10.御影みかげ


 あのキスから2日。あれからずっと御影さんのことばかり考えていて、授業中も何度か先生に注意された。

 御影さんの事はおいておいて、すっかり忘れていたけれど、あの日バイトの途中で帰ってしまった事をミルクさんに謝っていなかった。次のバイトは週末だし電話で言うのも失礼かと思って昨日蘭館に寄ったが、嫌なものを見てしまった。

 実際には見ていないけれど、控え室に入ろうとした時、御影さんとミルクさんの会話を聞いてしまって…余計に妄想が止まらなかった。

 あんなに優しい言葉をかける御影さんなんて知らないし、状況はよくわからないけれど、なぜかすごくドキドキした。相手は私じゃないのに。

 まさかミルクさんと御影さんは付き合っているんじゃ…なんて思ったら、居ても立ってもいられなくて逃げ出すしかなかった。



 今日はバイトもないので学校から直接母の入院している病院に向かったのだが、ある理由により病室には入らず売店で買ったお菓子を食堂でやけ食いした。

 見舞いに来た家族と一緒に会話を楽しむ人、患者同士で盛り上がっている人たちが集う中、私はやっぱりひとり。

 だんだん居づらくなってきた時、足元に何かが転がってきた。

「ん?」

 落ちていた100円玉を拾い辺りを見回すと、自動販売機の前であたふたしている車椅子の女性がひとり。財布を落としたようだった。

 他にも転がった小銭を拾い集めて彼女に渡すと、

「すみません、ありがとうございます」

 頭を下げると栗色の長い髪がさらりと前に流れた。それを耳にかけながら顔をあげた女性は優しく微笑み、手にしてしたを紙パックを差し出した。

「え?」

「お茶、どうぞ」

「え、でも…」

 とても綺麗な人だった。見た目は30代前半くらいだろうけれど、落ち着いた雰囲気だけで言えば倍くらいにも感じる。

 彼女はお腹から足元まですっぽり覆っていたブランケットをかけ直して言った。

「本当はオレンジジュースを買いたかったんだけれど、間違えてしまったの。…飲んでくれる?」

「いいんですか?ありがとうございます」

「いいのよ。ちょっと息抜きにね。勝手に病室出てきたから怒られるかも」

 言葉とは違って何故か楽しそうに彼女が笑うと、

「こんなところにいた!」

「あ、見つかったっちゃった」

 どうやら看護師に見つかったようで少し肩を落とした彼女。

「やっと見つけたわよ、ミカゲさん」

「すみませんでした。ちょっと気分転換に」

 また会いましょうね、と手を振ると車椅子のままエレベーターで連れていかれてしまった彼女。

 今彼女は、看護師に『ミカゲ』と呼ばれていなかった?

 まさか、あの御影さんの…?

 そんなわけがない。

 きっと気のせいだと、彼女からもらったお茶を一気に飲み干す。

 そんなはずはないと思うけれど、そんなにありふれた名字ではない。でも彼には病院で何度か会っているし…似ていないから姉か妹とも思えない。

ということは…?



「瑳!」

「え?」

 母の病室の前まで来ると、呼ばれて初めて現実に引き戻された。

「に、兄さん!」

 考えてもどうにもならないことばかりが頭を巡ってばかりで、忘れていた。自分がなぜ食堂なんかで時間を潰していたのかを。

「瑳、どうした?」

「あ、いえ、兄さんの車があったから、いるだろうなと思ったけど」

 だから彼が帰るのを待つため駐車場が見える食堂から見ていたというのに。

「そうか。俺はもう帰るところだ。母さんもちょっと休むって言ってたから。それはそうと、今、瑳のバイト先の方が見えていて…」

「バイト先?…えぇ?!」

 会いたくない人とばったり会ってしまったばかりでかなり動揺していたのに、兄の後ろからひょこっと顔を出した男性のせいで、一瞬心臓が止まるかと思った。

「こんにちは」

 ふわ、と御影さんの匂いがした。病院だからだろうか、いつものタバコの匂いもキツくない。

「瑳がいつもお世話になっています」

 いつもよりラフなジャケット姿の御影さんに兄が頭を下げる。

「いいえ、こちらこそサナさんにはいろいろ助けていただいてます」

 御影さんも仕事中に見せるあの紳士気取りの営業スマイルで対応している。

「ちょっと待って…バイト先って…」

 まさかとは思うが、兄に本当のこと言っていないだろうかとひやひやする。

「どうした瑳?彼は、本屋さんの先輩なんだろ?違うのか?」

「え、いや…」

「サナさんの仕事っぷりには頭が下がります」

「そうですか。今後ともよろしくお願いします」


 兄は軽く会釈をしてすぐに帰っていった。

 余計な話をしたくなかったからちょうどよかったけれど、御影さんとふたりきりになるのもちょっと…いや、かなり気まずい。

「バラされたかと思ったか?」

「え?は、はい。御影さんにまで嘘つかせてすみません」

「いや。俺は嘘はついてない。本を作ってるんだから本屋みたいなものだろ」

「まぁそうですね」

 御影さんは他の編集さんたちと違ってほとんどスーツかジャケット姿だし、見てくれも真面目なイケメンエリートだから兄も疑いはしないだろう。

 この前兄にとっさについた嘘をフォローしてもらってことについては、一安心。

「君の名前…サナ、って言うのか」

「え?はい」

「どんな字をあてるんだ?」

「…王辺に、僅差の差、で瑳です」

「珍しいな」

「はい。自分の名前嫌いですけどね」

「なぜ」

「どうでもいいことです。ていうか、そもそもなんで、御影さんがいるんですか!仕事は?」

「君に用があったんだが、連絡を取る手段がなかくて。以前ここで会ったからもしかしたらと思ってな。…押し掛けてすまなかった」

「いえ」

「この間も…」

「え?」

 ドキーッとした。この間、って…あのキスのこと?

「君を無理にゲームに参加させたり、意地の悪い事をした…すまなかった」

「そんなことは、別に…」 

 あのキスのことだと思ったのに。この人はきっと、もう忘れているんだろうなと思った。

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