一章一話 頑固な人だね、君は(二)

 年明け初日の学校は、特にこれといったイベントもなく一日を終えようとしていた。

 しかし、それはホームルームが終わってから起こった。本当に本当に小さな出来事だった。

「小沢の婆ちゃん、教材置きっぱなしだぜ」と誰かが言った。

 そのとき、私は帰り支度をしていた。

 地理の授業で使った教材が、教室の片隅にでんともたれかかっていた。ぐるぐる巻きの世界地図は、まるで絨毯みたいだった。

「これ絶対わざとだよな。持って来たのはいいけど、持って帰るのが面倒になって置きっぱなしにしてったんだよ」また誰かが言った。

 ――誰か持ってけよ。

 ――そういうお前が持ってけよ。

 ――学年末の点数五点サービスしてくれんなら持ってくけどな。

 ――婆ちゃんお年だもんな。こんなの抱えたら腰がアイタタだ。

 男子の間で笑い声が上がる。

 ――あんな重い物持って行けるわけないし。

 ――誰でもいいからさっさと持って行ってよ。

 ――こういうとき、男子が率先して動くもんでしょ。

 女子は見て見ぬふり。あるいは意味深な目配せ。決して口を開かない。男子よりもタチが悪い。

 私はこういう空気が嫌いだった。居心地が悪いし、腹の探り合いも好きじゃない。関わりたくなければ関わりたくないではっきり口にすればいいのにだらだらとふざけて、結局は「ノー」と言えない、クラスの立ち位置が微妙な子に面倒事を押しつける。

 ――悪いね。

 ――優しいね。

 そのときに見せる半笑いが、私はなにより嫌いだった。汚い言葉で言えば「むかつく」のだ。

 これ以上茶番を見るぐらいだったら私が持って行こう。泉水はもう部活に行っているので、私一人で運ぶことになるだろう。それでもいい。別にいい格好をする気もないし、貧乏くじを引かされたとも思わない。これは私が私であるための流儀だ。

 ところが、私が席を立つよりも先に、控えめに名乗り出た人物がいた。

「俺が持って行くよ」

 すると、ふざけていた男子がわっと沸いた。

「お、しょうわくん行ってくれるんだ!」

「さっすが。空気が読める男!」

「しょうわさん、マジイケメンっすわ」

 村山くんは頭を掻きながら、「俺、職員室に行く予定があるから」と見え見えの嘘をついた。男子が二人、こっそりと彼のことを笑った。

「じゃ、俺が持って行くんで」そう言って、ぐるぐる巻きの地図に両腕を回した。「すみません。誰かドアを開けてもらえませんか?」

「よし。しょうわくん、俺に任せとけ!」クラス一のお調子者が意気込むと、「なんでお前が気合入れてんだよ」と周りが突っ込んだ。

 お調子者――今川三蔵がいかにも大袈裟な演技でドアを開けた。「俺に構わず行け!」

「あ、ありがとうございます……?」真面目な彼はノリに困惑していた。

「いいってことよ。クラスメイトなんだから堅苦しいのは抜きにしようぜ。それより大丈夫かよ? 既にフラフラじゃん」

「平気です」

「なんなら手伝うぞ」

「結構です」村山くんはぴしゃりと拒絶するように言った。

「……ああそう。なら別にいんだけど」今川くんも少し気を悪くしたようだった。もしかしたら本当に手伝おうとしてたのかも。

「では」村山くんの足取りは覚束なかった。

「おう。精々頑張ってくれ」

 村山くんが出て行ったあと、今川くんのそばにいた男子が「感じ悪ぃな」と口にした。

 ――いいかっこしいが。そんな声も聞こえた。

 いても立ってもいられず、私は教室を飛び出した。誰かの声が背中に当たったような気がする。そんなもの知るか!

