女神の導き

 チョウ帝国北部の住居区域から西の方角にあるレリフィック教会。そこに住まう二十六歳の修道女は、教徒たちが日々受ける不条理な差別と暴力に怒りを覚えていた。修道女の名はオリフィアという。

 ソ皇帝が即位したその日からレリフィック教徒への差別は始まり、多くの教徒がに命を奪われ辱めを受けた。城下街で身分を隠している教徒たちの耳に入る声量で暴言を吐く口さがない者たちや、教会に物を投げ込んでくる者たちもいる。

 オリフィアはレリフィック教の教えの通りに苦しむ者たちへの救済を実行しなければ、と強く想った。



 まだ陽が顔を出さぬ頃、背の高い石壁に囲まれた暗い部屋の中。必要最低限で簡素な家具と寝台が置かれただけの部屋で美しき女性が静かに目を覚ます。彼女が起き上がってすぐ向かったのは鏡台の前で、綺麗な髪を纏め黒いウィンプを装着する。ゆったりとした寝間着から黒一色の修道服へ着替え、鏡の前で身なりを整える。

それから水場へ行き、顔を洗って水滴を布巾で軽く拭い取る。彼女の黄金の瞳が瞬き、やがて静かに閉じた。

彼女は常に微笑を讃えている、レリフィック教徒の光ともなる存在。オリフィアである。

 居住エリアと本堂を繋ぐ渡り廊下に差し掛かった頃、オリフィアにそっと駆け寄って来た者がいる。彼女が駆け寄ってくる足音を聞いて足を止め、彼女の方へ振り向いた。

オリフィアよりやや低い背丈だが、同じ装いをしている女性だ。

「お姉様、お早うございます」

と言い、膝下の服を軽く摘まみ、優雅なお辞儀をした。オリフィアは自分を”お姉様”と呼ぶ彼女を見て、柔らかく声を掛けた。

「おはよう、ナディータ。貴方はまだ休んでいても良いのよ?」

「いえ、お姉様の向かう所は私の向かう所。是非ともお供させてください」

「ふふふ……貴方ったらやっぱりと変わらないのね」

と笑うオリフィアにナディータは頬を赤らめる。

 彼女が言うあの頃というのは、二人の故郷であるレリフィア王国の女学校時代での事である。この女学校では全寮制で五年の在学が義務付けられており、一年生はその年の三年生と二人一組となって共に学校生活を送る習わしとなっている。

その為、当時三年生だったオリフィアと組んだナディータは今でも彼女をお姉様と呼び、慕い、行動を共にしたがる節がある。

気を引き締めたナディータがすみれ色の瞳を真っ直ぐオリフィアに向け、こう進言した。

「ですが、私にとって大切な御方はお姉様一人なのです。あの頃と変わらず御傍に居させてくださいまし」

それに答える様にオリフィアがナディータの頬に手を添え、優しく目を開き微笑む。

「えぇ、勿論よ。私も貴方が大好きなのだから」

「お姉様……」

と言うナディータは自らの手を顔の前で組み、オリフィアをただじっと見つめた。彼女の気持ちを汲むようにオリフィアは言葉を紡ぐ。

「それじゃあ、一緒に教徒たちの救済を行いましょうか」

「はい、お姉様」

そして二人が向かったのは、本堂の奥に位置する懺悔室である。


 レリフィック教の教えの一つ『苦しみを抱えし者に救済を』というものがあり、その救済を与える役割をオリフィアが全て引き受けており、その補助をナディータが行っている。

 教会は常に教徒や迷える民の為に解放されていたが、ソ皇帝の新しき法によって教徒の安全を考慮して閉じなければいけなかった。正面から見れば閉じられているものの、教徒は別の出入り口を知っている為、この夜陰に乗じて祈りを捧げたり懺悔しに来る者は少なくない。

 そういう教徒たちの為にオリフィアたちは懺悔室まで足を運んでいるのである。ナディータとしては教徒たちが日頃受けている精神的苦痛をオリフィアに投げ掛ける行為は看過し難い事だが、オリフィア自身が名乗り出て行っている事である為に否定出来ずにいた。

