20.秘想ひめるおもい
すべてが終わり、私のやるべきことはやりつくした。後は合否を待つだけ。
兄と約束し仕方なく大学進学を目指したが、今は少し目標みたいなものが出来つつある。その為にはまず大学に合格しないと。
今日は久しぶりのバイト。
新年会などは落ち着いたみたいだが、これからは歓送迎会が増えてくる。
「久しぶりだね、ゆずちゃん」
顔馴染みの作家さんや王手社だけでなく、他の会社の方も私を覚えていてくれた人が声をかけてくれて嬉しかった。
「最近見かけないからやめちゃったかと思ったよ」
「いいえ、これからもよろしくお願いします」
「今日はいつもの飲み仲間じゃなくて、部下を連れてきたんだ」
「そうなんですか?ありがとうございます、遠野様。あ、だからスーツなんですね」
「そうそう。部下に子どもが生まれてね。そのお祝いも兼ねて」
おじさんなんてみんなろくでもないエロ親父だと初めは思っていたけれど、中には友達のように愚痴りたいだけの人、話をしたいだけの人や私の話を聞きたがる人など、とても良い人もいる。
「そーいえば、主役がまだだな。まぁ…先に始めているか」
「わかりました。ご用意致します」
笑顔で一礼して顔を上げた時、おじ様のスーツの胸元に見覚えのある小さなバッチが目についた。よく見ると部下たちも同じものがついている。
「あれ?遠野様…弁護士先生でいらしたんですね」
「そうなんだよ。ウチは駅前でちょっとは有名だから信用はあるよ。何かあればいつでも言ってね」
「そうなんですね。ありがとうございます」
再度一礼して、一旦部屋から出る。
彼は今、駅前と言わなかった?
駅前の大きな弁護士事務所なんて、ひとつしかない。
しかも子どもが生まれたばかりの…
「椿の間はこちらでございます」
後ろで女性の声がして振り向くと、その女性に深々と頭を垂れる男性がひとり。
やっぱり!
「ありがとうございました」
と、男性が頭をあげる前に急いでその脇を早足で駆け抜けた。彼に見つかる前にとりあえず逃げて、今日の仕事は誰かに変わってもらおうと思ったのに、
「…瑳?」
切り抜けたはずの後方から私を呼ぶ声。知らないふりをしてそのまま行ってしまえば良かったのに、体が反応して足が止まってしまった。
「瑳、だよな?」
やっぱり、兄の声だ。
「…いえ、違います」
無理があるとはわかっているけど、なんとかごまかせたりはしないかと。
「失礼します」
冷静を装って、その場をゆっくりと離れる。曲がり角を過ぎてからは、とにかく走った。はしたないからやめなさいとミルクさんに何度も注意されたのに、今はそんなことを考えてる場合じゃない。
どうしよう。兄にバレたら…
でもブルーローズの控え室は反対方向だし、階段もまだまだ先だ。とにかく隠れようと空き部屋を探していると、
「あ」
突然部屋のドアが開き、出てきた人と出会い頭にぶつかった。
「す、すみません!お怪我は」
「いや、大丈夫…って、ゆずちゃん?」
「あ、上谷さん」
「どうしたの、そんなに急いで」
「あの…えっと、」
まだ後ろから追ってくる様子はないが、時間の問題だろう。
「廊下は走るな」
上谷さんに続いて中から御影さんが顔を出す。
「み、御影さん!」
見知った顔がふたつ。まだ危機は去っていないのに何故か安堵してしまい、涙が溢れそうになる。
「御影さん…助けて」
泣かないように踏みとどまっても声が震えてしまう。
「ち、違いますよ御影さん!俺まだ何もしてませんからね!」
「は?まだ、って何だよ」
おろおろする上谷さんと、相変わらずぶっきらぼうの御影さん。他にも何人かの人が出てくる。
「上谷、先に戻って編集長に報告しといてくれ」
「え?俺がですか?御影さんは?」
「いいから!」
「わ、わかりましたよ」
強めの口調に押されて、上谷さんはしぶしぶみんなを連れ会社に帰って行った。
「会議はもう終わったから、入れ」
御影さんに言われるままに、彼らが今出てきた
「ありがとうございます」
「何があった?」
「えっと…まさか、こんなところで会うなんて…どうしよう…」
「瑳、落ち着け。誰がいたんだ?」
「…兄、です」
「あぁ、頭が上がらない兄さんか」
「はい。どうしよう…」
それからすぐに部屋の外から私を探す声が聞こえてきた。名前を連呼しながら近づいてくる。
「これじゃぁ隠れていても仕方ないな」
「え?」
「適当に嘘をついておけ。仲居のバイトを始めたとでも言えばいい」
「そうですけど…」
「実際今はピンクもしていないし、問題ないだろ」
「でも…」
「あの人を巻いたところで君を呼びながら歩き回られたら傍迷惑だろ」
「確かに…そうですね」
このまま放っておいても粘られそうだ。ちゃんと向き合うしかないとわかっていても、勇気がでない。
こんな私を知られたくない。
