9.八起やおき☆

 かつては想う人がいた。同じように想われたいと思う女性ひとが。恋い焦がれ、一緒に死んでしまえたらと思うほどに。

 けれど、叶わなかった。

 やり場のない想いや喪失感に溺れ窒息しそうだった俺が唯一、呼吸いきをする方法は、依存。

 それは何でも良かった。女だったり酒だったり。 

 女を抱き、疲れ果てては眠りひとりの夜はアルコールで思考を麻痺させる。

 気付けばまた呼吸ができなくて、慌てて何かにすがり付く。

 酒にどっぷりと溺れても狂うほどに女を抱いてもムダなんだとあの頃そう学んだはずなのに、また同じことを繰り返す。

 俺にはもう仕事しかない。先日の失敗で立場が危うくなり、嫌でもそう自覚させられた。

 それすら失ってしまったらきっと…。

 ゆずにそうしたように、俺は誰かを傷つけることでしか自分を誇示できない小さい人間だ…もう忘れたと、変われたと思っていたのに、昔とちっとも変わっていない。

 10年前と少しも。

 その不安を強い酒で押し込めなんとか切り抜けようとしていたのに、それを邪魔するゆず。

 初でまだ身も心も清いくせに、自ら闇へつかろうとしている彼女に、何故か無性に腹がたった。

 おまけに見透かされたように自分の弱さを指摘され、カッとなった。

 だから少しからかったつもりが、つい熱が入り結局傷つけてしまった。

 強引にキスをしたあの時の顔、怒るでも泣くでもなく、怯えたように目を泳がせ、ごめんなさいと繰り返していた彼女。殴るでも突き飛ばすでもしてもうバイトはやめると逃げ出すかと思っていた。

 あんな顔をさせるつもりなんてなかったのに。


 

 今日は接待も会議なく、蘭館に用事はなかったが、仕事の合間にブルーローズの控え室に立ち寄る。

「御影さん?…打ち合わせか何かですか?」

「今日は何もないんだが…ゆずは、いるか?」

「いいえ」

 時刻はまだ17時。他の従業員が集まってくる前に彼女に会えれば良いなと思ってはいたが、そんなうまくはいかない。いち早く出勤していたミルクが答える。

「ゆずは週末まで休みのはずですよ」

「そうか」

 接待や宴会は作家の希望がなければほとんど蘭館を使っているため、ある程度ブルーローズのことは把握している。付き合いも長いし、打ち合わせなんかも頻繁に行われるが、個々の出勤状況までは知らない。

「急ぎの用でしたら、連絡をとりましょうか?」

「いや、いいんだ」

「そうですか。…昨日は、ゆずの事お願いしてしまってすみませんでした」

「え?」

「あの後、送って頂いたんですよね?」

「あ、あぁ」

 昨日は少し飲み過ぎた。

 先日の、ちょっとしたミスでは済まされない失態。あの後すぐにサユリの仕組んだ事だと発覚しミルクと共に謝罪があったが、もう時既に遅し。

 俺自身、身に覚えがないにしろ、大物作家の機嫌を損ねて大きな仕事をひとつ無くした事は消えてなくならない。周りに対する猜疑心が増しに増し、何もかもが煩わしくて…飲まずにはいられなかった。

 それだけにとどまらず、ゆずに当たってしまった。

 べつに悪いことをしたとは思っていないけれど、少し様子が気になっていた。

「どうかしました?まさかあの子、御影さんに失礼なことを?」

「違うんだ。英先生からちょっと頼まれ事で」

「そうでしたか」

 控え室は、入り口こそ質素な扉に変えられ従業員専用と書かれているけれど、中は以前バーだった時の面影が残っている。

 今日はいろいろ仕事をやり残しているがそのままデスクに貼り付いていてもはかどる気がしなかった。俺は深いため息と共にバーカウンターに腰掛けると、しばらくしてミルクも隣に座った。

「先日の件でお疲れですよね」

「あ?」

 俺が知る中でも、ミルクは若いがコンパニオン歴も一番長く話しやすい。性格的にも負けん気が強く芯があり意見が対立することもあるが仕事はきっちりとこなす。時々顔を出す程度のオーナーより余程頼りになる。

「本当にどうお詫びしたらよいか」

「もうやめろ」

「ですが…」

「終わった事だろ」

 隣を見ると、いつもより随分とナチュラルなメイクのミルク。これで普段町を歩いていたらわからないかもしれない。これから仕事用の顔作りをするのだろうが、それにしても今日は…

「ちゃんと、寝てるか?」

「え?は、はい」

「飯は?」

「大丈夫、です」

「大丈夫な顔か?…耐えきれないのものをずっと背負ってると、いつの間にか立ち上がれなくなるぞ」

「御影さん…」

「ひとりで抱え込む必要はない」

「はい」

 思いがけず、彼女の声が震えていた。次第に瞳も揺れ始める。

「今のうちに、吐き出しておけ」

「ありがとうございます」

 ミルクが礼を言った直後、ドアの向こうで物音がした。

「今、誰か…?」

 パタパタと廊下を走る足音が徐々に遠退く。

「気にするな」

「でも」

「まだ時間はあるだろ?顔は化粧でなんとかなる」

 俯いた彼女の頭を軽く叩くとそれを合図にしたかのように、泣き出した。

「子どものことか?」

「はい…」

 ミルクは確か25歳で、小学生になったばかりの子どもがいる。理由は知らないが、仕事を掛け持ちしながら女手ひとつで子育てをしている。

「聞いてくださいよ~」

 いつもトラブルがあっても気丈に振る舞い仕事をこなす。そんな姿ばかり見ていることもあってか、泣き崩れるなど珍しい光景だ。

 時々心が折れる事があっても、少し吐き出してまた立ち上がる。守るものがあると違うのかといつも感心してしまう。

 ひとりで立ち上がり前だけを見て歩くことなど、俺にはもう難しいしのかもしれない。





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