第40話 執事ヨハンネス
「どうするつもりだ?」
シュトルベルク男爵は執事ヨハンネスと共に、一旦一階執務室に戻った。定位置の執務机前の椅子に座る。
クリスの部屋の前には、連れていた私兵全員を見張りに残してきた。部屋に面する庭も私兵たちに監視させている。文字通り猫一匹通すなと厳重に言い渡しておいた。冒険者たちを捕らえる為、街の各所に派遣していた私兵は全て呼び集めた状況だ。
クリスを人質に部屋に立て籠るあの女はもはや袋のネズミ。彼女さえ完全に拘束出来れば、他の仲間など放っておけばいい。女を餌にどうとでもおびき寄せられる。彼らの身柄を確保するのはほぼ成し得たと言ってよい。
男爵が頭を悩ませているのはそんなことではなかった。クリスにブリエンテの計画が伝わり、自分がそれに加わろうとしていた企みが漏洩してしまったのが問題なのだ。恐らくここで聞き耳を立てていたであろうあの女によって。
「貴様があの時俺を止めなければ……」
男爵は机の上で頭を抱えながら、上目遣いに執事を睨んだ。その顔色はいまだ良くない。
「あそこであの猫を殺しておけば、こんなことにはならなかったのだぞ! どう責任をとるつもりだ!?」
鬼気迫る形相でそう非難されても執事に狼狽える様子はなかった。
「お声が大きいですぞ。他の者に聞かれたら何とします。それほどにフェルスベルク辺境伯殿を恐れておいでなら、いっそ奥方殿を離縁なさっては如何では? さすればブリエンテと手を組もうが、咎められる事もありますまい」
「話をすり替えるな! 俺は貴様の責任を追及しておるのだ! それにそんなことをすれば辺境伯の後ろ楯を失ってしまうではないか! 鉱山の分割所有権もこの屋敷も全て失う事になる。そもそもクリスに焚き付けられたあの馬鹿親が、計画そのものを黙って見過ごすと思っているのか?」
「後ろ楯を心苦しく思うあまり背伸びなさろうとなさって、危ない橋を渡ってしまいましたな」
「さっきから何を言っておるのだ、貴様! とうとう
「そういえば思い出してございます」
執事はふとそう切り出した。
「飲ませれば立ち所に身体の自由を失い、口も聞けなくなる毒薬があると。恐ろしい事に如何なる薬でも魔法でもそれを治療出来ず、飲まされた者は老いて死にゆくまでその状態を維持し続けるとか。まさに生ける屍というわけですな」
はっきりそう言う執事の顔を男爵は黙って見つめている。
「私めに
男爵が口を開きかける、その前に執事は即座に言葉を継いだ。
「あ、いや失礼致しました。いくら何でもこのような毒を用いるなど人にあるまじき所業でしたな。詮無き事を申しました。どうか只今の言はお忘れ下さい」
「取り寄せろ……」
男爵は小さな声で告げた。
「は?」
「その毒薬を手に入れろと申したのだ! あいつに盛って口を封じろ!」
「あいつとは?」
「貴様! 本当にボケたのか!? クリスに決まっておるわ!」
「後戻りは出来ませんぞ? 本当に宜しいのですか?」
「くどい! そんな手があるなら何故もっと早く教えなかった?」
それを聞いて筆頭執事は珍しく感情を表した。残念そうに肩を落として男爵を見つめる。
「何故教えなかったですと? 最初からそのような手など存在しないからでございます。かような効能の毒は確かにございますが、治療は可能です」
「……貴様、何を言っている?」
ヨハンネスは彼に背を向け、扉まで歩いてそこを開けた。
「あ、あなた……」
そこには蒼白な顔で佇むクリス。左右には二人の執事、その後ろにメイドのロジーナとこかげが並んでいる。部屋の中からは見えないが、彼らの左右に一人ずつ武装した私兵もいた。廊下の両端では、彼ら以外執務室に近づかないよう、数名の私兵が睨みを利かせている。大勢で聞き耳を立てては男爵に気づかれてしまうからだ。
「貴様……これは一体……」
男爵は椅子から立ち上がり、ヨハンネスに驚愕の表情を向ける。
「すでに
クリスの両脇で愕然としている二人の執事、その後ろに立つロジーナたち三人を振り返った。
