7.苛立いらだち

「ゆず?」

 母のお見舞いを終え、病院の裏口から帰ろうとすると、ちょうど喫煙所から出てきた御影さんと出くわした。

「御影さん、人前でその呼び方はやめてくださいよ」

 タバコの匂いがきつい。

「あ、悪い。…バレて困るならどうしてあんなバイトを?」

「あんなって…友達に誘われて」

「友達?あぁ、サユリか」

「え?そう、ですけど」

 御影さんたち王手出版の人たちや作家さんも打ち合わせや宴会接待などでたくさん出入りしているし、コンパニオンの名前くらい知っていて当然だけど。 

「ミルクから聞いたんだが…君もピンクやるんだろ?」

「はい」

 あれから私は本格的にピンクコンパニオンをやってみようと勉強した。ミルクさんに頼んでいろいろ教えてもらうはずが、男性経験のない私には難しいし、あまりやって欲しくないと乗り気ではない様子だった。

「金か?」

「え?」

「金が欲しいからか?」

「…はい」

「ふーん」

 急に目付きが鋭くなる。

「な、何ですか?お金のためでもありますよ!…それに、ちょっと、興味があるだけです」

「は?ガキのくせに」

「放っといてください」

「ガキが紛れ込んでると知れたら店にも旅館にも迷惑だろ」

「ガキじゃありません。もう18です」

「ガキには変わりない」

「だから、」

 反論しようとすると、突然腕を捕まれる。

「これからバイトだろ?送るよ」

「え?…大丈夫です」

「いいから!」

「やめてください」

 捕まれた腕を振り払うと、今度は強く手を握られ、けれど小声で、

「頼む、とりあえずついて来い」

「え?」

「ギャラリーが多すぎだ」



「えーっと…ありがとうございます」

「いや、強引で悪かった」

 頼むから車に乗れと言われて結局送ってもらうことになったけれど、人をすぐに信用するなと言ったのは御影さんなのに。

「俺のようなおっさんとガキが言い争ってるなんて、そりゃギャラリーも集まってくるよな」

「…すみません」

「いや」

 深いため息の後にまたタバコに火をつける御影さん。さっき喫煙所から出てきたばかりなのに。

 ただでさえ車中にしみついたタバコの臭いにむせてしまいそうなのに、更に煙たさが充満する。

「あ、悪かった。つい癖で」

 表情で気づいてくれたのか、彼は一吹かししてすぐに火を消し窓を少しだけ開けた。

「お疲れみたいですね」

「あ?そうか?」

「なんだか、顔色が」

 言いかけた時、彼のスマホが鳴った。

「すまない」

 御影さんはすぐに車を路肩に停める。

「あ、じゃぁ私ここで」

 電話の邪魔になるだろうし車を降りようとすると、強く腕を捕まれた。

「お疲れ様です。涼風先生」

 電話にはやや明るく優しい声なのに、私には口パクで「待ってろ」と怖い顔。

 どうやら仕事の電話のようだったのでできるだけ聞かないように、暗くなりつつある外に目をやる。さっきまで晴れていたのに、突然降りだした雨のせいで窓からの景色はよく見えない。

 御影さんが口にしていた『涼風先生』は、時代物や歴史物が多く私には少しハードルが高い作品が多いけれど、いくつか読んだことはある。とんでもない大物と話している御影さんって、実はすごい人なのでは?

 そんな事を考えていてもなかなか電話は終わらず、聞かないようにしようとは思っても御影さんの口調が徐々に早く荒くなってくるのがわかる。

「涼風先生?お待ちください!一体どうされたのですか?わたしはそのようなことなど…」

 それに乗じて相手のボリュームも増して声が漏れ、意図せずとも耳に飛び込んでくる。

『そんなことをしなくとも御影くんに任せようと思っていたんだ!』

 聞かないようになんて無理だった。

「先生!それは一体どういう…」

『惚けるつもりか?やはり仕事をとるためならなんでもするという噂は本当だったようだな。仕事熱心なのはいいが気に入らん!王手社とはもうこれっきりにする』

 相手の怒声は一方的で意味はよくわからないけれど、何かトラブルだろうか。

 おそらくもう繋がっていないスマホに向かって必死に「先生!」と叫ぶ御影さん。

「クソッ!何がどうなっているんだ」

 ガン、とハンドルを叩きつけその拍子にスマホもどこかへ飛んでいった。

「み、御影、さん?」

「…悪かった。みっともないところを見せて」

 いつも冷静沈着に事を進め、何が起きても動じないような人だと思っていた御影さんの取り乱した姿に、私の方が動揺する。

「この前、君がせっかく英先生との仕事を繋いでくれたのに…もう一人の大物を取り逃がした。こっちはもう一押しで完全にいけると思ってたのにな。……俺にはもう、仕事これしかないのに」

