第48話 夜闇の中で
ヨハンネスが危険を承知でわざわざ囮を宿に送ってきたのは、カイムたちに自由に動いて欲しかったからだ。あのままシュトルベルクの屋敷に保護しては監視の目が集中し、カイムたちだけでなく自分たちも行動しづらくなる。
当然囮になる者も危険を伴う。その計画をクリスに伝えると彼女は自ら囮役を買って出た。マチュアたちと顔見知りの自分が赴くことで、彼女らに警戒心を抱かせることなく接触出来る。自分が志願することで囮になってくれる他の者たちへ示しもつくし、安心感も与えられる。残り二人は屋敷の使用人やその家族の中から背格好の似通った者たちを厳選し、特別給金を支払うことを条件にその中から志願者を募った。選ばれた全員がその役を望み、逆に抽選形式を取らざるを得なくなるという有難い結果となった。
クリスたちと同行した忍びは繋ぎ役だ。カイムたちに別の潜伏宿を案内し、ヨハンネスらとの連絡係を務める大役を担っていた。しかし、アンジェが他の潜伏場所を提供するというので、それに従うことになった。その話はすでにヨハンネスにも伝えられており、それを認可する彼直筆の書がアンジェから忍びの男に渡された。
赤毛の女の取り巻きたちを衛兵につき渡す仕事や、宿の後始末は彼がすべて請け負ってくれた。それらを任せて、アンジェは四人と一匹を引き連れ、夜の街を徒歩で移動していた。向かう先は宿ではなく、ある人物の屋敷。
「色々すみません、アンジェさん」
今回の件で多くの人々に助けられているが、その中でも特に彼女は極めつけだ。それ以前からマチュアやこかげの事でも何かと世話になっている。カイムにとってこの世で一番頭の上がらない人間だろう。この国の王や一族の長老よりも恐らく……。
「いいのよ、気にしなくて。あなたたちが依頼を受けてくれると聞いて、骨を折った甲斐があったわ」
依頼の大まかな内容はカイムを通じて全員に伝わった。その上で皆の同意は得ている。彼女や依頼人代理のクラウズに義理立てしたわけではない。特にフェイランやテッドにとっては二人との関係性も薄い。それが最良の選択肢だと皆が判断したからだ。
「まあ、いつまでも街の中で
そう強がってはいるが、実はマチュアだけがただ一人この街をまともに出た事がない。期待と不安で一番胸を高鳴らせていた。
「そんなこと言って……」
アンジェはマチュアに振り向いた。
「あなたとフェイランさんのこと、司祭様がひどく心配なさってたわよ」
「う……」
「しばらく身を隠すとだけは伝えたのですが……」
フェイランがろくに説明もせず教会を出て行ったことで、彼女は雨の中、白鳥亭と小兎亭にそれぞれ何があったのか確かめに訪れたらしい。アンジェがカイムたちを探しに動いた理由の一つだ。
「明日、あたしから詳しく説明しておくから、二人とも今回の件が一段落ついたら真っ先に顔を見せに行きなさい」
「はい……」
二人揃って申し訳なさそうに頷いた。それを見て少し羨ましそうにテッドが語る。
「心から心配して下さる方がいらっしゃるのは、とても幸せなことですよ」
「テッドさん。あなたのことも白鳥亭のマスターが心配してたわよ。もちろんフェイランさんもね」
アンジェは彼とも連絡を取り合い、情報を集めていた。
「上っ面では、あいつらなら心配ないだろ、とか笑い飛ばしてたけど」
「あの人らしいですね。ご心配おかけしてすみませんと、彼にも宜しくお伝え下さい」
テッドは少し笑ってそう返した。
「ええ、わかったわ」
「ところでいい加減気になってるんだけど、これどういうこと?」
マチュアが話の流れを切った。腕には猫のこかげを抱えている。
「私もずっとそれが気になってました」
「そうよね……。こかげがカイム以外の人に身を委ねるところ見た事なかったから、ちょっと、いえ、かなり驚いてるわ」
「馬車の中でも二人ともよそよそしい雰囲気で離れて座ってましたし、駐屯所で何かありました?」
テッドのこれ以上ない鋭い質問に、カイムはたじたじになった。
「あ、いや、ちょっと喧嘩しちゃって……」
「ふ~ん?」
他の四人全員が疑惑の眼差しを向ける。誰一人としてその言葉を率直に受け止める者はいなかった。
「大事な仕事前なんだから、ぎくしゃくした関係のまま
「はい……」
アンジェに釘を刺され、今度はカイムが申し訳なさそうに頷いた。
「といっても、あまりに仲良くなり過ぎるのも考えものだけど」
覆面で表情はわからないが、口調は明らかに冷やかしを含んでいる。二人の関係性にもっとも
そうこうしているうちに目的地に到着した。シュトルベルクの大豪邸に比べると見劣りするが、それでも庭付きの立派な屋敷だ。本館と二棟の別館に分かれていて、家臣や使用人も数人抱えている。元衛兵隊長ヘルマン騎士爵の館だった。依頼人のローゼンミュラー子爵は彼の伯父で、こことは別の場所に邸宅を構えている。
覆面を脱いだアンジェの取り次ぎで、カイムたちは館内に通された。中心になって出迎えてくれたのは騎士爵の夫人。落ち着いた雰囲気の温和な女性だ。ただ少しやつれて暗い面影がある。アンジェと同年齢で、実は彼女の古い友人らしい。アンジェが今回の依頼に本腰を入れていたのは、こんなところにも理由があった。
