第39話 密会

 クリスは月明かりのみの暗い部屋の中、ベッドに腰を降ろしてこかげの話に耳を傾けていた。こかげは彼女の目の前で片膝をついている。


 こかげが黒猫のディートをじゃらしていたのは、可能な限りクリスを刺激させないよう起こそうと思案した結果だ。クリスはこかげが猫から人の姿に変化へんげした事もあっさり受け入れた。商会でガウルの少女がそう言っていたのを思い出したからだ。その時は冗談だと思い受け流していた。


「では、カールは生きていると!?」


 つい大声を上げてしまい、クリスは慌てて口元を押さえた。


「はい。名を呼ぶカイム殿に間違いなく反応し敵意を喪失しました。それに魔獣としては有り得ない人懐こさ。調教師の言うことにも素直に従っておりました。それと、いささか気弱な一面もあるよう見受けられました」


 動けないガルムにすら恐れをなし、へっぴり腰になっていた光景を思い出す。その時の情景をさらに詳しく語るこかげ。それを聞いてクリスは両手で口をふさいだまま、ぼろぼろと涙をこぼし始めた。


「ああ……。間違いない。そのキマイラはカールハインツよ。あの子は臆病だけど、とても人懐こくて聞き分けの良い子なの……」


 恐らく元の姿に戻す方法は無い。本来の猫の肉体はすでに失われていると見て間違いない。例え戻ったとしても年老いていた以上、もうあまり長くはもたなかっただろう。別の身体を得たことで、ある意味生き永らえさせて貰ったともいえる。

 短い間でも自分の側にいてその死を看取れるのと、自分の目の届かぬ場所で見知らぬ者に酷使されてでも寿命を伸ばす。愛する者がいずれかの状況に置かれた場合、果たして自分ならどちらを是とするだろう?

 こかげはふとそんな事を考えていた。


「よくぞ報告して下さいました」


 ひとしきり泣き続けた後、クリスは涙を拭って表情を改めた。


「その組織とそれに加担する貴族たちに関しては、こちらで手を打ちましょう。カールは必ず我が手に取り戻してみせます。このままその者たちの好きにはさせません」


 静かな口調なれど、瞳は爛々と燃えたぎっている。


「あまり、あの手は使いたくなかったのだけれど、とやかく言っている場合じゃないわね……」


 クリスは軽く爪を噛んで、ぶつぶつ独り言を呟いている。そして膝をつくこかげに向き直った。


「ただ、申し訳ないのですが、今の私にあなた方の身の安全を守る力はないの。掃除が終わるまでしばらく時間がかかるので、あなた方はそれまでの間、身を隠していて貰えないかしら?」


