農奴の嘆き
1
チョウ帝国南東部の酪農・農産業地域に隔離されたトーイ族の集落。そこで立ち上げられている農業組合の組合長は、自分の周囲に訪れた死に絶望していた。組合長の名はウォーマーという。
ソ皇帝が即位した日に公布された法。それにより即日から役人が訪れては毎日農作物を『税収だ』と言って強奪され、すぐに育つ畑を増やしたり家畜の数を増やしたりとせめてもの食い扶持を確保しようとしている内に過労で倒れる者が出てきた。更に畳みかける様に運悪く病気になってしまう者も増えたが、適切な治療を行える程の医学も金銭もない為見捨てる他なかった。
愛する妻と息子が眠る墓標の傍らで一日の始まりを祈るウォーマーには、もはや自分が生きている事への疑問しかなかった。
始まりは単なる過重労働だった。今までは週に一度、良心的に定められた作物を宮廷へ納めるだけで良かった。それがソ皇帝の即位による改定で非道な量を毎日納めるようになってしまった。
チョウ帝国では主流となっている農作物である稲植物は品種改良によって苗から三日で育つが、ソ皇帝はそれを勘違いしたのだとこの集落の誰しもが気づいた。
これまでは効率的かつ生産量が国内の消費量を大きく下回る事も上回る事もない様に調整されており、計画的な苗植えと開墾を実現させる事によって食糧難は起こらなかった。
しかし、今回の改定された法によって収穫物の半数は宮廷へ納められ、市場に出回る量が極端に減少しつつある。まだ法が改定されてから数日しか経過していない為、これによって飢餓は起こっていないものの、これから起こりうる可能性とそれによる暴動の発生も否定出来ない状況になりつつある。
更には、毎日の徴収によって一日の収穫量が少ない作物を育てる者や酪農家、食肉の加工場を営む者等は特に酷く苦しめられ、日が経つ毎に自分や家畜の食糧もままならない事態になりつつある。金銭に余裕のない人々は行商人から十分に買い付ける事も出来ず、集落は絶望に満ちていた。
元々決まった休日などなく働かねばならない過酷さではあったが、それでも一息着くだけの暇はあったものだ。それも無くなった今、ここに住まう者たちは命を削りながらの労働を強いられている。
そしてその過労に次いで大きな問題が人々に降りかかった。未知の感染症だ。
感染源は数日前に何処かの難破船から海岸に流れ着いた藁に生息する微細な虫で、それを直接手で接触し処分した者たちが初めに感染した。彼らはその次の日の夜に酷い高熱を出し、手には大きな腫物が出来上がった。そしてそのまま彼らは意識を混濁させ、治療も叶わぬまま衰弱していき死亡した。
それを始めとして他の者たちにも感染したものの、初期症状の倦怠感や寒気は全て過労によるものだと自己判断を下す者が多く、症状は急速に進行し多くの者が病に倒れた。集落を囲う壁の外から医師が訪問し治療に当たったが、チョウ帝国の医学では治療が不可能であると言い、遺体による感染を防ぐ為に感染した者の遺体は全て火葬するよう告げた。
そうして多くの者が倒れ、死に絶える中でも作物を納めなければならず、段々と一人一人の負担が増えていった。それは農業組合長であるウォーマー一家でも同じ事であった。不幸にもウォーマーの一人息子であるザックが感染源とされている藁を見つけ、処分した最初の感染者であるからだ。
ザックもまた始めはただの疲労だろうと思い、家族にもその体調不良を伝えていなかった。しかし、彼の手に出来上がった腫物は隠し切れないものとなり、それと同時に農作業中に
そしてザックが床に
翌日、農作業が終わったウォーマーは帰宅する事なく、暗い納屋で様々な負の感情に蝕まれていた。丁度その頃、ザックが意識を手放した。その後すぐにカーチェも穏やかに息を引き取った。
これによりウォーマーは愛する二人の最期を看取る事も叶わず、翌朝に麻布を被せられた二人の冷たい亡骸に嘆く事しか出来なかった。
しかし、家族を失った者はウォーマーだけではなかった。もはや集落の半分ほどの者が同じ感染症によって命を奪われ、連日絶え間なく火葬されている。
ある者は肉親を失い、またある者は愛する者を奪われ、その多くは満足に別れを告げる事も出来なかった。
それら全てがソ皇帝が即位して五日間での出来事だ。
そして六日目となる今日、妻と息子が眠る墓標の傍らに腰掛けたウォーマーは、心静かに己を問いただした。どうしてたった五日の間に妻も息子も奪われてしまったのか、どうして二人を苦しみから救えなかったのか、どうして自分は何事もなく生きているのか。
彼の頭の中には様々な叱責を込めた疑問が次々と浮かぶが、明確な答えが返って事はなく、ただ遠くの海から陽が昇る様を眺めることしか出来なかった。そしてそんな自分が心底憎らしく思えた。
