影の軛を行くものよ。〈かげのくびきをいくものよ〉
若口一ツ
第1話 白髪天狗
・昔を追って
「おじいちゃん、まだ遠いの?」
「もうすぐだよ。もうすぐ着くよ」
ごつごつした手が私の手を優しく包んでいる。
これはおじいちゃんの手だ。私の暖かなおじいちゃんの固くて大きな指の節だ。
「
「うん」
私は頷いた。
本当は辛かったのだけれど。
前を行くおじいちゃんの顔は木の影に隠れたり出たりして、色々と形を変えている。だからちょっとだけ恐かった。振り向いたら別の人の顔がおじいちゃんの顔にあるかもしれない。そう思ったから。
そんなことはないのだけれど。
おじいちゃんはおじいちゃんだ。
私が私なようにそれ以外の誰かになることなんてない。
けれど。
やっぱり恐かった。
山道をずんずんと進んでいくおじいちゃんの後ろを、手を引かれながら一生懸命付けていく。一生懸命ひっついて行く。絶対に、離されないように。
その途中。
何かと出会い。
私の視界は塞がれた。
耳に残ったのはおじいちゃんの声だけ。
顔が見えないおじいちゃんの誰だか分からなくなった声だけが、頭に残った。
「どうしたの、おじいちゃん」
私の目を隠すおじいちゃんの手は何故かずっと震えていた。
ずっと冷たくなっていた。
「見ちゃいかんよ春陽。あれは、あの娘はきっと。毒だから」
・魔の影を追って
人気のない参道に面した両端に、大小、人の
参道には柵も手すりもないし、ロープもない。大きな杉から生えたこれまた大きな根が道と山との境を作っているだけである。
両端は幹の太い杉の木で奥までは見えない。でもきっと奥にもそのまた奥にも、老いた杉が立ち並んでいるのだろう。
山深い参道だ。
参道と言うが別に鳥居やしめ縄があるわけではない。側から見ればこれは単なる山道だ。目的地をお寺や神社と認識しない限りここは山の中のハイキングコース――のように思える。
それもそのはずで、参拝者が訪れやすいように歩く道がしばしば
ただ。
それはそれで歩幅が合わず絶妙に歩きにくい。
女の子である私の足幅が小さいのも含めてだ。
気を抜くと参道にはみ出た根に足がもつれ転びそうになる。
杉から生えた一部の根は地面に潜らず、所在をなくしたように宙に浮いている。その根が参道側に侵入しているのだ。
ふと――。
根の影が視界を過ぎる。
それが蛇の鎌首のように見え、思わず身を竦ませた。
ほとんど反射のようなものだ。
蛇は苦手だった。
むかし幼い頃に蛇がトカゲを丸呑みにするシーンと偶然鉢合わせて以来、蛇だけでなく、どうにもそれに類似する鱗や形のものを見るだけで鳥肌が立ってしまう性分となってしまった。
今回のは根の影だった。
見えたものが蛇でないと分かりほっと肩を撫で下ろす。
下ろした肩だが、どっちにしろ私が山にいる限り蛇はいる。それに山に存在する脅威は蛇だけではない。
レインコートの隙間から空を見上げた。
案の定、何も見えなかった。
別に全てが見えないほどの暗闇というわけではない。しとどに降る白い雨水のようなものは光の反射で見えたし、漆黒に染められた巨木が天を突いているそれも何となく分かる。ただ、そこにあるはずの青々とした葉は
だからこそ、視線はつい下を――根を見てしまう。
蛇に見えるのに――。
この山の雨という現状。靴先数十センチが今鮮明に見える世界の範囲だ。足元が悪いという生死に関わる状況の中、根を蛇と見間違える程度のことは割り切らなければいけない。
雨が降り出して20分。
一向に止む気配はなく、むしろ勢いを増している。
私は凍える思いだった。
疲労も体温低下を手助けしている。山の天気は変わりやすい。入山した時は快晴だった。歩き始めて20分、ちょうど山の中腹あたりで大雨に見舞われた。
通り雨、にわか雨の類だと高を括り雨具を装備して進んだのも間違いだった。
勢いは
意識は
「帰りたい」
誰にも聞こえない本音。
平日の午前、それに加えこの天気。私以外の参拝者は道中見当たらなかった。今日はシーズン外れの6月半ば――人とすれ違わないこともままあり得る。
今回はそれが運の尽きとなる。
