第2話

 足下が覚束なくなるぐらいに雪が積もる。滋賀県は雪国というのは案外知られていない。

 いっときの記録では、積雪量の日本一は滋賀県だったことがあるとか、そんな話を聞いたことがある。

 とは言え、さすがに湖南と呼ばれる南の方では並である。問題は冬場の湖北だ。

 この時期だけは、滋賀県の天気は二つに分かれる。大津と彦根の二箇所で観測されるようになるのだ。そう、北側だけが東北にカテゴリーされてしまうのである。

 この時期の湖北はガチで雪国と化す。関西民に限っては、大雪のニュースで阪神高速の彦根・米原あたりを見たことがあるはずだ。雪の交通情報を流す時はそこを写している。


 てなわけで、冬の彦根はヤバい。学生時代に冬が近づくと、電車がトンネルと川を越すたびに景色が変わっていく様をよく見た。

 ただ、これだけ雪が積もっても電車は止まることはない。流石に積もり過ぎれば話は別だが、「え、これ大丈夫か?」ってぐらいなら平気で動いている。

 滋賀県で電車が止まるのは、風である。だから夏の方がむしろ止まる。そうなると、滋賀県脱出&帰還ボトルネック地獄が朝夕に開催されるのだが…それはまた別の機会に。

 ともあれ、そこまで雪が積もると、雪遊びがしたくなるのが人情である。

 雪合戦や雪だるまなど生温い。山と雪があるなら、それはもうスキーだ。

 今回は、僕が大学時代に行ったスキー旅行の話をしようと思う。

 もう、十年以上も昔の話だ。


「吹雪(ふぶ)いてきやがったなぁ」

 窓の外を眺めていたら、そんな文句が自然と漏れた。吹雪は多少なら平気だが、前方が見えなくなると流石にまずい。

 自分が良くても、他がまずい。そういう時は宿に篭るに限る。

「酒でも飲むか?」

 同室の上条が、日本酒の瓶を掲げた。ナイスだ上条。俺ら一年だけどな。

「おー、飲むべ飲むべ…あ、先につまみ買ってくるわ」

 飯前だがお構いなしだ。若いと腹が減る。運動し、たっぷり長湯した後だから余計に。

 干していたスキーウェアの上を羽織り、財布をポケットに突っ込む。

「200でいいか」

「いや、また先輩らが来そうだから…俺も出す。400で」

「あるかなぁ、そんなに…」

 何を言っているのかというと、馬刺しのグラム数である。

 合宿初日から宿の近くに精肉店を発掘し、目敏く『馬刺しあり〼』の張り紙を見た僕は、連日馬刺しを買っては部屋で友人らとバカ飲みしていた。

 で、三日目の昨日にして先輩に見つかり、部屋にたかられに来るだろうという算段である。

 まぁ、先輩達は酒を持って来てくれるから良いんだけどね。

 宿を出る。数メートル先が見えない。下山する前の山頂よりはまだマシだが、今日の夜は積もるだろう。

 そうなると、明日のレッスンは地獄だな。

 ぼんやり明日の心配をしつつ、精肉店へ急いだ。


 大学一年目にして部活を辞めた僕は、バイトとバンドに明け暮れていた。(なおこの時は知る由もないが、一年修了時に壊滅的な単位取得数をたたき出し、二年目は死ぬほど単位申請と夜間に及ぶ勉学を強いられることとなる。自業自得!)

 で、ふらふらと気まぐれ大学ドロップアウトに片脚を突っ込んでいる僕を見かねたゼミの友人・上条が、スキーサークルの合宿に誘ってくれた。

 サークルならば縛りも緩いし、体育会系と言っても無茶は部活に比べてマシである。部活が日本酒一升をイッキさせるなら、サークルはビール中瓶イッキぐらいだ。

 …いや、今考えてみるとずいぶんと狂ってんな、我が母校。

 だがまぁ、何よりこの時の自分自身が大学で「コイツはヤバい」扱いをされていたので、先輩はじめ他人のことはとやかく言えない。

 曰く、「研究棟の四階から一階にワープした」

 曰く、「交流戦の打ち上げで二、三年全員を潰した」

 曰く、「前期試験を飲酒して受けた」

 曰く、「マクロ経済の試験に小説書いて受かった」

 …

 詳細は省くが、全部目撃者がいて、多少経緯が誤解されてるが結論が事実のため、噂の暴走に手がつけられなくなっていた。

 どちゃクソ遅いオンボロエレベーター待ち時間がだるくなって窓から見えた木を伝って一階に降りたり、一年と二年でポン酒リレー勝負をやれという部の先輩のアルハラに全力を持って応えて一升瓶飲み干し二年を圧倒的に負かした上に三年生相手に瓶で返杯したり、試験日忘れて友人宅で飲み明かした朝に慌てて試験受けに行ったり、なんでも良いから分かることを書けと教授に言われて回答用紙の裏にビッシリ考察を小説仕立てで書いただけである。