 村山くんは、曲がり角の手前で案の定右に左に揺れていた。やじろべえか、あんたは。私は呆れた。 

「ちょっと待ってよ」声をかけた。

 彼は、壁に地図を立てかけて息をふぅふぅさせていた。

「どうも、市原さん」

「私も手伝うよ」会うなり言った。

「どうしてです?」真顔で訊くな、怖いから。

「どうしてって……一人じゃ重いでしょ?」

 壁に立てかけてあるそれを指差した。

「いや。大丈夫です」村山くんは言った――今川くんのときと同じように、相手を拒むような言いかたで。

 頭の中で「ぷちっ」と音がした。

「俺も男です。このぐらい一人で持って行けます。市原さんのお手を煩わせることはないですよ」またもきっぱりと言う。

「休憩も済みました。市原さんのお気持ちはありがたく受け取りますが、ここは俺一人で。では」

 ぶきっちょな手つきで巻き物を持とうとする頑固者を見ていたら、怒りがふつふつと込み上げてきた。

 次の瞬間、私は「だぁもう!」と声を荒げていた。

「ごちゃごちゃとうるさいな! あんた一人の力でなんとかなってないから手伝うって言ってんでしょうが! 頑固な人だね、君は! 変な意地張らないで周りに頼れよ!」

「市原さん?」彼は呆気に取られていた。なんで怒られているのかさっぱり分かっていないようだった。それがまた腹立だしかった。

「ほら。私、こっち持つから村山くんは反対側持って」引ったくるようにして地図の端を持った。「あ、はい」彼は言われるままに反対側を持った。

「どう? 二人なら持てるでしょ?」

「はぁ」

 締まりのない返事に怒る気力もなくなった。

「……とにかく職員室に持って行こう。階段踏み外さないようにね」

「はい――おとと!」

 言ったそばからこれだ。


 地図の巻き物を職員室に持って行くと、小沢先生は「まぁ。ごめんなさい」と生徒相手に心底申しわけなさそうに言った。

「気にしないでください。それよりも、小沢先生こそこれを一人で持って来るのにずいぶん苦労なされたんじゃないんですか?」

「優しいのね、村山くんは」

「そんなことないですよ」

 ちょっとぐらい素直に受け取ればいいのに。二人のやりとりを聞きながら思った。頑なな人だな、この人。

「市原さんにも運ぶのを手伝ってもらいました」

「まぁ。市原さんもありがとう」

「い、いやぁ」村山くんじゃないけど、くすぐったさに私もつい謙遜してしまった。

「今度からは、私も男の先生に運ぶのを手伝ってもらおうかしら」

 私と村山くんのことを見上げて、小沢先生は言った。


「いいことするとなんだか気持ちいいね」

 へへ、と照れ臭さに鼻を掻いた。村山くんも「そうですね」と言った。

「今日はありがとうございました」

「いいっていいって。私だって村山くんに色々助けてもらったし。困ったときはお互い様なんでしょ?」

「それも、そうですね……」彼は赤くなった。自分で言っといて忘れないでよね。

 階段の踊り場。誰かが現れそうな気配はなかった。

 だからだろうか。我慢出来なくなったのは。

「戻りましょうか」と言った村山くんを、「あのさ」と呼び止めたのは。

「なんでしょう?」

「君がいい人なのは分かるよ。さっきのことだってさ、みんなが見て見ぬふりをしてる中で『俺が持って行くよ』って、ああやって言い出すのって凄く勇気がいることだと思うし、見ていて立派だと思ったよ。……あ、ごめん。ちょっと上から目線かな?」

「そんなことないです」

「うん。じゃあ、もうちょっとだけ続けるね。私、村山くんの行動は立派だと思う。

 ……でもさ、自分一人でなんでもかんでも背負おうとするのは、ちょっと違うよ」

「違いますか?」

「違うよ」と私は言える。「そんなの苦しいだけじゃない? あれこれ背負い込んでたら、いつかパンクしちゃうよ」

「そりゃ重かったですけど、たかだか運び物一つですよ?」

「そういうこと言ってるんじゃないの。……村山くんさ、人に頼るの苦手でしょ?」

 頬がぴくっと引き攣った。「否定は、出来ないですね」

「いつもおちゃらけてる人だからどこまで本気だったかは、そりゃ分からないよ。それでも、今川くんのことあんな言いかたで突っぱねなくてもよかったんじゃない?」

「言いかた……きつかったですか?」

「うん。ちょっとね。今川くんもさすがに気を悪くしてたみたいだし」

「そうですか……。だとしたら悪いことしたな」

「ま、もし面白半分で言ってたんなら、私がケツを蹴っ飛ばしてたけどね」

 私の物言いがおかしかったのか、強張っていた彼の表情がふっと緩んだ。

「市原さんは、結構おっかないんですね。先ほどの怒りっぷりも堂に入っていましたし」

「おしとやかなばかりが女の子じゃないんだぞ」茶目っ気たっぷり、下手くそなウインクを交えて言った。

 村山くんは一瞬、ぽかん。が、次の瞬間、声を立てて笑い出した。

「ですよね。はは。市原さんが言うと説得力がありますね。あは、あはは!」

 村山くんが声を立てて笑っているところ初めて見た。

 なにがツボに入ったのかよく分からない。だけど、彼の意外なほどに気持ちのいい笑いっぷりを見ていたら(笑いのもとが自虐ネタでも)そう悪い気はしなかった。

 それは、ときめきにはほど遠い感情だった。それでも、失恋でギザギザに切り裂かれた心にぽっと暖かな日が差したように、私は久しぶりに安らぎを覚えた。

 いつしか一緒になって笑っていた。

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