「……」

 私は何も言えなかった。何があったのかよくわからないけれど大事な仕事をひとつ失い、落ち込んでいる彼に掛ける言葉など知らない。

「ゆず、ピンクはやめろ」

「いきなり何ですか?」

「君にはまだ早い!ミルクやアカネのようなベテランとは覚悟が違うんだ」

「だからっ!」

 自分でも驚いてしまうくらい、大きな声だった。御影さんも睨むように私を見た。

「私だって覚悟がある、って言いましたよね」

「は?そんなもの…くだらねぇな」

 カチャ、とシートベルトの外れる音がしたと思ったら、突然肩を捕まれ次の瞬間には目捷に迫っていた御影さんの顔。

「え?な、何ですか」

 車に乗った直後も感じたけれど、タバコの臭いの中にほんの僅かに香るクリーンで爽やかな匂いがふわ、と鼻を掠める。香水だろうか、クールな御影さんにとてもよく似合っている。

 遠くからではわからない瞳の大きさ、睫毛の長さ。対向車が通りすぎる度に照らし出される御影さんの整った顔。

「興味あるんだろ?」

 顎を抑えられ、うっかり触れてしまいそうなくらいすぐ傍で薄い唇が不適に笑い、更に距離をつめてくる。

「や、」

 逃げようにも振りほどけず、咄嗟に強く目を瞑った。

「おいおい、これからもそーやって色気のない顔で乗りきろうとでも思っているのか?キスくらいで逃げ出すのか?」

 笑いながら離れる御影さん。

「そ、そんな無理やりしようとする人なんていません!キスなんてオプションにありませんし」

「わからないだろ?その度にオプションにないから、と怒るつもりか?」

「わ、私…もう、行きます」

「まだ話は終わっていない」

 なんだか腹が立ってきた。

 なぜ御影さんにそんなことを言われなきゃならないのか、元はと言えば御影さんが悪いのに。

「聞いてるのか?ピンクなんて、やめとけ」

「……誰のせいだと思ってるんですか?」

 御影さんがあんなこと言うから。

「え?」

「あ、いえ、」

 頼んだわけではないが、一応送ってもらった事に礼を言い頭を下げ急いで車から降りた。

 御影さんは、私がガキのくせに背伸びしてこんなことをしていると思っているだろうか。

 違うのに。本当はこんなことしたくない。

でも、忘れたいから。

 ピンクと言っても嫌なことを強要されたり無理強いさせられることはないし、フィーリングが合わなければやんわりとお断りさせてもらうこともウチでは可能だし。逆に気分が乗れば相手の過激な要求を飲むこともある。もちろんアフターや最後までの行為は旅館にも迷惑になるので当然禁止だけれど。

 もう触られることには慣れた。ゲームと称して恥ずかしい格好をさせられたり相手と密着してスキンシップをしたりすることももうだいぶ平気になった。だからキスくらい平気になりたかった。消してしまいたかった。

 御影さんの前で英先生にされたあのキスが、私にとって初めてだったなんて恥ずかしくて言えないけれど。



「あんたのせいでみんなが迷惑するのよ!」

 大広間での宴会を終え、控え室のドアを開けようとすると、なんだか中が騒がしく女性が言い争う声が聞こえた。

 慌ててドアを開けると、先輩のアカネさんが渚さんとにらみあっている。

 アカネさんの後ろにも先輩たちが数人いるが、みんなが渚さんをにらみつけている。

 空気が悪い。

「ど、どうしたんですか」

「ゆずには関係ないの」

 アカネさんにピシャッと言われて何も返せないでいると、

「何をやっているの?」 

 後ろからミルクさんが入ってきて、さっと空気の流れが変わった。

「アカネ、外まで声が聞こえるわ」

「あ、ごめん」

「サユリちょっと来て」

 サユリこと渚さんは小さな返事をしてミルクさんと部屋を出ていく。

「なぎ、じゃなくてサユリさん!」

 彼女は私を一度も見ない。ふたりを追って部屋を出ると、うつむいた渚さんにもうひとりが寄り添う。

「え?…御影、さん?」



 あれからバイトではもちろん、学校でも渚さんを見かけることが減り、彼女のクラスに行ってみてももう帰ったと言われるし…

 今日こそはと、授業が終わりすぐに廊下に飛び出すと、ほぼ同時に教室から出てきた渚さんをようやく捕まえた。

「なに?私忙しいんだけど」

「渚さん、えーっと…久しぶり」

 学校では基本的にバイトは許されているが、風俗やコンパニオンなど、お酒に関わるバイトはもちろん禁止だから、廊下に他に誰もいないことを確認してから話す。

「この前のこと…どうしたのかな、って…大丈夫だった?」

「べつに。というか、私の事何も聞いてないの?」

「え?何かあったの?」

「いや、べつに…」

「そういえばあの時、御影さんもいたみたいだけど」

「なんだ、御影さんのこと気になるの?」

「ち、違うよ」

「ふーん」

 教室からわらわらと生徒が出て来て、周りが騒がしくなる。渚さんは腕組みをして楽しそうに笑った。

「この間はね…御影さんに個人指導をお願いしていたの」

「え?個人指導?」

「そう。…杠葉さんもピンクをやろうとしてる、って聞いたけど」

「うん。色々あって…」

「御影さん、心配してくれたでしょ?私の時もそうだったな」

「え?どういう事?」

「私もピンクコンパニオンしてるの。知らなかった?」

「そ、そうなんだ…」

「御影さんには、ピンクで必要な事いろいろ教えてもらったの。体でね」




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