 …果てしないバカだな、我ながら。

 ワープの件は、目撃者が留学生だったため、「ニンジャがいた!日本にニンジャは実在した!」と騒ぎ立てられ、また別の話が出来るくらいエラい目に遭った。

 二度と木を使った移動はすまいと誓ったものだ。


「すんませーん、赤身400下さい」

 店に入るなり、そう言って、丸椅子に座る。

 ケース越しのおっちゃんは何も言わずに作業をしている。

 心配せずとも、ちゃんと注文は通っている。それは連日確認済み。

 ほれ、馬肉取り出した。赤いぞ。ちゃんと赤身してる。

 刺身を引き、包丁がまな板についた音が僅かに聞こえる。外の風の音の方が大きい。

 おっちゃんは、ちゃっちゃとパックに刺身を詰めると、ニンニクのチューブを端っこにギュッと絞ってくれる。そして、小袋に入ったタレを二つ三つとパックの蓋の上に乗せて、輪ゴムで止めた。

「ども」

 金を払う。去り際、おっちゃんがボソッと言った。

「…おまけしといた」

 え、とビニール袋内のパックを思わず見る。

「500」

 おっちゃんの声は小さかったが、確実に聞こえた。

「…ありがとうございまーす!」

 いやぁ、嬉しい。ボリュームも上がるってもんだ。


「おー、彩京!待ってたゾォ!」

 部屋に戻ると、案の定先輩が二人増えていた。大して飲んでもないのに出来上がっているようだ。

「待ってたのは僕じゃなくて、馬刺しでしょうがぁ」

 窓際に上着を干し、窓を開けてビールの缶を一本掴んで炬燵に潜った。

「んじゃ、やりますか」

 各々、ぷしゅっ、とイイ音をたてて酒を開ける。ビール党は俺だけだ。先輩たちはチューハイである。上条は、付き合いでビール。

 馬刺しのパックを開け、タレをニンニクの塊にぶっかけて、割り箸を二膳置く。

「さあどーぞぉ!」

「ひゃあ!我慢できねぇ!」

「うーまそぉ!」

 先輩や上条がパクついていく。俺も一切れつまんで、ビールをあおった。

 …たまんねぇ!

 血の味がする肉を噛み締め、ニンニクの風味と飲み込んだところに、コッキンキンに冷えたビールで口と喉を洗い流しながら脳天を貫く。

 ニンニクに絡む醤油ベースのタレがやたらめったら美味い。馬刺しに合う。こいつで口内を制圧した後に、ビールでグラウンド・ゼロ。口内がリセットされる。そうしてまた戦える。

 お手軽無限即死コンボ。こんなモン知ったらやめられる訳がない。何度でも死ねる。

 初日は霜降りと赤身、両方を同量買ってたが、もう赤身だけで良いという結論を上条と出した。脂は美味いんだが、くどい。ヤワな酒では負けてしまう。だが、赤身なら軽い酒でも重い酒でも何でも合う。

