川姫
麻(asa)
川姫
「姉さん。わたし、恋をしているの」
水草のカーテンで目隠しされた、秘密の小部屋。
頬を赤らめ、小さな声で、妹は私にそう打ち明けた。
ああ、やっとか。
安堵のため息がこぼれる。それは小さなあぶくとなって、水面に上っていく。
5人姉妹の末っ子であるこの子も、とっくに年頃を迎えていた。なのに、それらしい話題がこれっぽっちもなく、ずっと気を揉んでいたのだ。
これでようやく、長女の私も、先日死んだ母に顔向けができそうだ。
「そうなの。お相手が誰なのか、鶯(うぐいす)姉さんにだけ教えてくれる?」
尋ねると、丸い瞳をビー玉のようにかがやかせて、雀(すずめ)は答える。
「にんげんよ。にんげんの男の子なの」
そんな馬鹿な話があるだろうか。
人魚が、人間に恋をするだなんて。
うっかり「姉さんにだけ教えて」などと言ってしまったばかりに、誰かに相談することもできない。
鬱憤を晴らすように、朝食の藻を乱暴に噛みちぎり、音を立てて飲み込む。
私たちにとって、人間は天敵だ。捕まった仲間たちは数知れず、戻ってくるものは誰ひとりいなかった。
人間がどんな目的をもって、私たちを標的にするのかなんて、知る由もない。けれど少なくとも、恋の相手や、生涯の伴侶として迎えるためではないだろう。
「姉さん、今朝はたくさん食べるのね」
隣で食事をしていた雀が、ふいに顔をのぞきこんでくる。
「ええ。なんだかお腹が空いてね」
「そうなの」
雀は手を伸ばし、私の臍の下あたり、ぽこんとふくらんだ箇所にそっと触れる。
「やっぱり、ここに赤ちゃんがいるからかしら」
私はこの春、出産する。
今までさほど興味もなかったくせに、この子はいつの間に、こんなにうっとりした表情を浮かべるようになったのだろう。
すぐそばから漂う甘ったるい匂いに、めまいがしてくる。
妹は、病に冒されている。
初恋という、見るものすべての色を変えてしまう、おそろしい病に。
「姉さん、知ってる? 光る水面に想い人の顔が浮かんだら、その恋は叶うんですって」
「なあに、それ」
「瑠璃姉さんが教えてくれたの」
瑠璃は、噂話や占いが好きな三女だ。人間のことにも詳しいらしい。
趣味は個人の自由だけれど、妹におかしなことを吹きこまないように言って聞かせなくては。
「わたし、これから毎日水面を見上げるわ」
そして雀は本当に、日が昇って沈むまでの間、水面をじっと見つめるようになった。
食事をしていても、鱗の手入れをしていても、妹にのまなざしは常に外の世界へ注がれていた。
お行儀が悪いからやめなさい、と言ったところで、それに素直に従うわけはなかった。
初めは他の妹たちや仲間たちも、心配して声をかけたり、遊びに誘ったりしてくれていた。
しかし、長女の私の手に余るのなら、どうしようもない。
いつしか、そんな雰囲気が漂うようになっていた。
「ちょっと、姉さん」
ぼんやりしているところへ、瑠璃が肩をつついてきた。
「雀はいったいどうしちゃったのよ。姉さん、いつも一緒にいるんだから、何か知ってるんじゃないの」
思わず、頭に血が上る。
「何かって、あなたのせいに決まってるじゃないの。あなたがあの子にでたらめなことを言うから」
「はあ? なんの話よ」
「水面に想い人の顔が浮かんだら、恋が叶うって教えたんでしょう!」
瑠璃はぱちぱちと目をしばたたかせる。
「知らないわよ、そんなおまじない」
「だってあの子が、あなたに聞いたって」
一拍置いて、瑠璃は大きなため息をつく。それは水流を起こして、私の前髪を揺らす。
「姉さんさ、雀のこと、純真無垢な赤ちゃんか何かだと思ってない?」
「……どういう意味」
