11.名前なまえ

 御影さんの会社はかなり大手の王手出版社。

 2階の第3会議室で待つように言われたのはいいけれど、大きな会社に入るのも初めてだし、ましてや同じような扉がたくさんあって迷う。隣接している蘭館にはよく出入りしているため渡り廊下から覗いたことや社員の方とすれ違うことは多々あっても、正面玄関から入ったのは初めてで緊張する。

 学校帰りで制服姿のJKが会議室を探してさ迷っているのは、目立つだろう。忙しそうな社員さんたちと目があっても羞恥心が勝り、自ら尋ねることが出来なかった。

 先日病院で御影さんに会った時『頼みたい事があるから』と今日王手社に来るように言われ、理由はよくわからず承諾したが、一体なんの話だろうか。

 約束の時間を過ぎながらもようやくたどり着き、応答を待ってから扉を開けるや否や、

「遅い!」

「す、すみません」

 御影さんの一喝に声が上ずる。

「とっくに予定時刻を過ぎている」

「すみません!迷いました」

「は?迷う所じゃないだろ」

 謝罪の他に何も返せないでいると、部屋の奥から楽しそうな男の笑い声が聞こえた。

「え?」

「もういいんじゃないの?御影くん。そのくらいで。今日は僕がどうしてもゆずちゃんに会いたくてお願いしたんだから」

 訳がわからず混乱しながらも部屋の中を覗くと、英先生がヒラヒラと手を振りながら微笑んでいる。

「は、英先生!」

 なぜ先生が?とますます謎が深まり、答えを求めて御影さんを見ると、

「君に新作を読んでもらい、感想を聞きたいと」

「え?本当ですか!」

「先生は、今日締め切りの原稿が他にもあるからお忙しいんだ」

 あまりゆっくりしている暇はないからな、と焦りを隠せない御影さんを他所に、

「あーゆずちゃん、もしかして雨降ってきた?」

「え?あ、はい。私が着いたと同時くらいに降り始めましたけど…」

「やっぱり」

「どうしてわかったんですか?」

 部屋はブラインドが降ろされているし、雨の音はしない。

「だいたいわかるよ。雨男がいるからね~というわけで、締め切りをのばしてくれないかなぁ御影くん。やる気が失せてしまったよ」

「申し訳ありませんが、それはできかねます」

 間髪いれずに、というよりほとんど被せぎみに飛んできた御影さんの冷静な一言により却下された。

「御影さんは雨男なんですか?」

「そうそう」

「先生冗談はやめてください。…ゆず、先生はこの後大事な打ち合わせもあるから、早めに切り上げるように促せよ?」

 と肩を叩かれ、御影さんは会議室を出て行こうとする。

「え?御影さんは?」

「俺はこれから別の打ち合わせがあるから」

「え…でも」

「終わったらまた来るから」

 ふたりきりにしないでほしいのに。どうやったら引き止められるのかわからず戸惑っているうちに、ドアが閉まった。

「ごめんね、ゆずちゃん。御影くんにお願いして僕の名前は出さずに連れてきてもらったんだ。怒って来てくれないかと思ったから」

「え?」

「キスのこと」

「あ…」

 そうだった。急に恥ずかしくなる。

「ごめんね。でもそーいう初々しいところが可愛いいゆずちゃんに、ぜひ読んでもらいたくて」

「でも、私なんかが本当に良いんですか?」

「約束したでしょう?」

