三章一話 空に一番近い場所で(二)

 こうして一日はあっという間に過ぎていった。

 今日の終わり。一周十五分の観覧車が私達をゆっくりゆっくり空へと運んでいく。

「私達の住んでる街ってこんなに綺麗だったんだ……」

 普段なんとも思わない街の夜景がこんなにも綺麗だったなんて。ちょっと泣きそうかも。そのぐらい私は感動していた。

「夢みたいです」

「はは。大袈裟だなぁ」

「いえ。夢なら醒めないでほしいと本当に思ってますよ――いた、いたた!」

 むにーっとほっぺたを摘んでやった。「どう? これでも夢?」

「現実みたいですね」

「ね?」あはは、と笑う。

 二人きりの密室。次第に会話が減っていく。

 聞こえるのは、時折揺れるゴンドラの音だけ。

 六合目あたりだろうか。村山くんがぽつりと言ったのは。

「綺麗ですよ」

「――え?」

「遊園地の観覧車から見る夜景はとても綺麗ですけど、市原さんには敵いません」

 また急にこんなこと言い出す。

「でしょ?」毎回照れてばかりいるのも悔しいので得意げに返した。でも、彼のはにかみを見ていたら、やっぱり照れてしまう。

「一度言ってみたかったんです」

「あは、あはは。村山くんったら、冗談が上手いんだから!」

「市原さんのほうが綺麗だってことは冗談じゃないですよ」

 柔らかだった表情がふっと変わった。

 八合目。私はセーターの裾を握り締めていた。

「観覧車には不思議な魔法があると思うんです」

「魔法?」

「ゴンドラに揺られていると素直な気持ちになれます」

 九合目。彼はとても落ち着いていた。

「電話をかけた日からずっと考えてきました。こういうとき、どんな言葉が正しいのか、どんな言葉ならちゃんと伝わるか……。答えは、やっぱりシンプルでした」

 いままで見たことない村山くん。男の人の顔だった。

 空に一番近い場所で、彼は言った。

「――――」

 世界中が魔法にかかったみたいに、私達は二人きりになった。

 空を通り過ぎて、観覧車はゆっくりと地上へと近づいていく。

 ようやく落ち着いたところで「ごめん」と言った。まだ少し鼻がぐずっている。

「村山くんがこういうこと冗談で言う人じゃないって分かってるし、私のこと凄く真剣な表情で……嬉しいよ。本当に。でも……」

「――巧さんですよね」

 私は頷いた。「ごめんね……言い辛いよね……好きな人の前で元カレの名前なんて」

「俺は大丈夫です。だから、無理に泣き止まなくてもいいんですよ」

 彼の優しさにまた涙が込み上げてきた。

「ごめんなさい……びっくりして、ちょっとまだ……気持ちの整理がつかなくて」こんな気持ちのままじゃきっとなにも答えられない。

「気にしないでください。俺こそ急に言い出してすみません」

「ううん。私が未だにうじうじしているだけで、村山くんはなにも悪くないよ。顔上げてよ」

「はい」

「あのね」ぐずっと鼻が大きく鳴った。

「はい」

「もう少しだけ待ってもらえるかな。いま、頭の中がぐちゃぐちゃで上手く気持ちを伝えられそうにないの。だから――」

「市原さん。俺はいくらでも待ちますよ」

「ありがと……」

「いえ。……告白しておいてこんなことを言うのもなんですが、正直なところすぐに返事をもらえるとは思ってなかったですから」

「そう、なの?」

「俺は、市原さんのそういう一途さに惹かれたんですよ?」

「――も、もう! これ以上泣かさないでよ! 村山くんの馬鹿っ!」

「わ、わ、市原さん! ゴンドラの中で立ち上がったら危ないですよ!」


 三月とはいえ、夜の風はまだまだ寒い。いつもより少しだけ(ほんの少しだよ)二人の肩は近かった。

「すっかり遅くなってしまいましたね。連れ出した俺が言うのもなんですけど、門限とか大丈夫ですか?」

「へへ。親には泉水と遊んで来るって言ってあるから大丈夫だよ」ピースを作った。

「すみません。気を遣わせてしまって」

「いいっていいって。そういう村山くんこそ門限とかないの?」

「俺の場合は、むしろもっと遊べって言われています。週末こんな風に外出することがないから変に心配されているんですよ。それこそつい最近『あんた、もしかして学校に友達いないんじゃない?』って母親から真顔で訊かれました」

「あはは。そんなことないのに。村山くんのお母さんは心配症だなぁ」

「これまでがこれまでですから」村山くんは苦笑した。

「友達いっぱい出来たのにね。『息子さんはちゃんとやってますよ』って言ってあげたいぐらい」

「友達の筆頭が『三蔵』ってのはどうかと思いますが」

「こらこら。そんなこと言ったら今川くんに失礼だぞ」

「市原さん」

「ん?」

「顔笑ってますよ」

「ばれた?」

「ばればれです」

「ねぇ、村山くん」

「なんでしょう」

「また一緒に遊んでくれる?」

「もちろんです」満面の笑みが嬉しかった。やった!