「長年我が家に仕えたお前が、今になって俺を裏切るのか!? ブリエンテと手を組もうと画策したのも全て芝居か?」
「誠に遺憾ながら、私めの忠誠心はクリス殿が嫁いでいらした時点で、すでに辺境伯閣下に捧げておりました。それと見苦しく言い訳させて頂きますれば、計画を持ちかけてきたのは貴方様です。私めはそれを利用させて頂いたに過ぎません」
「抜かしおる! よくも謀りおったな……」
シュトルベルク男爵は壁に掛けられたレイピアに駆け寄った。
「貴様だけは許せん! 殺してやる!」
レイピアを掴むが、壁掛けから外れない。ヨハンネスをそれを黙って見つめていた。外れないようあらかじめ細工を施していた。それをわざわざ口に出して伝えてはあまりに彼が惨め過ぎると
その間に男爵の怒声を聞きつけ、二人の私兵が部屋へ飛び込んだ。暴れる彼を二人がかりで押さえつける。
「男爵殿を彼の自室へお連れして下さい。そのまま外に出さぬよう見張りもお願いします。手に余るようでしたら、さらに人を送ります」
喚きながら私兵たちに連行されていく男爵を黙って見送り、クリスは執務室へ足を踏み入れた。
「辺境伯殿は貴方様をあの男に嫁がせてしまった事を深く悔いておいででした」
沈黙を続けたまま自分の前に立つクリスに、ヨハンネスは語りかけた。
「貴方様が愚痴一つ溢さず、今のお立場に甘んじる様を聞き及ぶ度に心を痛めておられました。ゆえにこの家の者を調略し、穏便に離縁させるよう裏で手を回していたのです」
繋がりはそのままで構わないから、クリスだけ返せと持ちかけた事もある。しかし、疑り深い男爵はそれを拒否した。
見ての通り夫婦仲は余り良いとはいえず、男爵は別の愛人にばかりかまけていた為、幸い二人の間に子はなかった。
「
ヨハンネスは彼女に深く頭を下げた。
パシーン!
静まり返った室内に激しい音が鳴り響く。クリスは涙目になりながら、彼の頬を思い切りひっぱたいていた。
「謝るのは私ではなく、そこにいらっしゃるこかげさんを始めとする冒険者の方々でしょう?」
ヨハンネスは真っ赤になった頬を押さえもせず、扉の外に立つこかげを振り返った。
「仰る通りでしたな。私めとしたことが、とんだご無礼を」
改めてこかげに向き直り、再び深々と頭を下げた。
「貴方様方をお家騒動に巻き込んでしまった事、どうか平にご容赦頂きたい。謝って済む事とは思えませんが、せめてこれからは出来るだけお力になれるよう尽力致しますので何卒」
こかげはしばらく黙っていたが、軽く肩をすくめてこう返した。
「貴殿には猫の際、命を救われた。それとクリス夫人……いやクリス殿に免じて水に流しましょう。他の者はどうか知りませんが、皆、度し難いお人好しばかり。恐らく許してくれるかと思います」
「かたじけのうございます。優しきお言葉、痛み入ります」
「私も今の平手打ち一発で許して差し上げます」
クリスはヨハンネスに向かい、にこりと笑って目尻の涙を拭った。
「クリス殿……」
「嫌なものは嫌とはっきり態度で示さなかった私がいけないわね。そのせいで大勢の人にご迷惑をおかけしてしまったわ……。私からも謝らないと駄目ね。ごめんなさい、こかげさん」
「おくさ……お嬢様~!」
こかげが何か言うより早く、ロジーナが泣きながら部屋に飛び入りクリスに抱きついた。涙で顔をくしゃくしゃにしている。
「今まで良くご辛抱なされました。まさかあの男があれほどの人非人とは知らず、申し訳ありませんでした……」
「いいのですよ、ロジーナ。あなたにも色々と気苦労をかけたわね」
クリスは自分よりもだいぶ年上の彼女を、子供を扱うように宥めている。
「さて、色々と話もおありでしょうし、ひとまず朝食に致しましょう。私は彼らとまだ少し話がありますので……」
ヨハンネスは部屋の外で控える二人の執事を振り返る。
「すまないが、私は一刻も早く仲間のもとへ戻らなければならない」
心配しているであろう彼らの事を思うと、こかげは居ても立ってもいられなかった。クリスやヨハンネスらと今後の対策を論じる必要もあるが、彼女にとってまずはそれが先決だった。