「小さかったあの子も、隠しごとをしたり、嘘をつくこともできる年頃になったってことよ」
翌日は、朝から雨だった。
川面には無数の波紋が広がり続け、私たちの住処も、水滴の落ちる音で満ちている。
私は数日ぶりに、雀と目を合わせた。
「今日は水面を見上げていてもだめみたい。残念」
「そうね。でもきっと、明日は晴れるわ」
私の口から出てくるのは、気持ちのこもっていない、薄っぺらな言葉ばかり。
それを知ってか知らずか、妹はうすく微笑んで、私の手を握る。
「姉さん、秘密の小部屋へ行きましょう。ふたりきりでお話したいの」
雨の日の小部屋は、真夜中のように暗く静かだ。
「今日は、姉さんの恋の話が聞きたいわ。いいでしょう?」
「……ええ。もちろんよ」
私たちの種族に、男はいない。
女だけで生活していくことになんら不都合はないけれど、男が必要になる場面がひとつだけある。
それが、繁殖だ。
年頃になると、私たちは、付近に住む似た種族の人魚の男たちと交流を始める。そして恋をすることで、腹に新しい命が宿る。
恋が終われば、自分たちの住処へと戻り、そこで子どもを産み育てる。そういう仕組みだ。
「じゃあ、姉さんも、恋する相手がいたのね」
「そうね。今ここにこの子がいることが、恋の証拠だわ」
だんだんと張ってきた腹を、そっと撫でる。
まるで、そうすることが自然だとでも言うように。
「その人に、会いたいと思う?」
「思わないわ」
闇の中で、妹の肩を引き寄せ、抱きしめる。
「お腹の子も、あなたも、他の妹たちも、恋なんかよりずっとずっと大切だもの」
雀は、抱き返してはこなかった。
ただ小さくふるえながら、私の胸元に顔を埋めていた。
不意に、小部屋の中が薄明るくなった。
カーテンの間から、細い日の光が差し込んでいる。
妹は顔を上げ、それを認めると、私の腕をゆっくりとほどく。
そして、引き寄せられるように外へ出た。
「姉さん。見える?」
妹のあとに続いた私は、自分の目を疑った。
まぶしく光を反射する水面に、人間の顔がはっきりと浮かび上がっていたのだ。
あのおまじないとやらは、本当だったのか。
しかし、それならばなぜ、この光景が私の目にまで映っているのだろう?
気がつくと、妹に手を握られていた。
「この日が来たら、姉さんに言おうと思っていたことがあるの」
手に、力がこめられたのを感じる。
「わたし、姉さんにずっと恋をしてた。ずっと姉さんのことが好きだったの」
「雀」
「待って。何も言わないで」
唇に指をあてられ、言葉をさえぎられる。
「この恋は叶わないって、知ってたわ。姉さんも他のみんなも、よその男に恋してるのに、わたしの相手は家族で女の姉さんなんだもの」
そんなの、おかしいものね。
自嘲気味に放ったその言葉には、涙が混じっている。
「姉さんが好きだってことを、誰にも知られたくなかった。でも、それを隠し通して、好きでもない男と子どもを作るのもいやだった。だからわたしは、この世界を出ることにしたの」
握られていた手が、離れる。
「待って、雀、やめて」
「生きるか死ぬかわからないけど、姉さんのこと、ずっと愛してるわ」
「雀!」
妹はほんの一瞬、笑顔を見せたあと、水面へ向かってまっすぐに泳いでいく。
そして手を伸ばし、何かをつかむと、その姿は嘘のように消え失せてしまった。
まるで、初めから何もなかったかのように。
悲鳴を聞きつけた仲間たちが集まってくるまで、私はその場から動くことができなかった。
「わあ、コウちゃんが釣ったー!」
「すげー、ギンブナだー!」
川姫 麻(asa) @o_yuri_san
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