 二人が懺悔室へ着く前から既に一人の教徒が入室していたらしく、戸口に”使用中”という札が掛けられていた。その札を見た彼女らは別の扉から静かに入室し、それぞれ着席する。

オリフィアはカーテンで仕切られた先に居る教徒へ優しく声を掛ける。

「レリフィックの教えに従う迷いし者よ、汝の心を傷付ける棘を取り除く手助けを致しましょう。汝に刺さる痛みを自由にお語りなさい。女神レリフィアは全てを赦しますことでしょう」

と、決まった言葉を言い終えて暫くした後、カーテンに写る横顔から掠れた声が聞こえてきた。

「あ、あの……わ、私は昨晩、妻と娘を殺されました。いつも通り労働から帰ると、冷たくなった妻が、娘が血塗れで……犯人は目の前にいました。それから、あの男はソ皇帝の新しい法によって”レリフィック教徒の命は誰よりも軽い”と嘲笑って……」

そう言いながら湧き上がってきた感情を抑え込み、嗚咽と共に鼻を啜る音がした。彼を襲ったこの悍ましくも虚しい感情は、その経験がない者には想像も出来ない。

暫くすると、乱れていた呼吸がゆっくりと落ち着きを取り戻し、教徒が少しずつ話を続けた。

「そ、それで……彼の、あの顔が忘れられないんです……あの、顔が。まるでずっとあの男から監視されているようで。今こうして、話している言葉も全部、聞かれているようで……」

と言い、教徒は口を噤んだ。

オリフィアが助け舟を出そうとした時、彼は自分の意思を持って口を開いた。

「私は……これからどうして生きていけば、良いでしょうか。いえ、生きていて良いのでしょうか。何よりも代えがたい、愛する妻子を奪われ、どうして自分だけのうのうと生きていられるでしょうか。あぁ、女神様、レリフィア様、お導きください……」

カーテンに写る影が前へ項垂れる。そこには真に救いを求める者の姿があった。

その教徒へオリフィアが語り掛ける。

「汝の鋭き棘、聞き入れました。女神レリフィアの名の下に汝を導きましょう」

そして少し間を置き、言葉を続けた。

「その男は心を苦しめています。よって、レリフィックの教えに従い汝の手で”救済”すべきなのです。

女神レリフィアは汝に彼の者を救済するよう導いてくださいました。汝はそのお導きに従うのです」

と、オリフィアが告げると、カーテンに写る影が立ち上がる。かと思うとすぐに影は小さくなった。

小さな影は言葉を詰まらせながらこう言った。

「あ、ありがとう、ございま、す……女神様のお導きの通りに……」

それからすっと立ち上がった影は、そのまま懺悔室を後にした。彼らレリフィック教徒の言葉を借りるのならば『女神様のお導き』によって教会を出て行った。

 教徒の懺悔が終わると、また懺悔室の扉は開かれカーテンに影が写る。そしてその影が着席した事を確認すると、オリフィアは再びこの言葉を口にする。


「レリフィックの教えに従う迷いし者よ、汝の心を傷付ける棘を取り除く手助けを致しましょう」




 明朝の懺悔の時間も終わり、朝食の時間を知らせるベルが本堂まで聞こえてくる。その音を聞き、ナディータはオリフィアに声を掛ける。

「お姉様、朝食の鐘が鳴りましたね」

「えぇ、今日の所はこれでお開きにしましょ。生きとし生ける者としてきちんと朝ご飯を食べなくては」

「はい、お姉様」

オリフィアが椅子から立ち上がり、近くの扉から静かに外へ出るのに続いてナディータも出て来る。二人並んで歩く先は本堂の正面入り口から出て右側にある食堂だ。

 オリフィアが懺悔を聞いている間に陽はすっかり昇っていたらしく、色硝子の窓から差し込む光が白い床を色鮮やかに染め上げていた。その輝かしい道を歩み続けていると、やがて温かな香りが鼻をくすぐる。

