一章二話 孤独なランナーにメダルを(一)

 一月下旬の朝。昇降口で村山くんを見かけた。

 いつものように「おはよう――」と挨拶しかけて、私は言い留まった。

 清々しい朝だというのに、彼は靴箱の前でこの世の終わりみたいな顔をしていた。しかも、「ふぅ……………」と、こっちの気まで滅入りそうな溜め息をついて。

 彼の気持ちも分からなくはないよ――だって今日はあの日だからね。

「村山くん、おはよう!」あえて明るく挨拶した。

「おはようございます……」

「おーおー、ずいぶん暗い顔ですなぁ」

「昨夜は緊張で眠れませんでした」

「そこまで思い詰めなくても」肩を竦めて「ただのマラソン大会じゃん」――と言いつつも、彼にとって今日のマラソン大会が「ただの」でないことを私は知っている。

「まぁそうなんですけどね……」

「仕方ないな」私は、はぁーと手のひらに息を吹きかけた。

「それは……なんですか?」

 不安そうな声を無視して、私は「おりゃあっ!」掛け声とともに――闘魂注入――村山くんの背中を「バチン!」と叩いた。

「うぐ!」

「どう? 気合い入った?」手をブラブラさせながら訊くと、村山くんは「かなり」と答えた。若干涙目になってる(ちょっとやり過ぎたか?)。

「ま、今日はお互い頑張ろうよ」

「そうですね」

 私達は、お互いの健闘を祈ってコツンと拳を合わせた。

 私は「へへ」と笑った。


 八時五十分――全校マラソン大会開始十分前。

 ――あー、さみぃ。

 ――かったりい。

 ――真面目にやったって馬鹿らしいし、適当にやろうよ。 

 現代っ子達がぶーぶー文句を垂れる中、私は念入りにストレッチを行っていた。

「いちにーさんしーごーろくしちはち……いちにー」

 こういったレースにおいて事前のストレッチは大事だ。たかがストレッチされどストレッチ。適当にやっていると思わぬ怪我に繋がりかねない。

「泉水、アキレス腱は特にしっかり伸ばしときなよ。急な運動で断裂することもあるんだからね」

「走り出す前にさらっと怖いこと言わないでよ」丁度アキレス腱を伸ばしていた泉水がぎょっと身を引いた。

「脅しとかじゃないよ。中学のとき、こんな感じのマラソン大会でアキレス腱切った子が実際いるんだもん。その男の子、半年はまともに――」

「あーもう聞きたくない。聞きたくないから。真理っちは元体育会系だからまだいいけど、私なんか生まれも育ちも四百字詰め原稿用紙よ?」

 マラソン大会なんてナンセンスよ。泉水の言い分も分からなくはない。私だって読書感想文のコンクールとか「げぇ」だし。

「とりあえず五十位内には入りたいな」

「ふぇー、ご苦労さんなことで」

「へへ」

 中学三年間ソフト部だった私は、勝負事になにかと燃えてしまうのだ。

 大鳥島南高校の全校生徒は約千人。女子生徒は大体半数の五百人。現役体育会系には歯が立たないだろうけど、喰らいつける限り上位を目指していきたい(村山くんに「ただのマラソン大会じゃん」って言ったことなどすっかり忘れている)。

「三キロって花の乙女が走る距離じゃないでしょ~」泉水はまだ泣き言を言っている。

「最初はきつくても体が慣れてくれば、徐々に楽になってくるから。そうなるとかえって清々しいよ」

「真理っち、何語喋ってるの……?」宇宙人を見るような目つきは止めなさい。

 屈伸しながら「それにさ」と泉水は続けた。「私みたいに胸が大きいとさ、走ってる最中、男子がやたらじろじろと見てくるんだもん。その点、真理っちは(チラリ)……心配しないでいいよね」

「ほっとけ。ロリ巨乳」ポーズを作るな、ポーズを。

「僻まない僻まない。真理っちもいつか大きくなるって。人の夢と書いて『儚い』とも読むけど。あはは!」

「泉水、これ以上言ったら蹴飛ばすよ」

「ノーノーノー。それは勘弁。それよりも真理っち、この頃村山くんとますます親しげ?」

 回していた足首を捻りそうになった。「……そんなことないでしょ」澄まし顔を作ったところで意味はなかった。泉水はニヤニヤしている。

「年明けからなーんか怪しいんだよねぇ。全然喋ったことなかった二人が親しげに挨拶なんか交わしちゃってさ。『お互い頑張ろうよ。コツン』だっけ」

 かっと耳が熱くなる。……まったく油断も隙もないな。

「失恋で傷ついている女の子ほどコロッといきやすいものはないからねぇ」

 世話好きな親戚のおばちゃんは無視無視。

「噂をしてればなんとやら。真理っち、村山くんがこっち見て手を振ってるよ」

「まさか」と言いつつ、振り向く私。――ほんとだ。

「せっかくだから応えてあげたら?」

「そうね。無視するのも可哀想だし」

 可愛いー、とはしゃぐ泉水を横目に手を振り返した――頑張ってね、と密かにメッセージを込めて。

「真理っち的には、村山くんより妃くんのほうがタイプ?」

 茶色がかった長髪は遠くからでも一目瞭然。村山くんと喋っているのは妃竜太郎だった。「私はちょっと……あまりいい噂聞かないし」

「お、はっきり言うねぇ。真理っち的には妃くんはNGと」

「だって女癖悪いんでしょ?」

 一年二組、妃竜太郎(きさきりゅうたろう)。入学当初からあまりいい噂を聞かない。中学時代女の子を百人斬りしたとか、週ごとに彼女が変わっているとか、他校の不良と全面戦争したことあるとか……。