 小さな会議室。憧れの先生にまた会えた嬉しさとキスの恥ずかしさとが交ざり余計に緊張しながら彼の隣に座る。

「よろしくお願いします!」

「お見合いじゃないんだから。緊張しないでよ」

「は、はい」

「それとも、御影くんがいたほうが良かった?」

「い、いえ…そんなことは…」

「ふーん。そういうことか…」

 なにがそういう事なのだろうかさっぱりわからないけれど、先生は勝手に自己完結して納得している。

「なーんか苛めたくなっちゃうなぁ」

「はい?」

「いやいや。…そういえば、彼、編集長降ろされたらしいね」

「え?」

「だから一段と機嫌悪かったでしょ?あの仕事人間が失敗なんてめずらしいよね。僕らは結構付き合い長いけど初めてじゃないかなぁ、こんなこと」

「そうなんですか」

 そういえば、上谷さんもそんなことを言っていた。

「また女性問題かな?」

「え?また?」

「前の会社でもいろいろあったみたいだし」

「そう、ですか…」

 まぁ御影さんは、イケメンで仕事も出来るのだからモテるのもわかる。ミルクさんとも仲良いし。でも、この前病院で会った“ミカゲさん”って奥さんなんじゃ…?

「あーごめんね、話逸れて。それは置いといて。新作なんだけど」

「あ、はい」

 少し…いやかなり気になる発言だったけれど今はそれどころじゃない。

「まだ半分しかできてないしちゃんとした校正はまだだけど、まずは感想が聞きたい」

 集中集中。

 渡された原稿に触れるとぞくぞくと鳥肌がたった。印字された活字とその上から加筆された箇所がたくさん。先生は、ノートパソコンで別の原稿を書きながら私が読み終わるのを待ってくれた。

『だから雨は嫌いだ』

 という言葉から始まる物語は、冒頭で主人公の妻が交通事故で昏睡状態になってしまう。しかも見知らぬ男と一緒に事故にあっていてその男は死亡。

 物語を読んでいる間、私は主人公になれる。漫画などの視覚からの情報よりも小説は活字からの情報だけだからより自由に想像できる。読めば読むほどに勝手に主人公が頭の中で動き出す。

 ケンカすらしたこともなかった夫婦なのに、突然発覚した妻の裏切り、ただの不倫旅行中の事故だと思いたくない主人公が調べ始める中で、知らなかった妻の想いを知ることになり…

「どうかな?」

「……え」

 一気に読んでしまって途中から先生がいることを忘れていた。

「すごいです」

 自然と溢れる涙。

 調べれば調べるほど妻への疑惑が深まるのに、何があっても愛する人を信じ抜くと誓った主人公の気持ちが、何故か入ってくる。

 他の何かを犠牲にしてでも守りたいと思えるような人が、私にもできるのだろうか。

「ありがとう、ゆずちゃん」

 英先生の作品はストーリーはもちろんだけれど、とくに情景描写が好きだ。

 流れるようなストーリー展開や、吹く風の音やそれに乗ってくる花々の匂い。靡く髪の質感や表情、手の温もりまで伝わってくるようで。

「続きは今書いてるとこ」

「…これ、上下巻にできないですかね?」

「え?」

「だって、続きが気になっていろんなことを想像する時間も楽しいですよ」

「確かに。でも僕の一存じゃ決められないし、しかも今回は、ページ数や設定ジャンルすべて無視して自由に書いてるからなぁ…訂正や校正が大変そう。御影くんにまた怒られるだろうな」