こんな嘘だらけの人間だと知って、今以上に嫌われたくない。
良い子の私でいたかったのに。
「話してきます」
「俺も行こうか?」
「いえ!御影さんは顔を知られているし…大丈夫、です」
自分に言い聞かせて、一呼吸置いてから部屋を出る。
するとすぐに、
「瑳っ!」
兄が突進してきた。
「やっぱり瑳じゃないか!何をしているんだ、どうしてこんなところにいるんだ」
「兄さんごめんなさい。な、仲居さんのバイトで…」
「はぁ?聞いてないぞ、本屋じゃなかったのか」
「えっと…」
「まさか!うちの社長が言っていた、お気に入りのコンパニオンのゆずって…まさか瑳、お前のことか?」
「え…」
社長って遠野さんのことか。そこまで話していたとは。
「ふざけんな、あのクソダヌキ。瑳、何された!」
「ち、違うよ。遠野さんは本当に良い方です。嫌なことはしないし。お酒をこぼしても笑って許してくれて、」
「やっぱりコンパニオンしてたんだな」
「え!あ、すみません」
「子どもが生まれたら勉強に支障があるから一人暮らしも許した。息抜きにバイトも許したのに、なんでこんなこと…」
「ごめんなさい」
「謝ってばかりじゃわからないだろ!」
兄の声が徐々にボリュームを増していく。さすがに他の客室まで聞こえてしまいそうだと心配した時、
「お取り込みでしたら、中でどうぞ」
と菫間の戸が開いた。
「とりあえず、人目もありますから」
と、御影さんの一言で少し冷静になったのか、兄は大人しく個室に誘導された。
座るように促されたがそれには従わず、私から目を離さないように睨み付けている兄。
「説明してくれよ、瑳」
「母さんと兄さんには迷惑をかけるつもりじゃなかったのに…」
「そんなことを聞いてるんじゃない!なぜ嘘を付いてまで、こんなこと」
「……」
「瑳、ちゃんと言いなさい」
コンパニオンがやりたかったわけじゃない。たまたま誘われたバイトがコンパニオンだったというだけだけれど、私の中の何かが変わることを期待した。
良い子の型にはまっていた私が、このバイトをしていろんな人に出会い、今までずっと窮屈でたまらなかったんだと気づいた。
兄に本当のことを言ったところで私の気持ちなどわからないだろう。
「瑳!」
「あなたが原因なんじゃないですか?」
今まで黙っていた御影さんが、急に会話に割り込んでくる。
「は?何だって?」
「あなたが彼女を理解しようとしないから」
「御影さん!やめてください」
「みかげ?」
兄は睨む相手を私から御影さんに変え、今にも掴みかかりそうに凄んだ。
「そーいやあんた!どっかで…」
「あ、バレました?…俺が誘ったんです」
「え?」
「ただの仲居として働いていた彼女をそそのかして」
「は?」
「兄さん、違うの」
「性的なサービスもすればもっと稼げるって」
「なッ!せ、性的だと?」
「御影さん!」
確かにそういう方向に行きかけたのは事実だけれど、御影さんは関係ない。
「せっかく誘ってやったのに何度も断られて、だからあの日病院まで追いかけて行ったんですよ」
「何で、瑳に、そんなこと」
「何でって…」
「御影さんもうやめてください!」
「もったいないからですよ」
「何?どういう意味だ!」
「兄さん!」
御影さんは兄に胸ぐらを捕まれても怯まないどころか、楽しそうに笑う。
全部違う。全部嘘なのに、私はどうしてすぐにそう言わないでいるのだろう。
私が黙っていれば、あわよくば誰かのせいにして逃げられると思っているから?
間違っているとわかっているのに、これ以上兄に嫌われたくないと思ってしまう。
「に、兄さんやめてよ。違うんだって…」
「瑳は黙ってろッ」
力いっぱい兄の体を引き離そうとしてもびくともしない。兄は激昂して自分の立場を忘れている。
下手したら職すら危ぶまれるというのに兄は御影さんを掴み上げる手を離そうとしない。
かざした拳は辛うじて抑えているという様子だったのに、不適に笑う御影さんが兄に耳打ちをするように顔を近づけ、
「だって妹さんってすごく…」
と更に小声で何かを言った時、
「お前!ふざけるなッ」
「ッ!」
御影さんが頬を押さえて倒れこむ。明らかに平手で打ったような乾いた音じゃなかった。瞬間は見えなかったが、鈍く低い音。
「兄さん!」
兄は尻餅をついた御影さんに更に掴みかかろうとする。
「やめて!…やめてよ兄さんッ!」
三度叫んでようやく、ハッとしたように御影さんを離した兄。
我に返って自分のしたことが信じられないというように拳を見つめ、青ざめてくる顔色。
「御影さん大丈夫ですか?」
「なんともない」
隠そうとしているが、御影さんに駆け寄ると、とてもなんともない顔ではない。
「瑳!なぜそんな奴に」
「違うの!本当は全部私が…」
言いかけるとグイ、と腕をつねられ、
「黙ってろ」
つぶやくような小声に制される。
また私を助けてくれた?
