第37話 シュトルベルク家の陰謀
こかげは屋敷から少し離れた家屋の屋根の上で、目的地へ遠眼鏡を向けていた。多少雨足は弱まったが、まだ降り続いている。
温暖な季節とはいえ、防水マントの上から雨は容赦なく体温を奪っていく。火種を保持する
テッドの報告通り、シュトルベルクの屋敷周辺には貴族の私兵たちが徘徊している。こかげがここで長く様子を見ているのは、彼らの動向を探る為だ。やはり正門近くで監視する人数が一番多い。それに塀を越えて侵入された教訓を生かしてか、定期的に屋敷の周囲を巡回する者も一定数いる。
「こんな雨の中、ご苦労なことだな」
自分も似たようなものだが立場が違う。いつ現れるか知れない者を警戒して待ち受けるのは相当忍耐を要するだろう。現れるという保証もない。むしろ徒労に終わる可能性の方が大きい。すでにそれは彼らの行動に表れていた。巡回が規則的になっているのだ。
こかげは自分が侵入しようとしているポイントに、どれだけの無人期間が生じているか正確に計測していた。クラウズに譲り受けた懐中時計が早速役に立っている。塀を登って敷地内へ侵入するまでに要する想定時間。それと空白時間を頭の中で照らし合わせる。
絶対に見つかるわけにはいかない。目撃された時点で侵入は失敗したも同じだ。例え運良く目撃者を口封じ出来たとしても、その後厄介なことになるのは火を見るより明らか。そうなった場合、彼女は一旦侵入を断念し、恥を偲んで出直すつもりでいた。当然、より一層警戒され今以上に難度も高くなってしまう。
こかげは屋根から降りて、
塀の下に辿り着き、ロープを握って鉤爪を回転させた。塀の上にそれを引っかける事に成功する。両足先を打ち合わせ、ブーツの爪先に短い刃物を飛び立たせる。両足のそれを石造りの塀に打ち込みながらロープを登った。雨で滑りやすくなっていたので、多少手間取ったものの、どうにかギリギリ時間内に塀を登りきった。急いでロープを回収する。夜間に加えその雨が幸いし、角を曲がってこちらに向かってくる男の視界に入らなかったようだ。
塀の上でじっと身を伏せるこかげの真下を男が通り過ぎる。男が遠ざかったのを確認し、鉤爪を外してロープを手に敷地内に飛び降りる。
地に身を伏せ視点を低くして辺りの様子を窺う。庭に人の気配はない。本館とおぼしき二階建ての大きな建物。その幾つかの窓からは明かりが漏れていた。姿勢を低く建物に走り寄る。明かりの無い窓の下に行き、そっと中の様子を窺った。室内に人がいないのを確認し、外から鍵を外す。解錠専用のセット一式に加えて、しころ、
窓を開け、中に入る。部屋に侵入する際、マントを脱いで雨を払った。屋敷内を探索する必要がある為、入った後にきちんと窓も閉めておく。マントを畳んで背嚢の中に詰め込み、暗がりでじっと目を凝らした。書斎を兼ねた執務室のようだ。そこそこに広い。窓のすぐ近くに背の高い机と椅子があり、両サイドの壁際には大きな本棚。片側のその下は、ここに隠れて下さいと言わんばかりの大きなキャビネットになっている。部屋の隅には長いソファーも置かれていた。
まずは有事の際、とっさに身を隠せる場所を確認しておく。やはりキャビネットの中しかないようだ。そこの戸を開け、十分なスペースがあることを確かめた。
次いで正面の扉に張り付き、外の様子に聞き耳を立てる。足音が聞こえ、こかげは急いで扉から離れた。キャビネットの中に身を隠して戸を閉める。
部屋の扉が開かれ、男が入ってきた。
「ん?」
彼は扉を開けたまま、そこで立ち止まった。
「どうかなさいましたか? 旦那様」
彼の後ろに控える初老の男が尋ねた。白髪で長身の執事だ。ランプを手にしている。彼の問いに男は訝しげに暗い室内を見つめて答えた。
「私以外、誰か部屋に入ったか?」
三十代程度の気難しそうな男だった。キャビネットに隠れるこかげはそれを聞いて身を固くする。男は執事からランプを受け取り、部屋の中に進んで室内の各所を照らしている。
「はて、旦那様の許可なくここへ無断で入る者はいないはずですが」
「まあいい。気のせいか」
男、シュトルベルク男爵は執務机にランプを置いて椅子に腰かけた。執事も扉を閉めて室内へ入る。
「で? 例の件はどうなっておる?」
「残念ながら彼らの行方はいまだ掴めておりません」
執事の報告は淡々としていた。
「私兵に探させておりますが、なにぶん競合する他家の者も多く、彼らに悟られぬよう動くのは中々骨が折れるようです」
「メランヴィルとブリエンテか」
「両家とも血眼になって探しているようです。いささか薬が効き過ぎましたな。現状のままでは、先を越されるのも時間の問題かと」
「相変わらず他人事のように言いよる」
