じず義姉とも話せると」
「そんなの…違うっ!」
そんなのは幸せなんかじゃない。
確かに御影さんの幸せは、誰かが決めるものじゃないけれど。
「あの時御影さんが幸せだって言わなければ…」
私は…
「言わなければ?…なんだよ」
鋭い目つきが更に、じとっと見下すように私を見る。
「英先生に抱かれなかったとでも?」
「え…」
一瞬頭をよぎっただけの考えを見透かされた上にはっきりと口にされ、あまりの恥ずかしさに何も言い返せない。
はっきりと覚えていないけれど、少なからず先生に気を許した。抱かれた云々ではなく、僅かでも先生に寄りかかったという事実。傷つく度に暖かい拠り所を探してしまう感覚に、慣れてしまっているのだと気づかされる。
「ち、違います!そんなこと…」
「大丈夫。俺は幸せだ」
今度は嘘みたいに優しく笑って断言した時、
「「どうしたの?」」
空いた戸の隙間から同じ顔がふたつ。
「あ、ごめんな、ふたりとも」
「「ケンカしてるの?」」
「違うの。ごめんね」
私が大きな声を出してしまったせいで不安にさせてしまったふたりを御影さんは優しく宥める。
「大丈夫だから」
「「じゃぁなかよし?」」
「そうだな」
柔らかい微笑み。
それが私に向けられることはないんだろうな、と思ったその時、またインターホンがなった。
今度はちゃんと確認してからドアを開け、英先生を招き入れた。
「ごめんね、遅くなって」
彼は、仕事をひとつ終わらせてきているのに疲れた顔ひとつ見せずに急いで食事を済ませると双子ちゃんたちの遊び相手になっていた。
御影さんは双子に遊ばれている感じだったけれど、先生はちゃんと子どもたちの目線になり、馬になったりエンドレスじゃんけんや鬼ごっこなどで楽しそうに遊んでくれている。
「やっぱり先生は人気ですね」
「さすがだな」
御影さんは感心したように言った。
「ガキの頃俺も遊んでもらっていたし」
英先生が来るまでてんやわんやでなんとか食事まで終えたけれど、先生は来てからものの数分で双子の心をつかんだ。
「「あきらとおフロ入る~」」
「ダメだ、先生に迷惑をかけるな」
「「じゃぁ、さなと」」
「もっとダメだ!」
「「えーれいはやだぁ」」
「なんでだよ」
まさかの拒絶にへこむ御影さんもちょっとかわいくて貴重。
「大丈夫だよ怜、僕が入れるから。瑳ちゃんも一緒だともっといいんだけどな」
「え!」
「先生!子どもの教育上どうかと思います」
「そんなに怒るな。ジョークだろ?上がる頃合図するから着替えの手伝いだけ頼むわ」
「それにしても先生が元気そうで良かったな」
「そうですね」
御影さんが煉さんの家から適当に詰めて持ってきた大きめの旅行カバン。適当すぎてどこに何が入っているのかわからないそこから、子どもたちのパジャマを探していると、リビングに先生の布団を敷き終えた彼が安心したように言った。
「あの本を最後にもう書かないって言い出しそうで、内心ビクビクしていた」
「私もです」
「君のお陰だ」
「違いますよ。私は何も」
「そんなことはない。君と付き合うようになってから本当に明るくなった」
「いえ、付き合ってるというか…」
「先生は君のことをとても大事に思っているようだから」
「でも私は、」
「だから!これからも…先生を頼む」
「え?」
またもや言葉を遮るように言われて、気づく。彼はもうわかっている…私が何を言おうとしているのか。
わかった上で、私の気持ちを知った上で先生を頼むだなんて。
私の気持ちに答えてくれなんて言うつもりはないし、何かを期待しているわけでもないのに…言わせてもくれないなんて。
「君は双子たちと寝室を使え。俺はソファで寝るから」
「ベッド?」
ほぼ新婚さんの家のベッドを使えと?
「…嫌です」
「さっきあいつらがベッドでテレビを見ていたから散らかっているが、心配するな。結構綺麗にしているから」
寝室のドアを開けて中を確める御影さん。
そー言う問題じゃない。
冗談目かしてごまかすなんて、ひどすぎる。確かにベッドはちゃんと綺麗にされていて清潔感もあるけれど、誰と一緒に寝ているベッドなのか、誰が掃除したのだろうかと考えるだけで、胸の辺りが重くなる。
キッチンに立った時も御手洗いに行った時も、感じさせられた彼ではない別の誰かの存在。
ましてや寝室なんて。
「絶対、嫌です」
「なぜ」
「べつに」
「ガキみたいなこと言うな」
「…無神経」
「なら…先生と一緒にリビングで寝ればいい」
「…ひどい」
もう顔を見ていられなくて、見られたくなくて、彼に背を向ける。
「どうして平気でそんなこと言えるんですか」
私の気持ちを知っているくせに。
「……言えるんだよ、大人だからな」
「最低」
「だな」
「でも私…それでも、御影さんのことが、」
「だからッ!」
突然後ろから肩をすごい力で引っぱれ、倒れる、と思った時には、御影さんの腕が首に回されていて、
「み、御影さん?」
強く後ろから抱き締められたせいで再度言葉を奪われた。
「黙れ」
「なんで…言わせてもくれないんですか?…私、何も求めたりしないのに」
「いいから…何も言うな」
御影さんの吐息が耳元に触れる。
「頼む」
ボソっと呟いた御影さんは、お風呂場からの呼び出し音が鳴っても離れようとはせず、大きなため息をひとつ。
「御影さん?…先生が、呼んでます」
回された腕を振りほどこうにも、強い力でびくともしない。
「御影さん?」
「君がまだ大切な物を失くしてなくてよかった…」
「え…大切なもの?」
この前宴会で飲みすぎていた時も御影さん言ってたな。やっぱり今日も酔っているんだろうか。
「心だよ。あのバイトでどんどん失くしていくんじゃないかと思っていた。でも君はまだ、泣くことも怒ることもできる。だから…」
と、御影さんは言葉を詰まらせる。顔が見えず、表情から彼の気持ちを伺うことはできない。
「御影さん?」
「だから…きっとまた誰かを想うことだって…」
「それって、どういう意味ですか?」
「
「え?」
御影さんを好きな気持ちは一時のものじゃない。惑わされているわけじゃない。
「違います!」
「君なら、大丈夫」
「嫌です…どうしてそんなこと言うんですか」
この気持ちがなかったことになんてできない。したくないのに。
「迷惑なんだよ」
「え…」
「もうわかっているだろう?俺は仕事のためならなんでもする…だから英先生に執筆してもらうために、君を利用した」
「…はい」
「これからもまた利用する。ただ、それだけだ」
表情はわからないけれど、囁くような低い声。そんな甘い声で「ごめん」と言われたら、
「わかっています」
なんとかそう絞り出すだけで、精一杯だった。
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