 クリスがと言い切った事に驚きを感じながら、こかげは答える。


「承知しました。ただ、一頭だけ貴殿にかくまって頂きたい犬がおります」


 彼女はレオの詳細とその居場所を伝えた。


「承りましたわ。その子の件、誓ってお約束します。私、犬も大好きなんですのよ。特に大型犬は。ああ、それから……」


 クリスはベッドから立ち上がり、化粧台の引き出しの中から幾つかの装飾品や宝石類を無造作に取り出した。


「これは今回の依頼の報酬です。商会に受け取りに行けないでしょうし、ここでお渡ししておきますね」


 こかげにそれらを手渡す。貴金属に疎いこかげですら、その総額は元の成功報酬を遥かに上回ると推察出来た。この期に及んで紛い物を渡すとも思えない。


「多分、売りさばけば報酬額よりはかなり高くなると思います。あまり価値は分からないけれど、お父様が送って下さる物に外れはないはずだから」


「よろしいのですか?」


「迷惑料と特別ボーナス込みよ。潜伏期間の生活費にでも当てて頂戴」


 こかげは礼を言って遠慮なくそれらを受け取った。背嚢はいのうの中に大事にしまいこむ。


 気づけば白々と夜が明け始めている。こかげは立ち上がり窓際に向かう。クリスを振り返り、深々とこうべを垂れた。


「商会で貴殿を侮辱してしまった事、どうかお許し願いたい」


「もう済んだことです。お気になさらないで」


 クリスはにこりと微笑んだ。


「どうか、ご無事で……」


 そう見守る彼女に背を向け、窓の外に目をやる。明るくなり始めた空の下、庭の様子を窺う。この時間ならまだなんとか人目を忍んで脱出出来るだろう。


 そう目論んでいた彼女は、それが甘い考えだった事を思い知らされた。庭のあちらこちらに武装した私兵たちが徘徊している。しかも、その全員がこちらの窓を気にしている素振りだ。

 クリスに監視の目をつけるのは、今日からにしてももう少し遅い時分だろうとたかくくっていた。


 こかげの鋭敏な聴覚がこの部屋に近づく大勢の足音を捉えた。この上は無茶でも庭を強行突破するしかない。何とか塀を越えても他家の私兵が巡回している。まさに絶望的状況だが仕方ない。そう判断し、窓を開けようとした彼女の腕が掴まれた。


「こっちへ!」


 クリスも感づいたのだろう。切羽詰まった顔で、こかげを引っ張ろうとしている。陥れようとしている風には思えない。猫の時からこかげは彼女に全幅の信頼を寄せるようになっていた。


「クローゼットの中へ隠れて! 後は私が何とか誤魔化します!」


 小声で必死に訴える彼女の言葉に従い、そこへ飛び込んだ。戸を閉め、急いでそこから離れるクリス。二重扉を開け、声かけもノックもなしで男爵が部屋へ入ってきた。扉が一枚であれば危なかった。