「恐れ入ります」
シュトルベルク男爵は苦々しい顔をし、執事は軽く頭を下げた。言葉とは裏腹に平然としている。
「それとブリエンテ家に潜り込ませた者によりますと、その騒ぎで貴重な魔獣を失ったとか。我らの差し金で計画に大きな穴を開けた事が露見すれば、ブリエンテに取り入るどころか敵に回す事にもなりかねません」
「うーむ」
男爵は机の上に肘をついて手を組んだ。
「こちらが思った以上に派手に暴れてくれたものよ……」
「ですから薬が効きすぎたと」
「わかっておる!」
男爵は苛立たしげに机を叩いた。それでも執事は顔色一つ変えない。
「何としても連中より先に、その冒険者共の身柄を確保して恩を売りつけねばならん! 商会にも報告に現れぬし、それなりに知恵は回ると見える。せっかく撒いた種だ。無駄にしたくない。何か良い手はないか?」
「一つだけございます」
「ほう、さすがよの。申してみよ」
執事はやや声を潜めた。
「不躾ながら奥方殿を利用させて頂くのです」
「クリスを……?」
「冒険者の方々は恐らく奥方殿との接触を望んでおられるはず。恐れながら彼女の動向を監視させて頂ければ、おのずと彼らを捕らえる機会も生まれましょう」
シュトルベルク男爵と筆頭執事の彼がカイムたちの存在を知ったのは、クリスを通じてであった。彼女がペット買い取りの組織を暴く為に依頼を出した事は、家の者なら周知の事実。男爵がカイムらを利用しようとしたのも、その時点ですでにブリエンテ家と組織の恨みを買っていたからだ。
「しかし、あいつにブリエンテの計画が知れるのはまずい」
「無論、接触する前に押さえるのです。いささか危険ではありますが、虎穴に入らずんば虎児を得ずとも申します」
「メランヴィルの豚共に頭を下げるよりはマシか……」
潜んで聞き耳を立てていたこかげは一部始終を知る事が出来た。要するに自分たちは、シュトルベルク男爵がブリエンテ家に取り入って計画に参加する為の手土産に選ばれたわけだ。
しかもどうやらクリスには計画そのものを知られたくないらしい。何としても
今夜のうちに秘密裏に彼女に接触しなければ、その機会は永遠に失われる。
より一層の重圧が彼女にのしかかった。
そのせいではなかろうが、こかげはふいにくしゃみの衝動に駆られた。懸命にそれを抑える。雨で身体が冷えたのも原因だろう。
ごん!
くしゃみは何とか抑えた代わりに、もがいて頭をぶつけてしまった。間の悪いことに二人の会話が途切れた瞬間だった。
「何の音だ?」
彼らの耳にもしっかり届いていた。戦いはそれなりでも、彼女は忍びとしてはまだまだ未熟者のようだ。
「キャビネットの方から聞こえましたな」
音源まで特定されている。つかつかと歩み寄る音が近づく。
二人を薙ぎ倒して逃走すべきか。いや、それではクリス夫人に接触出来ない。
即座に考えを巡らせる。
キャビネットが開けられた。こかげはそこから猫の姿で飛び出した。結局、彼女は博打を選んだ。殺される可能性も承知の選択だった。急いでソファーの下に潜り込む。そこで恐怖に怯えた。
自分が何ゆえこんな見知らぬ部屋にいるのか分からなかった。猫になると脳の大きさに合わせて思考力や理解力も低下する。普通の猫よりは遥かに利口だが、それでも所詮は幼児レベルに過ぎない。猫の状態で会話は脳にインプット出来ても、それを正しく理解するには人の姿になる必要があった。
シュトルベルク男爵は壁に飾られていたレイピアを手に取った。それを手に無言でソファーへ向かう。
「何をなさるおつもりです?」
そんな状況でも執事の声色は平淡だ。
「知れたこと! この忌々しい畜生を誅殺するのだ」
「お止め下さい。奥方殿の猫かもしれません」
「構うものか! こんなところに図々しく踏み入るこやつが悪い!」
男爵は相当頭にきているようだ。聞く耳持たぬ雰囲気を漂わせている。ソファーを足で蹴り飛ばした。それでソファーがどうにかなるわけではなかったが、こかげにとっては恐ろしい衝撃として伝わった。
カイムに助けを求めてつい鳴き声を上げる。
「冒険者の方々を確保する為に、奥方殿を利用なさるのです。その上奥方殿の飼い猫まで手にかけたと知れれば、果たしてどう思われますやら」
その言葉は強烈な歯止めとなった。
「ぬう! ならばとっととクリスを呼んでまいれ!」
「かしこまりました。お連れするまで、くれぐれも軽挙妄動は慎まれますよう」
「わかっておるわ! 早く行け!」
執事は一礼して部屋を出ていった。走るつもりはないらしい。あくまでも優雅に毅然に歩いていった。
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