 それに赤身は安い。量が食える。安酒で嗜む僕たちにはピッタリだったのだ。

 かくして場は出来上がる。レッスンのコーチがムカつくだの、あのコースのアイスバーンがヤバいだの。

「いやー、彩京には教えられてばかりだわぁ」

 不意に先輩がのたまった。

「なーにがッスかぁ?」

 ビールがまた空いた。次を窓に取りに行く。

「馬刺しとかゲテモンと思ってたんだよぉ、俺ァよぉ」

 先輩は岐阜出身だそうだ。で、今合宿しているのも岐阜のスキー場なのだが。

 先日俺らが部屋で酒盛りしている所に乱入してきて、それで初めて馬刺しを口にしたらしい。

「食わず嫌いだったんだなぁ」

 正直、分からないでもない。生食は抵抗を覚える人も多いだろうし、馬となると忌避する人もいるだろう。

 俺がたいそう旨そうに食ってたので、酒の勢いも借りて一切れ食ってみたら、ということだった。

「やめらんねーわぁ。今度帰ったらオフクロに頼んでみっかな…」

 羨ましい限りだ。滋賀だと、飲み屋でもなかなか食えない。

 馬刺しで有名なのは、熊本、長野あたりか。生産地が近いと良いなぁ。

「いやでも、先輩らがビール持ってきてくれっから、僕は大助かりッスよ」

 僕は合宿に来て以来、酒代は殆ど出していない。先輩の差し入れの箱ビールを、順次取り出しては窓の外冷蔵庫に突っ込んで、それを飲んでる。

「いやー、OBが持って来んのよ。俺飲めねーしさぁ、無駄にならないから俺も助かるってぇ」

 ギブアンドテイクが成立してたのか。そりゃ何よりだ。しかも黒ラベル。大好物である。

 上条はピースに火をつけた。こいつはこいつで、カートンでタバコをもってくるほどのヘビースモーカーである。この結果、20にしてガン検診を受けさせられた経緯を持つ、医者の息子である。

「日本酒行きますか?」

 上条がくわえタバコで酒瓶を掲げた。

 先輩らは、いい、いい、と首を横にふった。拒否具合から察するに、苦労したんだろうなぁ。

「おう、行くわ」

 盆から湯呑みを二つとり、上条に片方を差し出す。

 上条はニヤっと笑いながら、封を切った。カツンと注ぎ口が僕の湯呑みの縁にあたる。

 こっこっこっこっと音をたて、薄黄色の甘い香りのする液体が真っ白な湯呑みを満たしていく。

「濃そうだなぁ」

「だろぉ」

 これなら霜降りでも良かったかもな?と思いつつ、やけに良い酒を仕入れて来やがった、流石金持ちの息子と感心する。

 上条から瓶を受け取り、上条の湯呑みにも注ぐ。

 見合って湯呑みを互いに軽く掲げ、グイッとあおった。

「「うめぇ!」」

 まだ酒盛りは始まったばかりだ。


「飲み過ぎたなぁ」

 軽くボーッとする頭を振り振り、僕らはリフト乗り場に板を滑らせた。

「でも、寒さが逆に気持ち良いなぁ、こりゃ」

 上条は屁っ放り腰で横に滑り並んだ。僕は頷いて同意する。

 スキー場は全然人がいない。昨晩の吹雪で、凍った斜面の上にふわっふわの雪が積もったのだ。

 おまけに軽い雨である。地獄。

 レッスンは僕はどうということはないが、周りはキツそうだ。名目上、スキー技能の検定を目指しているサークルなので、真面目にレッスンを受けているが、僕はどちらかというとそういう資格はどうでも良いタイプなので、何事にも適当に済ませる。

 レッスンが終わるのを待って、急斜面やコブに挑みたいタイプなのである。

 まぁお客様だから、その辺はわきまえてる。

「しっかし、このリフトの時間が一番つれぇ…」

 吹きっさらしにジッと耐えて数分。一気に身体が冷える。二日酔いもあっという間に覚めるってなモンだ。

「メシどうする?」

 僕の問いかけに、上条が歯の根をガチガチ言わせながら応じた。

「あー、朝方に他の客から、美味そうなカレー屋聞いたんだけどよ…」


「「「「生き返るぅ…」」」」

 店内の暖かさをじんわり感じながら、全員がハモった。

 昨日と同じく、午後になってまた天候が荒れてきた。空が暗くなり、またひと吹雪来そうな感じである。

 当然、レッスンの運動量じゃとてもじゃないが寒さを耐えるに足りない。

 その上、リフトがしょっちゅう止まる。レッスンは長引く。客が少なく飯の席取りの心配が無いとは言え、軽くコーチに殺意を覚えた。

 しかも、サークルメンバー全員が滑り終わるまで待つ。これが長い。アイスバーンの上にフワフワ雪が積もり、現在雪混じりの雨。すなわち超絶劣悪なコンディションだ。上級者ですら思った通りに滑ることが出来ない。初心者が多いサークルメンバーだと、尚更に。

 結果、腹が減る。寒さも手伝って、胃が小石みたいにガチガチに縮こまったみたく痛みを発する。

 いざ飯へ行かんとするに、この劣悪コンディションの中を目的地へ進むのが困難極まる。ガチガチの身体に真っ白な視界。あらぬ方へ滑るスキー板。

 限界まで来たところで、ようやく板から解放され、それこそ身体の内外をガチガチに震えさせながら、くだんのカレー屋に着いたのだ。

 熱いほうじ茶が染みる。手に感覚が段々と戻って行くのを感じる。

 ブーツのバックルやらを外してスリッパに履き替え、ひとごこちついた後、各々メニューを見る。今日は全員一年である。

「これ、インドカレーか?」

 上条がメニューを見ながら言った。

「いや、インドってわけじゃなかろ…」

 上条はカレーにこだわる。カレー屋は常にチェックしているし、カレー漫画に毒されてシナモンスティックをたばこ替わりにくわえていたこともある。ここが出すモノがインドカレーか否かは、上条にとって重要なのだろう。