そんなウォーマーに寄り添う影が一つあった。それは鼻をスンスンと鳴らしながら彼を慰め、短くしなやかな尻尾を振っている。この動物はヌイと呼ばれる種類の獣で体高五十㎝に体重十㎏という細身の体型をしており、ウォーマーにただ一つ残された家族でもある。ヌイの名前はジェリーと言う。
愛くるしいジェリーの姿を見たウォーマーは眉間に寄せていた皺を緩ませ、穏やかな声色で語り掛ける。
「なぁ、ジェリー。こんな私を二人は許してくれるだろうか」
それに言葉を掛けるなど出来ないジェリーは、ただウォーマーに寄り添う事しか叶わなかった。そしてウォーマーは後悔に塗れた感情を静かに吐き出す。
「どうにかして救えたかもしれないのになぁ。おかしいよなぁ。……不公平だよなぁ」
そしてジェリーの柔らかい焦げ茶色の頭を優しく撫でた。じゃれる様にジェリーも頭をウォーマーの方へ押し付け、尻尾を強く早く振っている。
精神的にやや回復したウォーマーは手を地面に付きながら立ち上がり、軽く土を
窓辺に陽が射す頃、養鶏場で鶏卵を収穫する者がいた。やや小柄な体型の穏やかな顔立ちの少年で、淡く短い金髪と透き通る様な碧い瞳が特徴的だ。少年の名はジョートと言う。
ジョートは齢十四にしてこの養鶏場の経営者となったが、それも昨日からの事である。彼の両親はあの感染症に感染した事を悟ってすぐに寝室へ籠り、一人息子のジョートや収入源である三千羽の鶏たちに感染させまいと、彼に両親の寝室への進入を扉越しに禁じた。
せめてもの繋がりとして、ジョートは扉越しではあるが朝出掛ける前とその日あった事を両親に語り掛けた。日を追うごとに扉の向こうから聞こえる両親の相槌や返答は小さくなり、時折り咳き込み唸る声で酷く衰弱しているのが痛いほど分かった。
その為、彼が最後に聞いた両親の声は弱々しくか細い「おやすみなさい」の一言だった。
翌朝、昨日と同じく扉越しに声を掛けるが何時までも返答がなかった為、両親は死んだのだと嫌でも気付いた。それから湧き上がる感情を押し込める様に家を飛び出し、組合長であるウォーマーの家へ行って話した。そしてすぐにジョートの家には防護服を着た大人たちが集まり、暫くして大きな麻袋が二つ運び込まれた。
その様子を家の外から終始見ていたジョートは、これが現実だと受け入れざるを得なかった。こんな絶望を味わっても、鶏たちの世話は欠かせないし役人の取り立ては止むことはない。
それから一晩が経ち、彼の感情はその日の曇天より暗く重いものがあった。両親の言いつけを守り、鶏たちの世話を行うジョートは幾何かの後悔を感じていたが、自分だけは残っていなければならないという責任感で正気を保たせている。
とても子供が背負うものではない重責を受け入れ、今日も朝早くから作業に取り組んでいる。何故そこまでして労働するのかというのは、学校に通っていないジョートですら理解している法の道理が強く関係している。
身分の高い者が行った犯罪行為による罰則等はなくなるという法である為、毎日収穫物を徴収に来る役人はウォーマーを始めとする労働者より身分は高く、反抗や拒絶でもすればどうなるか分からない。現状は皆が自分や家畜の命を優先している為、見せしめという名の前例がまだないのだ。
その上、平穏で和やかな暮らしをしてきたこの集落の人々にとって、暴力的な出来事は想像し難いものである。どうなってしまうかなど考える発想さえも浮かばない。
彼らの多くはただひたすらに土を弄り、家畜の世話をし、日々の糧を得る事しか考えが及ばないのだ。
しかし、そんな中でも希望を見出している者もいた。その者は集落の中でも壁に近い場所に祖母と住んでいる十七歳の少女だ。少女の名はメリルと言い、彼女の祖母はペトラと言う。メリルは緩くカールしている薄く明るい緑色の髪と黄色の瞳をしており、ペトラはメリルと同じ黄色の瞳で白髪を後頭部で纏め髪にしている。
彼女は集落で収穫された麦を粉にし、ふっくらとした歯応えのある丸パンを焼く事を生業としている。そしてその見事なパンも全体の五割ほど皇帝に納めなければならず、市場に売り出す事も出来なくなった。
そんな中でも希望を捨てずにいられたのは、メリルの亡き母の言葉のお陰である。彼女が一人でパンを作れるようになった頃、それを食べた母親はこう語った。
「メリル、あなたの作るパンは人を幸せにする力があるのね。お母さん、元気貰っちゃった」
そう言って柔らかく微笑む姿は、メリルの記憶に深く刻まれている。
それから彼女は”自分には誰かを幸せにする”事を生きがいとし、今の悲惨なチョウ帝国も再び優しさと幸せに包まれてほしいと切に願っている。