「それと…」

 偉大な先生に向かって意見するのは甚だおかしいけれど、こうしたらもっと驚いたかもしれない、こうしたらもっと続きが気になるなど、色んな構想が溢れて止まらなかった。

 それを先生は怒らず、ひとつひとつ聞いてくれた。噂の堅物とは思えない。

「なんかすっきりしたぁ。ゆずちゃんに読んでもらえてよかったよ」

 それから先生は、名刺を一枚テーブルにおき、ん~と立ち上がって背伸びをした。

「ゆずちゃん、本当にありがとね。何かあればいつでも連絡して」

「ありがとうございます、こちらこそ嬉しかったです!やっぱり大好きだなぁ。あ、」

 夢中になりすぎていて大事な原稿をお借りしていることを忘れていた。

 汚していないか涙が落ちていないか慌てて確認する。

「そんなのコピーだから気にしないで。データもちゃんとパソコンにあるし」

 先生はゆっくりと言って、頭を撫でてくれた。

 その時、コンコンとドアをノックする音が聞こえる。しかし先生は聞こえていないのかお構いなしに左手でがしがしと私の髪をかきまわす。ちょっと痛い。

 先生は割りと華奢な方なのに、掌は大きく暖かいな、と思った。

 また、コンコンとノック。

 けれどお構いなしに、

「ねぇゆずちゃん、今のって僕のこと?」

「え?今の?」

「だから、大好きって言ったでしょ?」

「ち、違います!」

「そんな全力で否定しなくてもいいのに」

「あ、いえ、そういう意味では」

 顔が近い。どうやって逃げ出そうか考えていると、コンコン、さっきよりも大きな音。

「先生、誰か来たみたいですけど…御影さん、ですかね?」

「うん、そうだろうね」

 そして、

「失礼致します」

 入り口のドアが開く音がして、

「何度もノックしたのですが…お取り込み中すみません」

 御影さんが入ってくる。

「先生、打ち合わせの時間です」

「あーもう、わかっているよ」

 良いタイミングで来てくれた。

「御影さん!」

 この至近距離からどうやって離れたらよいのかわからず助けを求めて呼ぶ。これで先生も離れてくれるだろうと思ったけれど、

「あーあ、ゆずちゃん、目が赤くなっちゃったね」

 先生は両手で私の頬に触れると、御影さんがいることなんて気にもとめずに、指の腹で涙の痕を脱ぐってくれた。

「英先生!大変申し訳ありませんが次の予定が押してますので」

 言葉こそ丁寧だが、苛立ちを隠せない様子の御影さん。

「はい、はい、わかりましたよ、御影くん」

 そう言って手を離した先生は、

「さっきの告白、僕へのことにしてくれると嬉しいな」

 と、耳元で小声で囁やき、身の回りの片付けを始めた。

「せ、先生?」

「 なーんてね。僕は朱希あきが一番だけどね。あ、そーそー御影くん、原稿、ゆずちゃんのアドバイスでいくつか直そうと思ってるから」

「わかりました。ですが今は時間がありませんので次の打ち合わせに」

「はいはい。わかりましたよ」

「外に上谷を待たせていますので」

「あ、ゆずちゃん、今度はデートしようね」

 バイバイ、と軽快に部屋を出ていった英先生。

 先生の作品を発売前に読めるなんてとても感激したし、普通ならあり得ないことだからもっと感動するべきなんだろうけれど、先生から離れられたことに何故かホッとしてしまった。