 まるで間男だな……。


 己の情けない状況を自嘲しつつ、こかげはクローゼットの隙間から外の様子を見守る。


「いくら夫とはいえ、ノックもなしに妻の部屋へ押し入るのは如何なものかと」


 クリスは寝巻き姿を恥じらいながらも精一杯平静を装っている。その足元には突然の闖入者から主人を守ろうと、健気な猫たちが数匹男爵に唸り声を上げていた。


 男爵の後ろで続々と私兵たちが部屋へ入ってきた。皆、男爵と違い、無礼を決まり悪そうにしている。


「昨夜の猫を渡せ。どこにいる?」


 高圧的な物言い。男爵はクリスの足下の猫たちを一匹一匹見回している。


「まずは理由をお聞かせ頂けますか?」


「奥方殿の身を案じての狼藉にございます。ご容赦下され」


 居並ぶ私兵たちの間から、執事のヨハンネスが現れた。その隣にはメイドのロジーナ。


市井しせいを騒がすお尋ね者の中に猫に変化へんげする女忍びがいると、つい先程耳に入れたのでございます。その猫の毛は灰色だとか」


 無論建前である。捕らえようとしている冒険者の中にそうした者がいる。情報を集めていた私兵から先刻それがもたらされた。小兎亭の客の間ではこかげの話題は有名だった。


「申し訳ございません! 奥様!」


 ロジーナが深く頭を下げた。


「奥様の身に危険が及ぶと言われたものですから……」


 こかげがクリスの猫でないことを暴露したのは彼女だった。思っていた状況と成り行きが異なる事に戸惑いを見せている。


「そういう訳だ、クリス。素直に猫を引き渡せ」


「お断り致します。あの子はもう、うちの子です。灰色猫なら他に幾らでもいるでしょう? あの子がそうとは限りませんわ」


 それを聞いて男爵はやれやれと首を振った。


「その猫が居た執務室の鍵が外から壊されていたのだ。もうよい。これ以上、お前の駄々に付き合うつもりはない。貴様ら! 構わず探せ!」


 男爵は背後の私兵らに顎をしゃくった。私兵たちは一応はクリスに頭を下げ、部屋の中を散っていく。クリスは無言でクローゼットへ駆け寄った。


「馬鹿か、お前は。そこに隠していますと打ち明けているようなものではないか」


 男爵がそれを見て嘲笑う。万事休すと観念したこかげに、クリスが戸越しに小声で語りかけた。


「私を人質になさい。躊躇している暇はありませんよ」


 私兵の一人がクローゼットを背にするクリスに歩み寄る。その扉が半分開かれ、苦無を握った腕がぬっと突き出た。背後からクリスの首に回される。


「奥様!!」


 ロジーナが悲鳴を上げる。その場の全員が息を止めた。


「全員そこから動くな! 少しでも動けば彼女の喉を掻き切る!」


 ……また、こんな役回りか。内心どす黒い笑いを抑えきれない。こかげはそのままゆっくりとクローゼットから出た。


「あ、あ、あなた! 猫の時に助けて差し上げた恩も忘れて! こ、この人でなし!」


 ガタガタ震えながらクリス迫真の演技だった。平然としていては怪しまれるとはいえ、こかげにとっていささか胸に刺さる。


「何とでも言え! 忍びにとって義理人情など塵芥ごみあくたに等しい!」


 口に出して叫んでいると、段々その気になってくる。こかげはクリスの首に回す腕に力を込めた。


「下らん演技を……。構わず女を取り押さえろ!」


 唖然としていた男爵が気を取り直し、私兵たちに指図した。クリスとは逆に平然さを見せかけている。しかし、その顔色は悪く、額には脂汗を滲ませていた。侵入者がすでに人の姿を取っている以上、自分たちの密談がクリスに伝わったとみて間違いない。傍らを通り過ぎて彼女たちに向かう私兵の一人に小声で囁いた。


「クリスを傷つけても構わん。遠慮なくやれ」


 どう対処しようか頭を悩ませていた私兵は、それを聞き仰天して立ち止まった。


「宜しいのですか……?」


「同じことを二度言わせるな!」


 こかげとクリスは距離を置いて私兵たちにぐるりと取り囲まれた。


「動くなと言ったはずだ! 聞こえなかったのか!?」


 こかげも男爵同様、額に汗を浮かべている。クリスも思った通りに事が運ばず、その意味で顔を青くしている。


「旦那様! 無茶はお止めくださいませ! 奥様に万が一の事あらば!」


「うるさい! 口を挟むな!」


 血の気を失った顔でロジーナを叱りつけた。


「旦那様、ここは一度出直しては如何でしょう」


 それまで黙って成り行きを見守っていた執事がそこから歩を進める。


「お互い少々頭を冷やすべきかと。かように強引に事を運ばずとも、他に幾らでも手はございましょう」


 この場でただ一人、悠然と構えている。男爵は無言で彼の顔を凝視した。


「皆、そこから速やかにお下がり下さい。奥方殿を危険に晒す振る舞いは断じて許されません」


「貴様……俺の許可なく指図して、どういう了見だ?」


「このような事をなさっても、奥方殿が企てを知ってしまった事実は拭えませんぞ」


 耳元でそう囁かれ、シュトルベルク男爵は考えを改めた。


「仕方あるまい。出直すとしよう。引き上げるぞ! その者はそのまま捨て置け!」


「奥様をこのまま放置なさるおつもりですか!?」


 私兵たちがジリジリ後退る中、メイドのロジーナだけは唯一反対している。


「安心なされよ。わたくしめに妙案がございます」


 クリスを気にかけるでもなく、私兵を引き連れさっさと退室していく男爵。それを見送りながら、執事ヨハンネスは彼女の肩に手を置いた。何度も振り返る彼女を伴い部屋から出ていく。


 部屋の扉が静かに閉められた。それを見届け、こかげはようやくクリスから身体を離した。


「手荒な真似をしてしまい、すみません」


「いえ、こちらこそ酷い言葉を……」


 二人揃って大きく息を吐く。クリスを気遣ってか、その周りに猫たちが集まってきた。


「さて、これからどうしたものか……」


 こかげは再び窓際に寄って外の様子を確かめた。すっかり明るくなった空の下、庭にははっきりとこちらに視線を注ぐ私兵たち。状況はより悪い方向へと転がっていた。

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