「夜もそこそこですし、あなたも泊まっていきなさいな」
と奨める夫人の誘いを丁重に辞退し、アンジェはカイムたちに別れを告げて帰っていった。小兎亭のことも気になるし、まだ各所へ飛び回る仕事も残っている。一段落ついたとはいえ、彼女はまだ多忙な身だった。
当主ヘルマンが病で早くも就寝中、こかげも猫の姿ということで、依頼の詳しい打ち合わせは翌朝に行われる予定だ。クラウズもそれに合わせて来訪する段取りになっていた。
四人と一匹はささやかな夜食に招待され、寝室用に広い部屋が宛がわれた。男女別にもう一室ぐらいなら用意出来たのだが、マチュアもフェイランも申し訳なく思って遠慮したのだ。家臣や使用人も暮らすこの館で、二部屋も占拠する余裕がないことは何となく見ればわかる。恐らく誰かの私室を明け渡してやりくりする目算だったのだろう。彼女たちも男性陣と同室で共に寝泊まりすることに、それほど抵抗のない性格だ。
さすがに人数分のベッドは揃えられないので、敷マットに毛布と掛け布団だ。人数分のこれらを用意するだけでも、その苦労が偲ばれる。人に戻った時用に、しっかりこかげの分も準備されていた。
皆疲れていることもあり、早々に灯りを消してそれぞれの布団で横になった。こかげは猫だが、こうして五人揃って床につくのは初めてのことだ。
そのこかげは、やはりカイムの布団に潜り込むでもなく、自分用の布団の上で丸くなった。彼女が猫の時にカイムと共に寝ないのは、ヘルハウンド騒動の際以来。自由に猫になれるようになってからは、わざわざ就寝時間に合わせて猫に変わり、カイムの部屋でベッドを共にしていた。
「そんなとこで一人寂しく寝てないで、こっちいらっしゃいよ、こかげ。たまには一緒に寝ましょ」
布団の中からマチュアに声をかけられ、こかげは頭を上げた。しばらくそうやってじっと彼女を見ていたが、やがて立ち上がって歩いてきた。マチュアに遠慮していたというよりは、移動の間、抱いて運んで貰ったし仕方ないとでも言いたげな様子だ。もぞもぞと布団に潜り込んでくるこかげに、それでもマチュアは嬉しそうだった。
「悪いわね、カイム。今夜はこの子借りるわよ」
得意気にそう言ってこかげを抱き締める。カイムに次いで懐かれていることに、若干の自負心を抱いていたようだ。
「好きにしろ」
少し離れた場所で寝ていたカイムは向こうを向いたまま、不貞腐れたように答えた。今回は別に自分が悪いわけでもないし、本当に喧嘩したわけでもない。彼にとってはいまいち釈然としないだろう。フェイランもテッドもまだ起きていたが、気を使ってか何も言わなかった。
やがてマチュアは四人の中で真っ先に寝息を立て始めた。こかげの暖かな体温と、耳元で喉を鳴らす催眠音響にやられたのだ。
全員が寝静まってしばらくたった。
「こかげ……」
カイムが寂しげな寝言を洩らした。マチュアの腕の中で眠りについていたこかげが、その声に耳を動かし鋭く反応する。彼女はマチュアの布団から抜け出すと、ゆっくりカイムの枕元に歩み寄った。しばらくそこで彼を見つめて逡巡し、そしてその布団の中へ。理性や思慮に囚われにくい猫の状態では、やはり素直な思いには抗えなかった。
それからまた長い時間が過ぎ去り、明け方近い真夜中。カイムの布団の中でこかげは人の姿に戻った。彼の背中に張り付いた状態だ。その温もりを感じながら彼女は目覚めた。このまま再び猫に戻りたくなる衝動を抑える。あと三、四時間もすれば大事な打ち合わせが始まるのだ。人のままでいなくてはならない。
こかげはカイムを起こさないようそっと上体を起こした。背中に背嚢、腰のベルトにじゃらじゃらと道具を下げた状態だ。ブーツや手袋も身につけたまま。改めて寝るにしてもそれらの装備や服を脱ぐ必要がある。それがなかったら、彼女はまだカイムの背中に寄り添って寝ていたかもしれない。
「なあ、こかげ」
カイムが突然言葉を発した。
「駐屯所でのこと、あまり気にするなよ」
背中を向けたまま、そう続ける。今度のは寝言ではない。なんと答えてよいか迷っていると、カイムが再び喋り出す。
「猫の時は今みたいに遠慮なく甘えにきてくれ。その方が俺も嬉しい」
「……そうか。なら、そうさせて貰う」
「それと……」
カイムは少し言いにくそうに言葉を継いだ。
「ん?」
「人の時も……その……たまにならいいぞ。……あ、あまり過激なのはちょっと困るけど」
「……ふっ」
「あっ! 今、鼻で笑ったろ?」
カイムはごろりと仰向けになってこかげを睨んだ。自分を見下ろす彼女の顔は暗くてよく見えない。
「貴殿からそんな台詞が聞けるとは思わなかったのでな」
カイムも馬鹿ではない。駐屯所での一件より以前から、彼女の自分への気持ちには気づいていた。しかし、それは猫として
こかげは左手の手袋を取り、その手でカイムの髪を撫で始めた。横に座ったまま、指先で触れるように軽く。カイムの前で浮かべる三度目の優しい微笑み。初めて彼自身に向けられたものだった。残念ながらこの暗闇の中である。カイムがそれを目に焼き付ける事は出来なかった。
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