「こかげさん、でもあなた顔色悪いわよ。あまりお休みになられていないのではなくて? ご無理なさらず少し休んでいかれなさい」
「左様にございますな。お仲間のもとへは後ほど護衛をつけた馬車で隠密にお送り致しますので、どうぞそれまでお休み下され」
クリスとヨハンネスに揃ってそう薦められては、彼女も嫌とは言えなかった。
朝食の支度が整うまでの間、こかげは一室を借り、そこで少し横になる。その後、朝食の席で彼女はクリスやヨハンネス、辺境伯に賛同する家中の主だった者たちを交え、今後どうするか話し合いを行った。
クリスは父のもとに直接赴き、事の次第を説明して助けを乞うつもりだった。彼女の父フェルスベルク辺境伯は、西方国境を強大な軍事力で防衛する国家の重鎮の一人だ。しかし、いくら負い目があるとはいえ可愛い娘の我儘一つで、おいそれと軍を動かすわけにはいかない。例えこの街に軍事介入を行ったとしても、太守や他の貴族たちが黙っていないだろう。政治的に解決する方法も同時に模索する必要があった。
そこでこかげはファルネア教団にも働きかける事を提案した。マチュアやフェイランと馴染み深い教会の司祭を通せば、それも現実味を帯びると思われた。人の姿で直接会ったことはないが、猫の時に世話になった覚えがある。彼女の人となりも二人から伝え聞いている。間違いなく力を貸してくれるだろう。ヨハンネスが彼女との折衝役を買って出てくれた。
彼はその他に、いまだ混迷極まるシュトルベルク家をどうにかしなければならない難題も抱えている。とりあえずこの屋敷は辺境伯の別邸として、シュトルベルクから切り離す目算を立てていた。あんな男でも貴族の端くれだ。いまだ彼に従おうとする家来や私兵も少なからずいる。ゆえにそれらの問題を解決しなければ、ブリエンテやメランヴィルに戦力で対抗するには程遠い。
問題は山積みだった。辺境伯とファルネア教団が力を合わせても一朝一夕に解決出来る事案ではない。こかげたちはまだ当分の間、ブリエンテらに追い回される事になるだろう。
長々と相談を続け、気づけば昼近くになっていた。そのまま軽く昼食を取り、こかげは馬車で屋敷を出る事になった。一度仲間の元へ戻った後、レオを預かりに行き、彼女と共にまた戻る予定だ。馬車には他に女性の私兵が一人乗り込むことになった。その他にもう一人の私兵が護衛として、馬に乗って付き従う。何かあった際に戻って救援を乞う為だ。シュトルベルク男爵の監視とクーデターへの造反に備え、これ以上信頼のおける私兵を割く余裕はない。あまりに物々し過ぎても、屋敷の周囲に
馬車が別に馬を伴って門を出る様を、その敵ブリエンテとメランヴィルの私兵たちが見守る。丁度その直前に、そこへ馬に乗って様子を見に来た者がいた。
「何か変わった事はなかったか?」
彼女は馬を降りて、一人のレーヴェにそう尋ねた。
「おお、
ショーテルを腰に挿し、頭にたてがみのある屈強なレーヴェが答える。
「他の様子はどうだった? 見回っていたのだろう? 奴らはまだ見つからないのか?」
「他も相変わらずだ。どこに雲隠れしたのやら、見当もつかん」
エスペランザは被っていたフードを取った。その目が屋敷の正門を出ていく二頭立ての馬車を捉えた。その窓にはカーテンがかけられていて、中に乗る者は分からない。彼女はまたすぐにフードを被り直した。
「あの馬車をつける。モハマド、馬を頼む。この近くで何かあったら警笛で知らせる」
彼女はマントを翻し、走って馬車を追っていった。
「お、おい、姉者!」
モハマドは馬の手綱を握らされ、彼女を見送るしかなかった。
同じ頃、馬車の進行方向とは逆に、同じ道を屋敷へ向かう二人の人物がいた。エスペランザ同様、マントのフードを目深に被ったその二人組はカイムとテッドだった。
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