「君はクビだな、ゆず。さっさと帰れ」
きっと口の中でも切ったのだろう。唇に血が滲んでいる。下手くそな芝居にはもううんざり。
「瑳!帰るぞ。アパートも引き払って家に帰ってきなさい」
「嫌です!」
「は?」
「兄さん、これは私が全部自分で決めたことなの。バイトもやめない。家にも帰らない」
「何を言っているんだ。なかなか家に帰って来なくなったと思ったらこんなことか。へんな男に捕まって」
「御影さんは関係ない。兄さんはもっと関係ない!」
「なんだと!」
「兄さんだってそう思ってるくせに!」
「は?どういう意味だ!」
「…私が本当の家族じゃないから」
「瑳、お前何を…」
「他人だからよ!もういいから帰って。まだ兄さん仕事中でしょ?」
「まだ話は終わってない」
「もう何も話すことなんてないよ。…社長さん待たせて良いの?」
「それは…」
兄はしばらく言葉を探していたようだが、結局何も言わず、上着のうちポケットから名刺入れを出すと、一枚御影さんの前においた。
「詫びはしませんが責任はとります。逃げも隠れもしませんので」
そう言って部屋から出ていった。
「御影さん大丈夫ですか?すみません」
「だから、なんともないって」
痛みに顔をしかめながら兄の名刺を拾った御影さん。
「弁護士 杠葉紘志か。思ったより良い人だな」
「はい。だからあまり関わりたくないんです。血の繋がりのない私に気を使ってばかりで。だから…」
兄は父親になったばかりだし、ただでさえ信用が大事な仕事なのに、こんなことして。
「安心しろ、訴えたりしない。そんなに睨むな」
「そんなつもりは…」
「はぁー」
大きなため息。御影さんは会話中も、時々痛そうに頬を抑えていたが口には出さない。
「あーあ。俺の名演技が台無しだ」
「すみません」
「君は本当にバカだな」
御影さんは、俯いたまま顔をあげられないでいる私の頭を優しく抱き寄せてくれた。
「兄貴に嫌われたくなかったんだよな」
大好きな低めの声が、すぐ耳元で聞こえる。
「…はい」
「良い子でいたかったんだよな」
「…はい」
いつになく、ゆっくりとした優しい声がじわりとしみてくる。それが我が子をあやすように穏やかで、涙が出た。
「大丈夫。あの人ならきっとわかってくれる」
「はい」
御影さんは兄のことなんて何も知らないくせに、そう言い切った。何故か私も、彼が言うなら大丈夫な気がした。
ひどいこと言って傷つけたのに。私は何も返せないのに。
ずっとこうしていたい。御影さんの瞳は怖くて見られないけれど、彼の匂い。手の温もり、優しさは変わらずここにある。
これがすべて私のものだったなら…なんて考えてしまう。
もっと知りたい。もっと一緒にいたい。これがどういう感情なのか、私はもう知っている。でも認めてはいけない。伝えてはいけない。
それが叶わぬものだということも知っているから。
わかってはいるけれど、
「御影さん」
「ん?」
「私、」
と、その時、
「御影さんいますー?み、か、げ、さーん?」
ドアを叩きながら彼を呼ぶ声が、その先を掻き消した。
「何か言ったか?瑳」
「いえ、何も…」
「み、か、げ、さーん?」
数回はシカトしていた御影さんだけれど、
「聞こえてるよ、上谷」
うるさいな、とつけ加えながら立ち上がると、ゆっくりと部屋のドアを開けた御影さん。
一瞬ふらついたようにも見え、咄嗟に支えようとした手はやんわりと断られた。
「なんだ上谷、まだいたのか」
「御影さんが電話に出ないからわざわざ探しに来たんですよ!」
「何か用か?」
「令嬢さまと会食の予定があったそうで?」
「あ、忘れてた」
「俺が社長に怒られたんですから!」
「悪い」
「ってか、その顔どうしたんすか?」
「つまづいて、テーブルに…」
「は?見たかったなぁ」
「てめぇ」
「冗談っすよ。その顔で行くんすか?」
「仕方ないだろ、ゆずを頼む」
御影さんはそのまま私を一度も見ずに行ってしまった。
上谷さんが来なかったら、私は御影さんに何を言うつもりだったのか。
「まったく、御影さんはしっかりしてるんだか抜けてるんだか…ゆずちゃん大丈夫?」
「はい、大丈夫です。ありがとうございます」
始めはただのチャラ男でしかなかった上谷さんだけれど、御影さんに忠実で柴犬みたいに可愛らしい一面もあり少し癒される。
「ゆずちゃん、泣いてるの?」
「泣いてません」
「あ、わかった。ゆずちゃんは、御影さんのお見合いがうまくいった話を聞いて走ってきたんでしょ!御影さんのバカー!みたいな?」
「全く違います!!」
「違うのかぁ。残念。でもさ、ずっと連敗だった人が社長令嬢と付き合ってるんだよ?信じらる?」
「そうですね。でも、良かったです…」
これでいいんだ。
御影さんが幸せなら、それで。
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