19.宣言せんげん☆
「…かげさん?御影さん!」
隣のデスクから小突かれてようやく上谷の声に気付いた。
「何だよ、だから却下却下!」
「はい?」
「さっきの企画書は却下だって言っただろう?」
「何度も言われなくてもそれはわかりました…というか、人の企画書勝手に評価しないでくださいよ。編集長でもないくせに」
「は?何か言ったか?」
「いいえ。じゃなくて、電話です!さっきから呼んでるのに、ボーッとして、どうかしたんですか?」
「あ、いや。すまない」
パソコンに向かっていたはずの手は止まり、本日の仕事は朝からほとんど進んでいない。
「英先生からお電話です」
「英先生?」
「何度も連絡したそうですけど、繋がらないと…」
デスクの上に放置されたスマホは電源が落ちたまま。
「役立たずなスマホは持つなとお怒りです」
早く出てくださいよ、と板挟み状態の上谷が苛立ち始める。
「今は手が離せないから後でかけ直すと伝えてくれ」
今は気分的にとてもあの人の相手を出来そうにない。気分転換に一服でも行ってくるか、と立ち上がろうとすると、
「御影さん!英先生が、後でかけ直すと言ったら王手社に押し掛ける、とおっしゃってます」
「まったく作家使いが荒い編集だよ」
「いえいえ、わたしはすぐに電話応対させて頂きましたよ。それなのに結局こんなところまで押し掛けていらしたのは先生ですよね?」
「相変わらず冷たいな、御影くんは」
社内の喫煙所は狭く、換気も悪くて長時間いると確実に副流煙で肺がやられる。
普段あまり吸わない英先生に長々付き合わるのも申し訳ないので、彼に合わせてほとんど吸っていないタバコの火を消す。
他の社員も出入りが激しいため、ゆっくり話もできず、すぐに喫煙所を出た。
近くの会議室はどこも使用中であったため、結局いつも息抜きに使っているエレベーター前の休憩スペースに落ち着いた。
「なんかすみません、こんなところで。もしでしたら蘭館の方にでも部屋を借りましょうか?」
「いや、いいよ。…怜はホットでいい?」
俺の返事を待ってから、先生は缶コーヒーを二本買うと、一本を投げて寄越した。
「アチッ…ありがとうございます」
「タバコまだ吸い足りないんだろう?しばらくそれで我慢して」
エレベーターを降りてすぐの広いフロアは、各階とも自販機と簡易テーブル、イスが配備され狭い休憩スペースになっている。仕事に息詰まったり、眠気に負けそうな時はここか、喫煙所に逃げるのが定番。
いつもひとりだけれど、今日は真向かいのイスに先生が座った。
「怜が電話に出てくれないから心配したよ」
「すみません」
「…まぁ察するに、遊び相手から逃げるためかもしれないけど、ちゃんと電源は入れておいてよ」
「申し訳ありませんでした」
あながち間違っていないので、否定も肯定もしない。
「でもお見合いがうまく行っているみたいで良かった。煉が喜んでいたよ」
「はい」
「これで、満足?」
「え?」
「いいや。怜がこれでいいのなら、何も言わないよ」
「ところで先生、本題は何でしょうか?」
「あーそれなんだけど…この間、ゆずちゃんと何かあったのかな、と思って」
「は?」
意図がわからず先生を見ても、彼はいつもの笑みを称えたまま。
「あの日、彼女をひとりで帰したんだって?女の子をひとりで帰らせるわけにいかないからわざわざ怜を呼んだのに」
「あ…いや…はい。すみません」
「昨日久しぶりにゆずちゃんに会ったんだけど、元気がないというか…君を怒らせてしまったと落ち込んでいたようだけど」
「…先生、大変申し訳ないのですが、仕事が立て込んでおりまして…こういったお話でしたらまた後日、」
「あーわかってる。わかってるよ」
仕事の話でないのならと立ち上がろうとした肩を捕まれ、俺は仕方なく座り直した。
彼とプライベートな話をする気はない。上手くかわしたつもりでも痛いところをピンポイントで突いてくる鋭さがあり、しっかりと気を張っていないと丸裸にされそうだ。徹夜続きの今には非常にきつい。
「僕はただ怜に宣言しに来ただけだから」
「何をですか?」
「…僕の新作のタイトル、ペトリコールはどう思った?あまり気に入らない様子だったけど」
「そうですね…少し分かりにくといいますか、もう少し希望のある明るいタイトルが良いかとは思いました。まぁ今回は先生の好きなように書くという条件つきですし、なんとか売れ行きも好調ですから」
「うん。だから僕も最初は何か引っ掛かっていて踏み切れなかったんだけど…ゆずちゃんの意見を聞いて、それでいこうと決めたんだ。それで、考えていた後編の結末も変わってしまったというわけ」
「では急にラストを書き換えたのはそのせいなんですか…」
「そう。ゆずちゃんの一言で変えたくなった。先入観で鬱陶しさや煩わしさなんかのマイナスイメージしかなかった言葉に広がりが生まれ、入り込みにくい重さがあったこの作品に光が差したようで…好きになれたよ」
先生はタイトルを『ペトリコール』でいくと決めた時、ゆずのおかげで決心がついた、と何故か嬉しそうだった。
「ゆずちゃんは、雨は優しい匂いがするって、そう言っていた」
「優しい?」
「うん。雨と言えば陰気で憂鬱で鬱陶しく、僕にはあの日の哀しみを呼び覚ます嫌な存在でしかなかったのに…彼女は雨が好きだと言ったんだ」
先生は、エレベーターを待っていた人たちが乗り込んで行くのを見ながらまた話し出す。
「哀しみしかないはずの物語の結末に、突然別かれ道がいくつも生まれたんだよ。同じ物語を読んでも一人ひとり感じ方も違う。捉え方も違っていいんだと思ったら、気持ちが軽くなったんだ」
英先生は時々詩的なことや臭い台詞をさらりと言うけれど、彼だから許せるというか…しっくりくる。
「やっぱりゆずちゃんは怜に惹かれてるんだろうな」
「は?何ですか突然。適当な事を言わないでください」
「適当なんかじゃないよ。ゆずちゃんにとって怜は雨みたいな人だって言っただろう?」
先生に彼女を送るようにと頼まれたあの日、彼が別れ際に耳打ちしたことはそれだった。
「ですから、ゆずはわたしを、雨のように暗く煩わしいと思っているというのに、なぜそのような見解にいたるのでしょう?」
「怜は僕の話を聞いていなかったのかい?」
「え?」
「ゆずちゃんは、ペトリコールは優しい匂いだと言ったんだよ?雨が好きだと…」
先生はす、っと立ち上がると空き缶をゴミ箱に捨て、そのまま背を向けた状態で続ける。
「それをちゃんと怜にわかってもらえた上で宣言したかったんだよ。フェアじゃないからね」
「何の話ですか?」
「だから、僕はゆずちゃんが好きだってこと」
「は?」
そしてゆっくりと振り返り、俺を見た。思わずコーヒーを落としそうになる。
「でも怜がゆずちゃんを好きだと言うのなら、僕は諦めるよ?」
最初は熱くて持てなかった缶もそろそろ適温になってきたところで、俺は動揺を紛らわすようにそれを一気に飲み干した。
何を言っているんですか、と鼻で笑うのが精一杯だった。
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