 食堂の入口に差し掛かった時、ナディータが傍らのオリフィアに柔らかい表情で語り掛ける。

「お姉様。この香り、何か分かりました?」

と、問われたオリフィアは少し考える表情を作った。

「うーん。何かしらねぇ……」

ナディータは考えるオリフィアの正面に立ち、誇らしげに会話を弾ませた。

「お姉様に特別ヒントを差し上げます、とっても温かくて美味しいものです!」

「あたたかくて、おいしいもの。ねぇ」

と、また考えるオリフィア。当然ながら彼女はこの問いの答えは分かっている。

しかし、ナディータが小動物の様にじゃれる姿がとても愛らしく、もう暫くは続けていたいと為にとぼけているのだ。

そんなオリフィアの思いを気づかず、ナディータがこう告げる。

「それではお姉様、僭越ながら正解を言いますね。正解は―――」

「ポトゥーフェですよ、ミス・オリフィア。そしてミス・ナディータ」

という低く重みのある声がナディータの背後から語り掛けた。食堂の扉を後ろ手に閉じて二人に話しかける中年の男性は、ピッチリと纏めた暗い焦げ茶色の短い髪と上品な顔立ちによく合う橙色の瞳をしている。服装は黒一色な修道服の上から可愛らしいエプロンを着ている事から、先程語られたポトゥーフェという料理は彼によって作られたのだろう。

「ドレイト、神父」

と、恨めしそうに呟くナディータの目は、先程までオリフィアに向けていた目付きとは明らかに違っていた。その一方でオリフィアは変わらず微笑を浮かべている。

「おはようございます、ドレイト神父。今日の朝食は貴方が?」

「えぇ。これもまた神の思し召しですから」

悪びれるつもりもない、という態度で返答するドレイトに思う所はあれど公論する気はないオリフィアは、ナディータを連れてこの場を立ち去るのが得策だと知った。

「そうですか。行きましょう、ナディータ」

「……はい、お姉様」

微笑を讃えたオリフィアの後ろを不服そうな表情のナディータが続いた。ナディータはすれ違いざまにドレイトを睨み付けたものの、彼は物ともしていない様子だった。それが更に彼女の癪に障った。

しかし、こんな事も初めての事ではない。特にナディータの扱いはよく心得ているオリフィアは、こういう場合自分がどうすればいいかは心得ている。

 食堂の扉を進み、二人は中へ入った。入口から奥に向けて長方形に伸びているがあまり大きくはなく、六人掛けの長机が六つ二列になり等間隔で並んで置かれている。壁は淡いクリーム色で床は白い石造りで、入口から見て左側には長いカウンターがあり、その横の扉から厨房への出入りが出来るという設計だ。

早朝とは言え、教会に住まう者たちは皆朝が早い為、六つ中四つは埋まっている状態である。

 食堂の扉から一歩出たところで、オリフィアはナディータの方を向きこう言った。

「ねぇ、ナディータ。可愛らしい顔が台無しよ、お願いだから笑ってみせて?」

と言われたナディータは表情を緩ませ、ふやけた笑みを浮かべるまで数秒と掛からなかった。それを見たオリフィアは彼女の頭を軽く撫でてこう告げる。

「いい子いい子。ありがとう」

「はい……お姉様」

と緩み切った表情で頬を赤らめた。程なくして、ナディータはハッと我に返り、オリフィアにこう伝えた。

「あっ、お姉様。二人分のポトゥーフェを準備して参ります!お席に付いていてくださいまし!」

「えぇ、わかったわ。よろしくね」

「はい、お姉様!」

そう言って足早にカウンターへ向かうナディータを見送り、オリフィアは一番奥の空いている席に座る。

 一方ナディータはというと、カウンターに並び順番を待っていた。ただ待っていたわけではなく、彼女の後ろに並んでいる少女から突っかかられながらである。

その少女の名はサト。ナディータより年下ではあるが、彼女より背が高く目つきも鋭い。いつもナディータを見かけると緑色の瞳を細めてこう言う。

「今日もお利口さんなもんですねぇ、おヌイさん?」

「ご主人様にご飯をお運びするよう躾られてるなんて偉いなぁ。おヌイさんは」

「おヌイさん、おヌイさん」

彼女の語る”ヌイ”というのは、四つ足で全身が毛に覆われている生物の事だ。よく愛玩動物として飼われている生物で、利口で飼い主に従順である事から”誰かに忠実に付き従う者”への悪態として言われる事もある。こんなからかいを背後から浴びながらも、ナディータは冷静に対処するよう努めていた。