「先生の新作、どう思う?」

 御影さんは部屋のブラインドを全開にしながら聞いた。

「私はすごく好きです。先生らしい捻りがあって」

「その捻りが好き嫌いがわかれるから問題なんだけどな」

 そしてさっきまで先生が座っていた椅子に倒れ込むように腰をおろした。

「まぁ、あの堅物に火をつけてくれたことには感謝する。だが、あの人の言葉を鵜呑みにするなよ。後で泣くのは君だから」

「どういう意味ですか?」

「英先生は女性みんなにあんな感じだから」

 特に気にはしていなかったが、確かに頭を撫でられた時指輪が当たって痛かったような。

「でも結婚されてるんですよね?朱希さんって奥さんですか?」

「聞いていたか。先生は手が早いというか…君がお気に入りのようだが…君だけ特別ということはない」

「そんなことわかってますよ」

「ならいいが。くれぐれも失礼のないようにな。王手社にとばっちりがあっても困る」

「はいはい」

「まぁ、人は簡単に信用するなってことだ」

 またそれか。

 だったら御影さんはどうなんだろうか。車で送ってくれたり夜道やバイトの心配をしてくれたりする割には、自分だって奥さんがいることを隠しているし、それに…

「そうですよね…御影さんだって平気でキスしたりできるんですもんね」

「あ?…あれは、指導してやったんだ」

「はい?なんですかそれ!」

「嫌なら股間を蹴ってでも舌を噛んででも逃げられたはずだ。危機回避の練習をしてやったのにキスだけでいかされてどうする」

「な!なにを言ってるんですか!」

 確かに御影さんの言う通りだ。抵抗するそぶりは見せたが、本気で拒否すれば逃げられたかもしれない。

 はたして本当に嫌だったのか…今となってはもう、よく思い出せない。

「ひどい」

「そうか?」

「死ぬところだったんですよ?」

「下手なだけだろ?もっと上手くなればいい」

「……やっぱりピンクの指導もしてるんですね」

「え?」

 この間のミルクさんとのことも気になるし、渚さんの言っていたことも気になる。

「御影さんは、ピンクに必要な事も身をもって教えてくれると聞きました。あれは、そのつもりだったんですか?」

「まぁ、そういうことだ」

 彼にはきっと私みたいな小娘が何を言っても響かない。

「じゃぁもっと教えてくださいよ」

 そう言えば何かしら反応してくれると思った。怒るでも、蔑むでもいい…もう無関心は嫌だから。

「君には上級テクニックなんて必要ない」

 けれど鼻で笑われただけ。何も伝わらない。

「…そーいえば御影さん、編集長降ろされたんですよね?」

 どう足掻いても彼には響かないんだろうけど、でも困らせたい。怒らせたい。動揺させたい。私の声が、気持ちが少しでも届いているのか確かめたい気持ちでいっぱいになる。

「あぁ、そうだ」

「女性がらみで失敗したって聞きました。…仕事しかないって言ってたくせに」

「女は関係ない。興味もない」

「何それ…女なら誰でも優しいくせに」

「そんなことはない」

「この前、ミルクさんと控え室にいるの見ました。仲良いんですね」

「……だからどうした?」

「え?いや…邪魔してしまって、悪かったかなって」

「なぜ邪魔になるんだ?」

「いい雰囲気だったというか…宴会の時だって、ミルクさんと、そのぉ…キス、したんですよね?」

「あ?…あぁ王様ゲームか?…だから、なんだ?」

「え!あ、いや…」

「何が言いたい?」

「……」

「…君は、どうしたいんだ?」

 声のトーンも表情も何一つ変わらない御影さん。キスをしたあの時ですら。どういうつもりであんな事…。

「俺を怒らせたいのか?」

違う。

「謝ってほしいのか?」

違う。

「…おい?聞いているのか?」

 御影さんがふんぞり返って座っていたイスに深く座り直すとギシ、と大きく軋む音がした。

「おい、ゆず…じゃなくて…杠葉?」

 そして私を見る。

 ちゃんと聞こえる。

 御影さんの声は高過ぎず、どちらかというと低めでとても心地のいい声色だから聞こえないわけがない。

 けれど彼の質問すべてが図星過ぎて、どう取り繕ってみてもすべて見透かされているように感じる。

「聞いているのか?…杠葉、瑳?」

「え…」

 名前を呼ばれた瞬間、トクンと心臓の高鳴る音が聞こえた。

 私の心臓?

 もしかして今までが止まっていたんじゃないかと思うほどに、ドクドクとうるさい。

 もうこれ以上引っ掻き回さないでほしい。

「おい、瑳?」

「やめてください!」

 嫌いだった。実の母からもらった唯一の物が名前なんて。読めないし。

「聞こえてはいるんだな」

「…はい」

「俺の噂をどこのどいつに聞いたか知らないが、そんなくだらない話など聞いて楽しんでいる暇があったら勉強でもしていろ」

 すべてにおいて私はガキなんだと思い知らされる。年齢差もあり人生経験も違う。わかってはいるけれど、

「もういいです。嘘つき!」

 そんな陳腐な捨て台詞しか出てこなかった。


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