助けを呼べないまま足を進めるしかない。助かるには出口まで自分の力で向かうしかないのだ。
入山口と下山口はほぼ同距離。
私は迷った挙句下山口に向かった。なるべく人気の多い方へと進んだ方が助かる確率が上がる踏んだ。
――何故。
平日昼前にわざわざここ京都鞍馬山へと登ってきたのか。それはとある噂を確かめるためだった。
――鞍馬山には魔が出る。
そんな噂が京都市内の一部で流れていた。
これが噂の内容。
大昔に語られたものではなく、現在進行形で起きている出来事。
証言は幾つもある。
「明け方の
「日暮れ時に背比べ石の背後に立っていた」とか
「雨の日に
これら含む合計七回の目撃および体験談。
皆一様に――何かを見聞きしていた。
その中に、最近出来た私の高校の友人が1人含まれている。
ただ、言うまでもなく。
この手の怪談じみたお話は全国の山々でいくつも発生している。
岩手県
登山者が普段見る事のない何かと山中で出会ったとしても——真偽はどうであれ、体験自体が特別に珍しいということはない。
しかし、滅多にない。
その——
もちろん、全てが偶然でありデマの可能性もある。偶々似た何かを見かけた人がその場の勢いで語ることだってある。
しかし、今回の噂は信じることが出来た。
いや、信じるに足る証拠が私の中にあった。
友人の話を丸呑みにしたわけではない。それはまた別の話になる。私が噂を信じるきっかけとなったのは至極単純な話であり。
噂の証言が——全て。
——私の記憶と一致していたから。
それが鞍馬山に出る
ここが天狗で有名な鞍馬山だからこそ、つけられたあだ名なのだと思う。
私はそれを確かめたかった。
別にオカルトを信じているわけでも、幽霊が嫌いなわけでもない。信じる信じないが分け隔てなく混在しているのが私の未知に対する心構えだ。
そんな私が、
見たのだ。
昔、この山中で。
噂と全く同じ少女を。
おそらく私が噂の第一発見者だと思う。
この
そして、私がその魔と呼ばれる少女を見た瞬間、側にいたおじいちゃんが私の目を塞いだのだ。
その皺の寄った老人の硬い手の感触をいまだに覚えている。
私だけじゃない。おじいちゃんも見た、身内ではあるが他者の存在が見間違いという可能性をなくしている。
だからこそ、噂を聞いた時は肝を抜かれた気になってしまった。
自分の体験が他人の体験として語られる違和感。私の経験が他人の経験と入れ替わったような錯覚を覚えてしまうほど。私の記憶と噂の内容は一致していた。
だから来た――。
どうしても辻褄を合わせたかった。
そして。
「痛いなあ、足」
土砂降りの雨の中。山のどこかで
「カイロ、欲しいな」
口が回るうちはまだ余力がある。
「白髪少女に会えなかったな」
夢を語れるうちはまだ大丈夫。
「ご飯、今日のなんだろ」
欲があるうちはまだ平気。
「あぁ、私のバカ」
後悔。
「――ええ、大馬鹿ね」
自虐できるうちは――。
「え?」
今、声が二重に聞こえたような気がした。――ああ、きっと幻聴だ。いよいよ命の灯火が吹き消される合図ということなんだ。
「タイミング最悪よ貴方」
やはり――
「死ぬんだ、私」
そうぼやいた直後。
眼前に黒のセーラー服が現れた。
その頭部に何やら白いものが宙を舞っていた。
いや――モノではない、それは白髪だ。
「白髪天狗? 京都の魔? 幻聴? 耳鳴り? 全部嘘? 違うわよ」
黒と白のセーラー服の声が言う。
「だって私は――ここに居るもの」
胸に手を当てて何かを宣うセーラー服。彼女が。目の前にいる彼女が私の探していたモノだと分かる前。
セーラー服から出るその手の節、手首の付け根あたりに薄っすらと輝くものが見えた。その物体が、その輝きが何がしかの爬虫類の鱗であることを認識してしまった私の脳内は急速にブラックアウトし。
雨降る山の中、見事に意識を失った。
影の軛を行くものよ。〈かげのくびきをいくものよ〉 若口一ツ @warabegawa1
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