21.他人たにん

 あれから2日後、バイトを終えアパートに帰ると、部屋の前に人影があった。渚さんには合鍵を渡してあるし、そもそも今日は来ると連絡はなかったはず。

「瑳、お帰り」

「え?」

 非常に、気まずい。

 ある程度予測していれば別だがばったり会ってしまうとやっぱり…。

「兄さん、なんで…」

 ただでさえそうなのに、先日の件で今は更に気まずい。

「ちょっと話せないか?」

「えっと…」

 部屋の中でお茶でも飲みながらふたりきりで会話を…考えただけでぞっとする。

 何を話せば良いのかわからないし、兄はきっとバイトやひとり暮らしをやめさせようとするに違いない。

 そういえば最近渚さんが来ていないから部屋の掃除をしていない。とてもじゃないが兄に見せられない。

「今、部屋が散らかってて…それに、友達と約束があって」

「え?そ、そうか…。まぁ、母さんとは頻繁に連絡取り合っているんだろ?」 

「うん」

「なら、いいんだ」

「…うん」

「ひとつだけ聞きたいんだけど…バイトのこと」

「ごめんなさい!!」

 そのワードを聞いて、私は逃げるように部屋に入り、鍵を閉めた。

「瑳!」

「 バイトはやめない」

 部屋の外に向かって叫ぶ。

 壁の薄さや、時間帯も考えている余裕はなかった。後で苦情がくるかもしれないけれど、言いたいことは言おうと決めたから。

「ひとり暮らしもやめたくない。ここの家賃もいつかバイト代で返すから」

「そんなことはいいんだ。バイトも好きにしていい」

「え?」

「母さんから聞いたと思うけど…もうすぐ彩加が退院してくる」

「…そうだったね。おめでとう」

「子どもに会ってくれないか?時間があるときで良いから」

 どうして私が?

 嫌な訳じゃない。でも、どう接したら良いかわからない。どういう立場で関わったら良いか。

「でもずっとバイトが」

「瑳」

「はい」

 怒られるだろうと、身構える。姿が見えなくてもついそうしてしまうのは、兄はいつも頼もしく正しいから。

 それなのに、

「ガキの頃俺が言ったこと…まだ気にしてるんだよな?」

「な、なんのこと?」

「…ごめん。悔しかったんだ。母さんに叱られた腹いせに、瑳を泣かせたくて、あんなこと…」

 ドア一枚隔てた向こうで、兄はどんな表情をしているのだろう。


『ぼくのおかあさんなんだから』


「そんな昔のことなんて…」

「ずっと謝りたかった」 

「だから、そんなの…」

 声を震わせないことに精一杯で、覚えていないと嘘をつくのを忘れていた。

「ごめんな」

 何度も何度も繰り返す兄の声の方がもっと震えていた。


 確かにあの言葉を忘れてなんかない。自分の立場を理解させられただけで、恨みや憎しみなんてもちろんない。

 当時はその意味もわからなかったし、母がいつも以上に兄を怒った事でただならぬ雰囲気だと感じただけだった。

 そういえば、そうだった。

 全部思い出した。

 あの後も兄は、こんな風に震えた声で謝ってくれたんだった。


 まだ私も兄も幼い頃、

「ぼくの母さんなんだから」

 ケンカをして、私が悪いのに兄が母に叱られた。その時兄が呟くように言った言葉に、母の顔色がさっと青ざめたのがわかった。

 その言葉の意味を訊ねてはいけないのだと子供ながらに察し、高校に入学する時母に打ち明けられるまで、知らないふりをしていた。

 私が言葉の意味を理解したのは中学に上がる前父が亡くなった時。

 親戚が私の身の上話をこそこそ話しているのを聞いてすべてすっきりしたのを覚えている。

 施設にいたことはほとんど覚えていない。思い出そうとすれば、人の顔や遊具、部屋の間取り、途切れ途切れだけれど場面が浮かぶこともある。言われてみれば辻褄が会わないことが多々あったけれど、あまり不思議には思わなかった。

 杠葉の両親、兄…最初の記憶も曖昧だったけれど、いつしかそれが当たり前になっていたから、考えもしなかった。

 私が、人の家族に無理やり入り込んでいた他人だったなんて。

 ショックだったけど、やっぱりなってほうが大きくて… 兄と違いすぎる私。優しさや、愛情に戸惑いを感じ素直に喜べない私。どこかそういったことに冷めている自分がいることにずっと違和感があったから。

 無条件で杠葉の両親や兄からの愛情を受け、私は本当に幸せ者だ。家族にしてもらっているんだから良い子にしていないとって。

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