第38話 クリスティーナ

「奥様! そのように走られては危のうございます!」

 

 そんな女の声とパタパタと急ぐ足音。それらと共に執務室に飛び込んで来たのは三十路手前くらいの女性だった。男爵家夫人とは思えない地味で質素なドレス。ドレスというにはスカートの丈もやや短く活動的で、普段着に近い。ブロンドの髪を短めに纏め、飾り気も少ない。


「ごめんなさい、あなた。うちの子がこちらに迷い込んでしまったと伺って来たのですけれど……」


 彼女はハアハアと息を切らせながら、夫であるシュトルベルク男爵に声をかけた。


「その下だ。屋敷内を勝手に彷徨うろつかせるなとあれほど言ったであろう」


 男爵は渋面でソファーを指さした。持っていたレイピアはすでに壁掛けに戻している。


「申し訳ありません。私の部屋から出さないよう気をつけてはいたのですが」


 クリスはペコリと頭を下げ、すぐにソファーに歩み寄って四つん這いになった。


「んまあ! 奥様! またそのようにはしたない格好を!」


 遅れて到着した壮年のメイドが、部屋の入り口で金切り声を上げる。その後ろには初老の筆頭執事ものんびり戻ったところだった。


「暗くて良く見えないわね。ロジーナ、明かりを頂戴」


 古株メイドの諫言をまったく気にする様子もなく、クリスは床に横顔を密着させてソファーの下を覗き込んでいる。メイドは溜め息を一つ吐くと、男爵に一礼して室内に入った。クリスの側へ近づいてしゃがみ、持っていたランプを手渡す。


「ありがとう」


 ランプ片手に今度は全身を投げ出し這いつくばった。メイドと夫の男爵はそれを目にして、嘆かわしやと天を仰ぐ。


「あら?」


 クリスが思わず声を上げた。


「どうかなさいました?」


 メイドが横でそれを尋ねる。


「いえ、何でもないわ」


 ソファーの下奥に潜り込んで眼を光らせているのが、見覚えの無い猫だったからだ。


「私は忙しいのだ。さっさと連れて行け」


 男爵がイライラとクリスを急かす。


「ごめんなさい、あなた。今少しお待ち下さい」


 クリスは床に這いつくばったまま謝った。ソファーの下にゆっくり手を伸ばす。


「いい子だから、そこから動かないでね」


 猫の前足を掴んだ。こかげはクリスの目をじっと見つめたまま、そこで小さく威嚇の声を上げる。しかし、その手を振りほどくこともなく逃げない。


「まあ、偉いわね。そのままじっとしてるのよ?」


 クリスはランプを静かに置き、もう片方の手もソファーの下に突っ込んだ。両手でそれぞれ猫の両前足を掴む。這いずりながら少しずつ引き寄せる。こかげは上半身はなすがままだが、下半身だけは何とか抵抗しようとまだ突っ張っている。そんな姿でズルズルと引き摺られ、やがて彼女はソファーの下からクリスの腕の中に収まった。


 引っ張り出している最中、クリスは疑問に思っていた。外から迷い込んだにしては、この雨の中身体が濡れていない。それに野良にしては身綺麗だ。毛並みもいい。彼女はこの猫が相当可愛がられている飼い猫だとすぐに気づいた。よくブラッシングもされているのだろう。


 こかげはクリスに抱かれながら、おとなしく肩にしがみついている。鳴き声一つ上げない。ぐったりして元気がないというより、彼女に身を委ねることで、この場を切り抜けようと画策する利発さを思わせた。


 彼女に抱かれた猫を見て、男爵がまた口煩くちうるさく発言した。


「飼い猫には鈴をつけておけとも申したはずだぞ? なぜ言うことが聞けぬ」


「申し訳ありません」


 クリスは言い訳もせず、こかげを抱いたまま項垂うなだれている。


「申し訳ございません、旦那様。わたくしからも良く言い聞かせておきますので……」


 メイドも彼女を庇って共に頭を下げる。


「嫁ぎ先から共にしてきたお前の躾がなっておらんからだぞ」


「はい……」


「旦那様、奥方殿もロジーナも充分反省なさっておられるようですし、その辺りで矛を収められてはいかがでしょう」


 見かねた執事が淡白な口調で助け船を出した。男爵は不機嫌な顔で三人に背を向ける。


「用が済んだのならさっさと出ていけ! ヨハンネス、お前もだ」


「かしこまりました、旦那様」


「大変申し訳ございませんでした。旦那様」


「失礼致します」


「次にまた似たような事があったら、今度こそ猫には容赦せんぞ。覚えておけ、クリス」


 背を向けたまま、吐き捨てるように言った。


「はい。二度とこのようなことなきよう気をつけます。すみませんでした」


 扉をそっと閉め、三人は揃って廊下を歩く。


「ありがとう、ヨハンネス。あなたがいなかったら、この子多分殺されてたわ」


 自分にしがみついたままじっとしているこかげを撫でる。


「どうぞお気になさらず」


 彼は無感情にそう一礼し、一階の階段下で別れていった。慇懃無礼とも取れる態度だが、そういう性分だとわかっているのですでに気にならない。階段を登ろうとして、クリスはメイドのロジーナを振り返った。


