第7章 ネズミのようにウルサイ女ね。消えなさい!
第45話 褒めて欲しい忍び
駐屯所の一室でカイムとこかげは改めてテッドに経緯を伝えていた。彼が別れて乗車していた馬車の中では大して事情も聞けず、見知らぬ者に囲まれて針のむしろに座る心地だったらしい。
アンジェはここに到着すると同時に再び覆面を身につけた。カイムとこかげを伴ってヴィルバルトと打ち合わせをし、そのままひっそり姿を消した。
カイムら三人の座る長椅子の向こうでは、ヴィルバルトが衛兵隊の責任者と交渉を続けている。フェルスベルクの家名はこの街の衛兵隊にも顔の利く武門の誉れだ。クリスが件の尋問に対し越権出来たのもそれに頼れたからである。だが、例え辺境伯の家来といえど、衛兵隊が何もかも唯々諾々と従うわけではない。移動する間、護衛をつけて欲しいなどといきなり言われても対処に困る。それも二、三人ならともかく、乗馬込みで五、六人は必要だと譲らない。
交渉は難航するも結局、その権威と金銭に物を言わせることで強引に押し切った。
その間、カイムはこかげに連れられ、駐屯所内の人目のつかない一角に来ていた。内密に話があるというのでテッドと別れて二人きりだ。
「話というのは?」
カイムは建物の壁にもたれて彼女に問いかけた。彼女の素性に関して何か思い出したのだろうか。こかげのただならぬ雰囲気に気圧され、彼は緊張を隠す為あえて余裕を見せる振りをした。
「まだ、褒めて貰ってない」
「……」
カイムはしばし無言でその言葉の意味を反芻する。
「あ、ああ……そうだったな。悪かった。けど、褒めるだけなら何もこんな
「抱き締めて、頭を撫でながら褒めてくれ」
「……」
また思考停止した。こかげは大真面目な顔で自分を見つめている。彼女も最初はそんなつもりではなかった。ただ言葉で褒めてくれるだけで満足するつもりだった。しかし、馬車から二人で落ちた時カイムに抱き締められたことで、抑えていた彼女の
「……冗談か?」
「冗談ではない、本気だ。何でも言うこと聞いてくれると言ったではないか」
「だから! 何でもとは言ってないっての!」
カイムはおろおろと慌てふためいている。その様子を見てこかげはあからさまにがっくりと肩を落とした。
「そうか……。無理言ってすまなかった。今のは忘れてくれ……」
彼に背を向け、とぼとぼ歩き去ろうとする。あざとく狙ったわけではないが、そうした振る舞いにカイムはとことん弱かった。
「待ってくれ。わかった。それが君の望みなら言う通りにするよ」
彼女の帰還を信じられず、大きなミスを犯してしまった引け目もある。
「嫌なことを無理強いするつもりはない」
背を向けたまま、こかげが言う。
「別に嫌だなんて思ってない。ただ突然だったんでびっくりしただけだ」
それを聞いてこかげは振り返り、おずおずと近寄ってきた。上目遣いで表情は固いままだ。
「では頼む」
「わ、わかった」
カイムは緊張しながらぎこちなく、ふんわり彼女を抱き締めた。触れるか触れないかぐらいの形ばかりの抱擁。そのまま頭を軽く撫でる。
「よくやったぞ、こかげ。おかげで俺たちの先行きに光明が見えてきた気がする」
「……うむ」
彼女も身体を強張らせたまま、抱き締め返すでもなく
「無事に帰ってくるって約束したのに信じてやれなくてごめんな」
「いい。実際、私はしくじった」
「もう、これでいいか?」
「あと五分」
「さっきも聞いたぞ、それ。というか長いよ」
カイムは仕方なく一旦止めた手で再び彼女の黒髪を撫で始めた。しばらくそうしているとこかげの身体の緊張がほぐれ、徐々にカイムに密着してきた。額を彼の胸に押し付けている。
「馬車から転げ落ちた時も思ったんだけどさ。こかげ、シュトルベルク邸で呑気に風呂入ってただろ?」
髪や身体からシャンプーや高級石鹸のほのかな香りがするのだ。事実、彼女は少し横になった後、朝食前に風呂を馳走になっていた。強く咎めるつもりはない。テンパって思いついた事を口にしたまでだ。何か喋っていないと、どう間を持たせてよいかわからない。こかげは返事をしなかった。代わりに頭をグリグリと胸や顎に擦り付けてくる。猫の時によくこうやって甘えてきた。
「お、おい、こかげ?」
彼女はいつの間にかカイムの腰に腕を回し、彼よりも力強く抱き締め返していた。そのたわわな胸が強く押し当てられる。明らかに様子がおかしい。頭を上げた彼女は上気した顔で目をとろんとさせている。いまだかつて見たこともないそんな彼女の顔つきを見て、カイムの理性が弾け飛びそうになった。
「カイム殿、カイム殿……」