「サト。私たちを見守ってくださる女神レリフィアも、貴方の軽口には目を覆ってしまわれるでしょうね」

サトは中性的な顔を少しきょとんとさせたが、すぐににやけ顔でナディータに絡む。

「つまりぃ、どういう事でしょうかねぇ。おヌイさん」

「そんな事も分からないのね。嘆かわしい、貴女のご両親が見たら何と言う事か……」

「ご両親……?あぁ、最近”救済された”あの人たちの事か。あの人らは私を何とも思っちゃいないよ」

先程までの軽薄な声とは変わり、押し込みきれない暗い感情を吐き出す様にマキの口から零れ出た。サトの両親は熱心な教徒であったが、半年前に自身への罪悪感から救済の道を選んだ。残された彼女は寄る辺もなくこの教会へ残されたのだった。

そんな彼女に憐憫の言葉を投げかける事もなく、ナディータは温かいポトゥーフェを二人分受け取り運ぶ。

向かう先には優しく微笑むオリフェアの姿がある。ナディータも同じく微笑みながら歩み寄る。

「さぁ、お姉様。一緒に食べましょう」



―――――――――――――――――――――――――――――――――――――



 長き一日も終わり、無事に眠りつける事に感謝しながら瞼を閉じたオリフィア。脳を休ませ、体を楽に伸ばし、意識を手放そうとした時、頭の中のどこからか声が浮かんできた。まるで記憶の底から語り掛けてくるその声に聞き覚えはなく、しかしどこか懐かしい様な感覚がある。

「オリフィア、オリフィア」

凛々しくも温かなその声を探す様に目を開けると、オリフィアは何もない真っ白な空間へ誘われていた。辛うじて床の概念はある為か真っ直ぐ立っていられるものの、何処までも広がる壁と天井に恐怖の文字が頭を過ぎる。

いつも保てている表情も解け、目を見開いて周囲を見渡すが何も見つからない。すると、上空から再びあの声が聞こえてくる。

「オリフィア。トーイ族の子にして我が名を持つ国の落とし子、オリフィアよ。私の声が聞こえていますか」

その言葉で相手が何者か悟ったオリフィアは天を仰ぎ、高らかに声を上げる。

「聞こえております!あぁ、尊きその御身の御声が!私をお呼びになる御声が!!」

黄金の瞳を輝かせるオリフィアに、その声は姿を見せずに語り掛ける。

「オリフィア、清貧なる我が教徒よ。あなたは近い未来、力を手に入れるでしょう。教徒を護り、救済する為の力を。

その力を使い、この滅亡に向かいつつあるこの国を救済するのです」

「国を、救済。私に可能なのでしょうか」

と、自信なさげに項垂れるオリフィアに、その声は力強くも優しく語り掛ける。

「今から五回目の朝日を浴びた後、その力は得られるでしょう。しかし、あなたは一人ではありませんよ」

と言う言葉と共に、オリフィアの目の前に黄金の十字架がゆっくりと降りてくる。まるで彼女に受け取ってほしいと言わんばかりに。

「私は我が教徒こそ成し遂げると祈っています。努々ゆめゆめ忘れなきよう」

オリフィアが手を伸ばし、十字架に触れた瞬間。彼女は現実へ戻された。

現実のオリフィアは暗い部屋の寝台で寝転んだまま、右腕を天井に向けて伸ばしていた。

「……夢、だったのかしら」

と、小さく呟きながら起き上がるオリフィア。すると、彼女が手を置いた場所には固く冷たい物が置かれていた。

そこにはオリフィアが夢で掴んだ十字架が輝いており、彼女の胸は高鳴った。それと同時に強く固い決意を抱いた。

頭の中にはあの尊き声が伝えた言葉。それらを反芻し、自らの意志へと変える。

「レリフィック教徒で力を合わせ、チョウ帝国を、救済する……!」

そう呟く彼女の顔は微笑んでいた。



開戦まであと五日。

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