 噂がどこまで本当かは知らないよ(噂なんて大なり小なり尾ひれがつくものだし)。でも、積極的に関わりたくもない。噂抜きにしてもあのナイフみたいな雰囲気はおっかないし。

「あの二人が友達ってのが不思議だよねぇ。全然タイプ違うのに」

 二人は楽しげに笑い合っていた。

「中学が一緒だったとか?」

「今度訊いてみたら?」

 そうね、と素直に頷いたらまた冷やかすつもりなんだろうな。

「別に村山くんのことそこまで知りたいわけじゃないし」私は棘っぽく言ってやった。

「真理っちってやっぱ可愛いね」

 下手くそな演技は、バレバレなようだった。


 九時――簡単な開会式を経て、マラソン大会は始まった。

「よーいドン!」のピストルで五百名近い男子が一斉に走り出した。

 イベントというものは、始まるまでが面倒でも一度始まってしまえば案外盛り上がってしまうもので、乾いた号砲とともに「わぁぁぁぁぁ!」と歓声が上がった。

 となると、嵐に飲み込まれる人間が一人や二人いてもおかしくないわけで……。

 スタート地点でさっそくこけている男子がいた。

「……あれ、村山くんだよね?」

「……うん。そうなる気はしてた」たぶん勢いに押されたんだろう。

 ――あの人持ってるね。

 ――だっさ。

 ――どんどん離されてくね。

 笑い者になるのは当然だった。

 去年までの私なら彼女達と一緒になって笑っていたかもしれない。

 でも、いま痛みを堪えて立ち上がろうとしているのは友達なんだ。笑うわけがない。

「頑張れ!」と大声で応援する勇気はない。そんな自分が嫌になる。村山くんが私の立場だったら、人目なんか気にせずに叫ぶのかな?

「大丈夫かな?」

 不安げな泉水に、私は「大丈夫だよ」と言った。

 ――村山昭和(むらやまあきかず)。現在最下位。


 中学のときから一年以上のブランクがあるから走り始めはさすがに足が重かった。

 現役体育会系を相手に五十位内はちと厳しいか。村山くんみたいに自主練しとけばよかったと思いながら河川敷を走る。

 一キロぐらい走っただろうか。ようやく体が温まってきた。

「偉いなぁ、村山くんは」ふと口にしていた。

 あれは先週の日曜だった。中学時代の友達と遊んだ帰り。

 河川敷の夕日を背に、彼のトレーニングウェアは全然似合ってなかった。

 ――あの人、もしかして吐いてない?

「……遅くならないうちに帰ろうよ」

 知らない人のふりをして、私は夕暮れの道を通り過ぎた。


 しばらく走っていたら男子の最後方が見えてきた。

 村山くんかも……だとしたら「頑張れ」の一言でも、と思っていたら、彼らはグループだった。ちんたらちんたら歩いている。

 追い抜きざま、ちらと三人の顔を見た。みんな知らない人だった。

 ――うぉー、あの子はえー。

 ――気楽にいくべ。気楽に。

 村山くんがビリじゃないことにほっとした。頑張ってんだな。

 よし、と私はギアを一段階上げた。少しオーバーペースなのも気持ちよかった。

 ――おらぁ、お前らちゃんと走らんかい!

 この怒鳴り声は「鬼瓦の江藤」だな。さっきの人達がどやされているに違いない。くく、いい気味だ。

 たとえ不格好だろうとなんだろうと、へらへら笑いながら適当なことをしている連中なんかより君のほうがよっぽどカッコ良いよ。

 一生懸命が報われるといいね。

 ゴールしたらまた拳を合わせようかな、そんなことを考えながら走る。

 折り返し地点が見えてきた。

 ここからどのぐらい順位上げられるかな。

 ふと視線を上げたとき、安定していた呼吸が「あっ」と突如乱れた。

 コーンの先で人が倒れていた。

「大丈夫ですか!」私は駆け寄った。

「……っ」

「起き上がらないで」起き上がろうとする男子生徒を押し留めた。

 こっちの血の気が引くぐらい、彼の顔色は真っ青だった。

「む、村山くん……」声が震えそうになった。

「市原さん、ですか?」

「私のこと分かる?」

 村山くんは小さく頷いたけど、明らかに目の焦点が合っていなかった。

「頭痛い? 気分悪い? 吐き気は?」

 私は落ち着きを失っていた。中学時代運動部に所属していながら、これといった怪我や病気に無縁だったから、こういうときどうすればいいのか分からない。

 村山くんは、矢継ぎ早の質問に首を振るばかりだった。意識が朦朧としているんじゃ?

 自分の呼吸が浅くなっていくのが分かる。

 無理に動かさないほうがいい。これは確実。でも、このままも……。水、水を飲ませたほうが――。

 誰か! 誰か! 泣きそうだった。

 と、そのとき――「……リン」――微かに聞こえたそれは、

「ベル……?」振り向いた。

 チリンチリン――自転車のベルの音が次第に近づいて来る。

 次の瞬間、私は火がついたように「先生っ! 先生っ!」と叫んでいた。江藤先生が竹刀片手に巡回していた。

「先生っ! 先生っ!」命懸けのヒッチハイクでもするように、叫び、手をメチャクチャに振り回した。

 目の前でキィィィーっと激しいブレーキ。「どうしたっ!?」

「村山くんが、ここで、倒れてたんです」

「ちょっとどけ」私を押しのけて、村山くんの背に太い腕を回した。

 彼に二、三質問してから、保健の池上先生に連絡を入れた。

 三分もしないうちに池上先生の車がやって来て、村山くんを連れて行った。

 走り去る赤のミニクーパー。がやがやと増える野次馬。呆然と立ち尽くしている私……。

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