こかげは切ない声で何度も名を呼びながら、爪先立って彼の頬をペロペロと舐めてきた。少し遠慮がちな小さな舌の感触。カイムは頭がくらくらするのをぐっと堪えた。このまま流されてしまいたくなる衝動を抑える。
「こかげ、待て!」
震える声で彼女の肩を掴み身体から引き離した。こかげがハッとして普段の顔を取り戻す。
やってしまった。
直後、そんな表情を浮かべると、顔を真っ赤にし、踵を返して走り去っていった。
「危な……かった……」
カイムは舐められた頬を押さえて、へなへなと座り込んだ。彼が理性を保っていられたのは、ここが人目につく恐れのある外というだけではない。一見魅惑的に映ったこかげが、人の姿をした猫に思えてしまったからだ。
同じ頃、宿の二階の部屋では、フェイランがうろうろと歩き回っていた。時折、丁子油や打粉を用いて太刀の手入れを始める。かと思えばそれを中途で投げ出し、また歩き回る。とにかく落ち着きがなかった。片やマチュアは二段ベッドの下ですやすやと気持ち良さそうに爆睡している。
カイムとテッドが出ていってからもうだいぶ時間が経っている。フェイランは目立つという理由でただ一人、宿の外に一度も出ていない。この部屋から出るのも風呂とトイレの時のみ。他はマチュアですら一度は食料の買い出しなどで外出している。それで余計無力感に苛まされ、彼女を苛立たせていた。ついに彼女は矢も盾も堪らず叫んだ。
「マチュアさん!」
「ふぇっ! すみません! すぐ支度しま……」
マチュアは飛び起きてベッドの上段に頭をぶつけた。学院での下働き時代にこんな起こされ方でもしたのだろう。おでこを擦りながら、しかめっ面で眠気から覚めた。
「あいたあ……。もう、何よフェイラン」
「……ごめんなさい。大丈夫ですか?」
「まあ、いいけど。どしたの? カイムたち帰ってきた?」
「いえ……まだです」
ならなぜ起こしたとむくれるマチュアに、フェイランは理由を説明した。編笠を買ってきて貰いたかったのだ。
テッドに買ってきて貰ったフード付きのマントは、ツノに当たる部分に切れ込みを入れ被れるようにはした。が、それでは結局大きな角は隠せない。彼女が身バレせず外出するには、どうしても編笠が必要と考えたのだ。
「それ、逆に目立っちゃうんじゃない?」
「うっ……」
編笠など、この辺りではほとんど見かけない。拝み倒していたフェイランはマチュアの指摘に絶句した。
「あたしが留守番してるから、下でのんびりお風呂でも入ってきたら? 気分転換してきなさいよ」
「まだお湯張られてる時間じゃないですよ……」
言われてマチュアは窓に目を向けた。赤々とした夕日が射し込んでいる。風呂に入れるようになるまでにはまだ少し早い。しょんぼりと
ひたすら頭を下げるフェイランを適当にあしらい、マチュアは下に降りて宿を出た。寝起きで夕日が眩しい。カイムやテッドまで帰ってこなかったらどうしよう。そんな不安に苛まれ、心細い気持ちで通りを見渡す。
フードを目深に被った彼女の視線の先で一台の馬車が止まった。四人乗りのその馬車からぞろぞろ降りてきたのは家族連れだろうか。馬車が去った後、キョロキョロと辺りを見回している。辻馬車を利用するにしては、それほど裕福な一家には見えない。全員マントを纏い身なりは地味だ。大きなキャリーバックを下げた年若い女性が一人。それと荷で膨らんだ麻袋を抱えた少年。背丈は丁度自分と同じくらい。他に大人の若い男性が二人。一人は身軽だが、もう片方は背中に大きな背嚢を背負っている。一風変わった家族連れだが、取り立てて目を引くほどではない。
マチュアがその四人から目を離せず立ち止まったのは、男の一人が編笠を手にしていたからだ。その形状はフェイランに聞いた三度笠というものに間違いない。どこで売っているのか尋ねるべきか迷い、食い入るように見つめていた。そんな彼女へ、それを持っている男が近づいてきた。
「そこのお嬢さん、ちょっとお尋ねしたいのですが」
人懐こい笑顔を浮かべている。それが逆に彼女の心に警鐘を鳴らした。この男の動作から、こかげのようなその道に類する者の油断なさが感じられたのだ。忍びと日常的に接するゆえに気づき得た事だった。マチュアはフードを深く被り直し、無言でそこから立ち去ろうとした。用心するに越した事はない。
「待って下さい!」
今度はキャリーバックを置いて女性が駆け寄ってきた。
「あなた、もしかしてこかげさんのお仲間では?」
驚いて思わず振り返る。その女性の顔には見覚えがあった。記憶を探った。オーランド商会で対面したことがある。クリスティーナだった。
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