「ロジーナも御免なさいね。……そうだわ。迷惑ついでの上、二度手間で悪いのだけれど、この子のご飯用意してあげて貰えないかしら。この子だけ食べそびれちゃってるから」


「はあ、それは構いません。それより先程からずっと気になっていたのですが、奥様の猫の中にそのような子、いらっしゃいましたでしょうか?」


「あー、えーと……」


 クリスは冷や汗を浮かべて目を泳がせている。


「まあ、いいでしょう」


 ロジーナは呆れてまた溜め息を吐いた。


「すぐにご用意してお部屋まで届けさせます。けれど、これ以上猫を増やすのもどうかと思われますが?」


 背を向けて遠ざかる彼女にクリスは小さく舌を出した。


「元の飼い主さんを見つけるまでの間だけよ。見つからなければ、うちの子にしちゃうけど……。それにしてもあなた本当に大人しいわね。体調が悪いわけでもなさそうなのに」


 手に伝わる体温も元気な状態の猫と変わらない。


 クリスはこかげを連れ、二階の自分の部屋に戻った。個人の部屋にしては随分広い。大きな窓の向こうには広いテラス。部屋の奥に天蓋付きの大きなベッド。その横には立派な化粧台と姿見鏡。天井には眩い魔法の光を放つシャンデリア。その他、タンスや本棚、クローゼット等様々な家具や調度品。さらにキャットタワーと呼ばれる背の高い猫の遊び場が二つ、大きなケージも幾つかある。


 身なりは男爵家夫人とは思えない程質素なのに、部屋や家具は逆に男爵家どころか侯爵伯爵をも凌ぐ絢爛豪華ぶりだ。


 彼女が二重扉を開けて部屋に入ると、数匹の猫が駆け寄り彼女を出迎えた。それ以外にもまだいる。キャットタワーやベッドの上で寝そべったり、床でじゃれあうものなど。その数、総勢八匹。皆、一様に首輪に鈴を付けている。世間にはもっと多くの猫を飼う者もいるという。彼女などまだ可愛い方だろう。


「皆、いい子にしてたかしら?」


 クリスは猫たちを見て至福の笑顔を浮かべた。夫に叱られて小さくなっていた彼女とは別人のようだ。


 彼女の腕の中にいるこかげを見て、威嚇の態度を取る猫が何匹かいる。クリスにとってそれは想定内だった。


「あなた、大人しいから他の子にいじめられそうね……」


 部屋の隅に置かれた大きめなケージの一つに歩み寄る。


「ちょっと窮屈だけど、しばらくこの中で過ごして頂戴ね。飼い主さんのところへ戻るまでの我慢よ」


 ところが、こかげをケージに入れようとした途端、彼女は激しく抵抗した。柵に爪を引っかけ、入れられまいと力一杯踏ん張る。にゃあにゃあ大声で鳴き続けて拒絶の意思表示。その豹変ぶりにクリスは困惑した。試しに他の猫のいないキャットタワーの上に乗せてみる。すると一転して再び彼女はおとなしくなった。鳴き声一つ上げず、そこで置物のようにじっとしている。別にクリスから離れたくないというわけでもないらしい。


「困ったわね……」


 仕方なく自分の身近に置いてしばらく様子を見ることにした。とりあえずベッドの上に腰かけ、傍らにこかげを置く。香箱座りのまま、そこから移動しようともしない。ただ一点を見つめて微動だにしない。


 案の定、こかげに敵意を見せていた猫たちがちょっかいをかけにきた。威嚇しながら寄ってくる。


「こら、苛めちゃダメよ! 仲良くなさい」


 唯一黒猫のディートリンデだけが、こかげに構わずクリスの元に甘えにやって来た。無遠慮にこかげの背中を踏み越え、クリスの膝元によじ登る。そんな状態でもこかげは反応すらせず、怒りもしない。


「あなた、本当に変わった子ね……」


 自分の膝の上で喉を鳴らすディートを撫でながら、さすがのクリスも呆気に取られる。もしや、どこかに障害があるのかもしれないと本気で心配になってきた。


 扉をノックし、メイドがこかげの食事を持って訪れた。他の猫たちに威嚇され囲まれる灰色猫の事が気になったが、クリスはお礼を言いながらその側を離れた。ディートを抱いたまま、食事を受け取りに行く。メイドが退室して振り返ると、状況は一変していた。


 こかげの周りから猫たちが居なくなっている。こかげはそこにそのまま。彼女を囲んでいた猫たちは皆、部屋の隅っこで小さくなって怯えていた。クリスはそれを見て、ただ呆然と立ち尽くしていた。



 真夜中、クリスはうるさい物音に目を覚ました。そうやって猫に起こされるのは日常茶飯事なので驚きはしない。ベッドの上で上体を起こす。シャンデリアの灯りを点す為の合言葉を口にしようとして思いとどまった。自分の両サイドにいる子たちを始め、寝ているだろう猫たちを起こしてしまう。


 そのまま物音のする方向に視線を向ける。


「ひっ……」


 心臓が止まりそうになる。微かに短い悲鳴を上げてしまった。窓際に人がいたのだ。いつの間にか雨が止んでいる。大きな窓から射し込む月明かりに照らされ、何者かが床に座り込んでいる。


 大声を上げそうになって、彼女はその人影のすぐ側に黒猫のディートがいることに気づいた。鈴を鳴らしながら、軽快に跳び跳ねている。よく見るとその人影が猫じゃらしでディートをあやしている。聞こえた物音は無邪気に遊ぶ彼女が発するものだった。


 その様子を見てクリスは少し落ち着きを取り戻した。叫ぶのを止め、震える声で尋ねる。


「ど、どなたです……?」


「驚かせてしまい申し訳ありません、クリス夫人。貴殿に助けて頂いた猫……だった者です」


 落ち着いた女性の声。何を言っているのかいまいち理解できない。ただ、その人物から害意が感じられない事と、自分の名前を知っている事はわかった。


「以前、オーランド商会で貴殿から依頼を受けた冒険者の一人です。失礼な事を言ってしまった女の事を覚えていらっしゃいませんか?」

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