メリルが幸福でいて欲しいと願うのは、老化で足を悪くした唯一の肉親であるペトラ、近所の食用肉を扱う農場を営む幼馴染とその家族、集落に広がった治療不可能な感染症に怯え暮らす顔見知りの隣人たち。そして宮廷に住まう人々や、住居区域や鉱山周辺地域で暮らす人々。果ては目に映る小動物から家畜、更にはソ皇帝にまでもその感情は向けれらている。
この感情を誰かに打ち明ける事はないものの、彼女の行動や言動の節々からそれは感じられる。何かを信仰するわけでもなく、自然とこの感情が芽生えたメリルを集落の人々は優しい子だと賞賛している。
全ての者が幸福になる為にメリルが実戦しているのは、一日に出来るだけ多くのパンを焼いて市場に並べられるようにする事である。睡眠時間を削って粉を挽き、休む暇なく生地を作り発酵させ、前日に作った大量の生地を次々に焼いていくという方法で少量ではあるが市場へ出せる様になった。
メリルが提供する丸パンは比較的安価である為あまり収入の多くない人々にとっては救いの様なもので、毎日パンが売り切れる事で幸福の実現が僅かに叶った事をとても喜んだ。そしてもっと多くの人々へパンを届ける為、更に生産量を増やしていった。そんな日々をメリルはとても幸福で充実していると感じている。
しかし、それ程までに生活を切り詰めているメリルを心配する者もいる。彼女の幼馴染である同年齢の少年だ。少年の名はワンドと言う。
少し癖のある栗色の短い髪と深い紫色の瞳をしており、年相応にしっかりとした真面目な青年だ。メリルと同じく就学はしていないものの、実家を継ぐ為に独学であらゆる分野を勉強している。
そんな彼が心配しているのは、密かに心を寄せるメリルが連日の過労で倒れたりはしないだろうか、治療不可能な感染症に侵されたりはしないだろうかという事だ。
ワンドが昔から一緒にいたメリルを何よりも気に掛けるのは今に始まった事ではないが、最近の気遣いは今まで以上に強いものだった。
パンを作っているメリルの家とは違い、ワンドの両親が経営する畜産農場は食肉の加工を行っていない為取り立てられる事もなく、今まで通りの飼育と出荷で問題なく正常に運用できている。その為、彼は人手が足りていないメリルを手伝う様になった。そして彼女が日に日に増やしていくパンの生産量を手伝う内に、このままでは倒れてしまうのではないかという不安が募っていった。
陽も昇り、暖かな日差しを窓から取り入れる厨房ではメリルとワンドが今日の業務を行っている。生活感のある部屋の中央には正方形の大きな机があり、そこでメリルは一個分に千切ったパン生地を丸く成形して鉄板の上に並べている。
中央の机を囲むように食器や食材などの棚が並び、コンロや流し台がある隣に赤レンガで半円型の大きな石釜がある。その石釜の前にはワンドが座り、火の加減を薪で調節している。
ワンドはここ数日思い悩んでいる事を聞くため、忙しなく手を動かしているメリルへ訊ねた。
「なぁ、メリル。一つ質問してもいいかな」
「作業しながらで大丈夫ならいいよ」
と答えるメリルはワンドを一瞥もせずに手を休める事なく動かしている。その様子を見たワンドは少し悲し気な表情を浮かべ、話を続けた。
「ありがとう。……それでさ、最近丸パンの生産量を増やしてるけど、体調とかどうなのかなって思って。昨日もあんまり寝てないだろうし……」
そう言いながらワンドの視線の先は厨房の隅に置かれた麻袋の山だ。昨日見た時と変わらぬ量があるにも関わらず、あの小麦粉を使ってパン生地を作っている。その事から、メリルは夕方の終業後から寝るまでに小麦粉が無くならない様に毎晩挽いている事になる。そうなれば途方もない過労だ。
しかし、それを感じさせない様に気丈に振る舞っているのか、メリルは輝く様な笑顔を向けながら答える。
「私は大丈夫だよ、平気」
その言葉は本心からだと思えたが、それでも疲れていないわけではないだろうとワンドは思った。しかし、メリルが己の感情を隠して行動する時は他人の為にしている事だと彼は知っている為、それ以上問い質せなかった。メリルがどれ程の強い思いを持って他人の幸福を望んでいるか、それを一番知っているからだ。
明るく笑い掛けるメリルに、ワンドは気後れしながら答える。
「そっか。じゃあ、何か他に手伝える事があれば遠慮なく言ってくれよ」
「うん、ありがとう。ワンド」
そしてメリルは再び作業を再開する。この手慣れた流れ作業によって、これから焼かれる鉄板の上には三十個の丸い生地が並んだ。それをワンドが十分に温められた釜へ入れ、十分に焼けるまでそのまま置いておく。
手が空いたワンドはメリルの向かい側でパン生地の成形を始めるが、二人の間には会話もなく時間は流れる。しかしそれはどちらからしてもとても穏やかな空間だった。
開戦まであと一日。
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