「うぅー、それにしても寒いねぇ」

「ですね。でも、もうすぐ春です」街路樹を見て言った。

 春が来たらこの街路樹もまた色鮮やかな葉をたくさんつけるだろう。私の――ううん。私達の新しい日々も、そう遠くないのかもしれない。

「村山くん、手繋ごっか」

「……いいんですか?」彼は躊躇いがちに訊いてきた。

「いいもなにも、寒いんだもん」

 二人とも指先が赤い。私はニコッと笑いかけた。「そういう気分なの」

「で、で、では、失礼します」

「大袈裟だなぁ」と言いつつ、私もドキドキしていた。

 キスじゃあるまいし、二人してなにをこんなにドキドキしているのか。ただ手を繋ぐだけで。もう既に一回繋いでいるのに(あれはノーカウント?)。

 ただ、手を繋ぐだけで。

 村山くんは恐る恐るといった感じだ。表情も硬い。そんな彼を見ていたら、つい悪戯したくなった。彼の手をぎゅっと握った。一瞬びくんと震えたけど、すぐ同じ力で握り返してきた。

「へへ」

「なんかくすぐったいですね」

「そだね」

 この照れようったら。付き合いたての中学生みたい(いまどきの中学生のほうが進んでるかな?)。

 繋いだ手にときどき力を入れた。そのたびにびくっとなるものだから、それがおかしくて可愛くて、私は道すがら何度も意地悪した。


 ――そして、手を繋いだまま立ち止まったのだ。


「どうしたの?」

「……水仙寺さん」

 女の子も「あ」と村山くんに気づいた。

「久しぶり! 偶然だね!」

 ぱっと笑顔を見せた女の子は、可愛らしい人だった。ふわふわとしたショートボブ。

「……知り合い?」お洒落なコートにフリルのスカート。

「はい」そう言って彼は、繋いだ手を離した。

「昭和くん、元気にしてた?」小さな笑窪が羨ましい。

「水仙寺さんこそ元気そうで……買い物ですか?」

 女の子は「うん」と買い物袋を胸の高さまで持ち上げた。

「読モの収入が入ったから。全部洋服」

「そうですか。仕事が上手くいっているようでなによりです」少し棘のある言いかただった。

 気にした様子もなく、「仕事はまぁまぁかな」と色艶のいい唇に指を当てて言う。口紅だけじゃない。よく見たら薄く化粧をしていた。

「ところで、この人は誰?」

「市原真理さん。クラスメイトです」

「デート?」

「はい。俺はそのつもりで誘いました」

 即答に改めてドキッとした。……でも、村山くんの表情はさっきからずっと険しい。普段物腰柔らかな人だけにいま横にいる村山くんはかなり怖い。

「付き合ってるの?」

「いいえ」鈴のように澄んだ声にもあくまで素っ気ない。

 水仙寺さんは「ふぅん」と村山くんから視線を外した。

「初めまして」

「どうも。初めまして」

 華やかな笑顔だけど目の奥が笑っていない。直感的に好きになれないタイプだと思った。同じ華やかさでも早苗とは違う――この子は、お人形みたいだ。

「私、水仙寺遥って言います。花の水仙とお寺で、名前は遥か彼方の遥です。村山くんとは中学時代の同級生で……自己紹介はこんなところでいい?」最後、村山くんに訊いていた。

「ええ。それで問題ないと思いますよ」

「冷たいね」

 村山くんの横顔に亀裂が走った。

「村山くんにとってこの人は、ただの友達ってわけじゃないんだよね?」

「さっきからなにが言いたいんです?」こんなにイライラしている彼を見るのは初めてだった。

「私のことはちゃんと見てくれなかったのに」

「それはいまでも後悔しています。……ただ、それとこれとは話が違います。あれはフェアじゃない。俺、水仙寺さんがしたことは一生忘れないですよ」

 さすがに彼女の表情から笑顔が消えた。

「昭和くん」彼女はまた村山くんの名前を正しく呼んだ。そのことが気に障った。

「いまさら許してなんて言わないよ」

「過ぎたことなのでもういいですよ。……それに、俺にも非はありました」

 水仙寺さんは、なぜか一瞬泣きそうな顔を見せた。

「そういうところだよ……」

 そう言い残して彼女は立ち去った。

 すらりとした後ろ姿に、私はまた嫉妬した。

「あの子とは、クリスマスイブまで付き合っていました」

 驚きはしなかった。いくら恋事に鈍い私でも話の流れからそれぐらいは分かる。

「隠していたわけじゃないんです」

 彼は私の顔を見ていなかった……。

 バスは今生の別れでも告げるかのように湿っぽく走り出した。

 私は結局なにも訊けなかった。彼もなにも言わなかった。

 いつものように振り返り、いつものように手を振ることが出来なかった。いま彼の顔を見てしまったら、なにかが壊れてしまいそうな気がしたから。

 ――市原さんと観覧車に乗ったこと、絶対に忘れないです。

 別れ際の言葉がとても切なかった。手のひらの温もりは、もうなかった……。

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