 写真を見る限り、耐熱皿に盛り付けられた焼きカレーだ。確かに美味そうなルックス。店内に漂う匂いも極上で、胃がグイグイと動き始め、早くも唾液が溢れて臨戦状態にさせられる。

 注文を済ませると、ほうじ茶のおかわりが注がれた。

 気遣いがたまらん。さすがにスキー場のコンディションが悪すぎるのか、僕たちしか客がいないが、これは多分、普段は女の客中心で混んで居るだろう。

 店内の雰囲気も、スキー場の安食堂とは一線を画している。ちょっとしたカフェだ。

 時間はかかりますが、と言われたが、全然構わない。元よりもう滑るモードと言うよりメシモードなのだ。何分でも待つ。時間単位だと流石にヤバいかも知らんが。

 そして、アツアツのソレが僕らの前にサーブされて来た。

 ほぉ…と全員の口からため息が漏れた。店内のカレーの匂いが、何百、何千、いや何万倍となって顔面に襲いかかってくる。

 たまらん。これはたまらん。食う前から胃袋が降参している。カレーの暴力に屈せよと訴えかけてくる。

 俺の注文した、ナスとチーズのカレーに、スプーンを入れる。

 中に飯がある。ドリア風か!良いぞ、これは良い!深い耐熱皿の中にみっしりと飯が詰まってる。スプーンを持ち上げれば、焼けたチーズも香ばしい、スパイシーなカレーソースが否が応でも大量に絡みついてくる。

 熱いのは重々承知しているのに、この灼熱の塊を胃の腑に落とさんと口が全力でカレーを迎えに行く。

 ドッキング、即、咀嚼。熱さに目を剥きながら、辛さとクリーミーさとジューシーさに舌が打ち震えて喜んでいる。

 ヤバいぞ、コイツはヤバい!美味すぎる!唾液腺のダムが決壊して止まらない!

 カレーとチーズの油分をたっぷり吸ったナスが、カレー以上に熱く、そして甘く口内を焼く。上顎の皮がベロベロにめくれようがお構いなしだ。誰も彼も、皿の掘削作業と咀嚼が止む気配がない。多分みんな口の中を火傷している。それでもだ。

 飢餓状態と胃の腑の凍えがやや落ち着くと、味の分析がオートマチックで始まる。コレは牛と豚の合い挽きだな。トマトも入ったキーマカレーだが、酸味よりもクリーミーさの方が先に立つ。チーズのせいだけではないな。ココナッツミルクとか入ってんのか。なんだこりゃ。極上のバターの香りの奥にナッツのニュアンスも感じる。経験が乏しい僕の舌じゃ、もう何がどうなってんだか分かんない。つまり美味い。

 辛い。本格的なカレーだ。スパイスの組み立てなんかは上条のがずっと詳しいんだろうが、素人の僕でもコレがスパイスからして違う本格的なカレーだとわかる。

 お洒落な雰囲気と裏腹に、文字通り底知れぬ皿に秘められたボリュームたっぷりのアツアツのカレー。

 食い終わるまで全員が無言だった。十分かそこらしか経ってないんじゃないかって勢いで、みんなが食った。

 後にも先にも、この日ほど夢中にカレーを貪った日はなかったと思う。そして今でも、折に触れあのカレーを求めてしまっている。


 これを書いていて、やはりあのカレーが食いたくなり、居ても立ってもいられず、この時訪れた場所とカレーで検索をかけた。

 本格的なスパイシーカレー!というヒットワードに「これか!まだあってくれたか!」とにわかに色めきたったが、店内写真とメニューでガックリ来た。違う、別物だ。

 この話のカレー屋は、どうやら無くなったようだ。精肉店は流石に…と思ったが、こちらも閉店していた。

 かわりに、様々な外食チェーンが集う、そこそこ人気のスキー場、いやさスノーボードパークになっているようだった。

 十年超という時の流れは残酷である。思い出のカレーは遠くなりにけり、だ。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

メシの話とか色々 彩京護 @mamoru_psikyo

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