日常に迫る異変
男は、目を通していた書類から顔を上げた。
机の上に置かれた時計に目をやり、それから事務作業で固くなった体をひねった。長い水色の髪が、左右に大きく揺れる。
そこで、思いたったように床に目を向けた。そこには誰もいないが、彼はふと、この書斎で起こったことを思い返した。
あれからどのくらいたったのか考えはじめた時、トントンと扉を叩く音がした。間を置かずに少女の声がする。
「ミサギ様、よろしいですか?」
彼を「ミサギ様」と呼ぶ少女など一人しかいない。彼は書類を机に置くと、答えた。
「入れ」
「失礼します」
男――ミササギの声を受けて、ゆっくりと扉が開かれた。
予想していた通り、現れたのは十五歳ほどの少女。肩まで伸びた緑髪に紫の目。その見た目と着ている灰色のワンピースのせいか、どこか落ち着いた印象を受ける。だが、
「お茶を持ってきました。こんないい天気の日に書類仕事をなさっていると、眠たくなるかと思ったので」
少女の声ははきはきとしていて、年相応の活発さを感じさせる。
「……悪いな」
ミササギは立ち上がると、少女の持つお盆をすっと取り上げ机に置いた。同時に、書類を横にどかす。
「あ、私入れますよ?」
「これぐらい自分でするさ」
ミササギはカップを取ると、ポットから緑色のお茶を注いだ。ポットを置くと、カップを手にしたまま窓に体を向けた。
カップからは爽やかなにおいが立ち込めてくる。気分がすっきりするようなハーブのお茶のようだ。
「君は? 飲んだのか」
一口飲んでから、ミササギはおもむろに尋ねた。
「はい。えと、何か味おかしいですか?」
「別にそういうわけではないが。休憩したのかと思ってな」
「しましたよ、今日はあまり来客が多くなかったので。それに、私もようやく仕事に慣れてきたので、休憩を入れる頃合いがわかってきました」
「そうか、そろそろ一か月たつのだな、君がここに来てから」
とすると、この書斎がミササギのものになってから二か月になると彼は計算した。
「はい、覚えて下さっていて嬉しいですっ。これからも頑張りますね」
嬉しそうな笑みを少女は浮かべた。
ミササギはその顔を見つめてから、再び窓の外に目をやった。今日は雲一つなく晴れていて、カーテンを開けていれば蝋燭を付ける必要もない。この書斎から離れたところにある王城もよく見えた。
「今日は本当に良い天気ですね」
「こんな日に、室内に籠るのはもったいないか?」
「い、いえ、そんなことを言うつもりではっ。最近外は危ないって言いますし、用もなしに出歩かない方がいいですよ」
少女は問いを否定したが、慌てた表情を見れば図星なのは明らかだ。
ミササギは空になったカップにもう一度お茶を注ぐと、それを飲んでから外に出るのも悪くはないと思った。書類の方は大方片付いている。後はモルスの印を押すだけだ。
二杯目に口を付けようとした時、彼は違和感を覚えて手を止めた。
夕焼け色の目がすっと細められ、窓の向こうを刺すように見つめたが、すぐに違う方向に目を向けた。王城の裏門の方角から、何か強い魂を持つものが近づいてくるのを感じる。
「ミサギ様? どうしました?」
ミササギの不可解な行動に、少女は不安げな声を出した。
「ここまで来るとは、な。ご苦労なことだ」
「はい?」
少女の声に答えずに、そのまま落ち着いた動きでお茶を飲み干す。
まだ距離があるため動くべきか、ミササギは悩んでいたが、人が書斎に向かってきていることに気づいた。行かねばならなそうだ。
トントンと階段を駆け上がってくる音が、鎧の音とともにする。そこで、少女は、はじめて人が向かってきていることに気づいた。
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