第31話 ガルム
カイムとフェイランは屋敷を囲む藪の中に身を潜めていた。すぐ目の前には石造りの高い塀がそびえている。
ドガロナン商会からある程度離れた郊外の一角にあった広い屋敷。塀の周りはちょっとした林のようになっており、ぽつぽつと立ち並ぶ周りの屋敷から離れて隔絶されている。屋敷の持ち主は分からない。ドガロナン商会と繋がりが深いと言われる貴族の別邸なのかもしれない。
商会の裏口から馬車が出た直後、正面口からも現れた別の馬車を追ってここまで辿り着いた。カイムとフェイランの二人だけでは、ここまで上手く尾行出来なかっただろう。その一番の立役者たるこかげは、すでに屋敷の敷地内に潜入している。
浮気調査はライナー男爵の目的地を突き止めるだけでなく、その現場まで確認してきて欲しいと伝えられている。馬車は門衛二人の守る鉄柵の門扉をくぐった後、その姿を追えていなかった。まだ馬車に本人が乗っていたかどうかさえ確かめていない。
「こんな真夜中でもお仕事してるなんて、貴族に仕える方々も大変なんですねえ」
フェイランは呑気にそんな事を言いながら、持参していた虫除けを自分の身体に吹きかけている。門衛たちの事を言っているのだろう。彼女の長巻は今は邪魔にならぬよう大太刀と鞘に分かたれ、鞘に収めた状態で背負われている。
「ありがとう」
フェイランから霧吹きを渡され、カイムはそれを自分にも使いながら上の空だった。いくら貴族とはいえ、こんな深夜にまで屋敷に門衛を立たせておくのはおかしい。密会に対する程度の平時の備えではない。屋敷の周囲を厳重に見回りさせる程ではないが、入口に見張りを立てておく程度の警戒レベル。
カイムは革兜と革鎧に身を包み、背中に盾、腰に片手用手斧と短剣を携えた物々しい出で立ちだった。最初は浮気調査にいささか用心が過ぎるかと思っていたが、今はこれで良かったと思い直していた。どうにも嫌な予感がする。
喉が乾くのはずっと走っていた為ばかりではないだろう。腰に下げていた水袋を外して喉を潤す。フェイランもそれを見て同じ行動を取った。
「カイムさん」
水を飲み終えたフェイランが小声で囁いた。彼女の指差す方向に、塀の上で腹這いになるこかげの姿。目的を果たして戻ってきたのかとカイムは思ったが、どうも様子がおかしい。その場に身を伏せたままこちらへ手招きしている。
二人がその真下まで行くと、こかげは声を潜めてこう言った。
「カイム殿に見て欲しいものがある。判断を仰ぎたい」
彼女にしてはその声に落ち着きがないような気がした。切羽詰まっているのか、急いで欲しいと目が訴えている。カイムはフェイランに振り返った。
「ここで待っててくれ。しばらくしても戻らなければ……」
「私も行きます」
有無を言わさぬ口調。こかげの垂らしたロープに掴まり、さっさと塀を登る。幸い二人とも野外活動の経験はそれなりだ。ロープによる登攀もある程度心得がある。すんなり塀を越え、三人はそっと敷地内に降り立った。こかげの先導で真っ暗な敷地内を進む。進むに連れ、前方から明かりと共に何か聞き取りにくい雑然とした音が徐々に大きくなってくる。
建物の壁に沿ってある程度進んだところで、こかげは後ろについてくるカイムとフェイランを片手で制して立ち止まった。
「この先、急に音が大きくなる。恐らく中庭一帯に消音魔法の仕掛けがあるのだろう。驚いて大声を上げないでくれ」
彼女の忠告した通り、そこから一歩踏み出した瞬間、今までボソボソとしか聞こえなかった音が突然大音量と化した。悲しげな犬の甲高い鳴き声。地の底から響くような重々しい唸り声、それに対し牽制しているのか太い吠え声。そして大勢の人々の雑多な話し声。ある者はてきぱきと指示を飛ばし、またある者は獣たちの声にかき消されまいと大声で談笑している。
そこから少し歩を進め、建物の陰からそっと様子を伺う。カイムとフェイランは目の前に広がる異様な光景に言葉を失った。
四方を屋敷に取り囲まれた広い中庭。幾つものかがり火に照らされている。
まず最初に目に飛び込んだのは中庭の正面奥。屋敷の一階部分を優に超える大きな檻の中で唸りを上げ、荒々しく鉄格子を揺さぶる巨獣。
ゴリラのような逞しい体つきと太い腕、狼のような頭部と尻尾、全身茶褐色の剛毛で覆われている。その大きさは二人が今まで出会ったどんな怪物よりも巨体。あのゴーレムたちをも凌駕している。
「あれは魔獣……ガルム……それに……」
フェイランが途切れ途切れに呟いた。
「ヘルハウンド!」
カイムもその姿を認めて低く呻く。檻の中のガルムに激しく吠えたてているのは、見まごうことなき蒼炎に包まれた巨大な黒犬。彼が戦ったものとは別個体だろうか、一回り程体格が小さい気もする。ガルムと比較して、まるで仔犬のように見えるゆえの錯覚かもしれない。ガルムと違い檻の中ではなく、太い鎖に繋がれているだけ。さらに……。
「キマイラもいます」
博識なフェイランが掠れ声で示した。ヘルハウンドから少し離れた場所で同じく鎖に繋がれ、落ち着きなくうろうろしている。獅子の頭部と上半身、下半身は山羊のような骨格で後ろ足には蹄。そして鱗に覆われ先細りした蛇のような長い尻尾。ヘルハウンドと同程度の牛馬に相当する巨体だ。さらに大きなガルムがいなければ、その二体の存在感だけで場を圧倒していただろう。
これら三体が同時に街に解き放たれようものなら、その死傷者の数は優に四桁は達するに違いない。しかしさらに驚くべきことに、ガルムを除くそんな二体の魔獣たちのすぐ傍に数人の人がいる。彼らは特に怖れる様子もなく、中には二匹の魔獣に直接手で触れ、ガルムに怯えるそれらを宥めている者までいる。
「……あり得ない」
フェイランが驚愕するのも無理はない。魔獣たちは何があろうと人が手懐けられる存在ではないからだ。それは常識として幼い子供でも知っている。
カイムはガルムの檻の手前に描かれた巨大な魔方陣に目を止めた。
「何か特別な魔法でも使ったのか」
「時間がない。これを見てくれ」
ふいにこかげに渡された遠眼鏡でその方向を確認する。魔獣たちに気をとられて呆然としていたカイムは、その存在を失念していた。
「まさか……あの犬……」
魔方陣のさらに手前に机のように簡素な祭壇。その上に縛り付けられ横たわっているのは一頭の大型犬。魔獣たちの大きさに比べるとちっぽけに見えてしまう。悲痛な鳴き声をあげているのはその犬だ。
「あれはレオだ。間違いない」
重苦しく断定するこかげ。ヘルハウンドと戦った際、カイムとこかげを助けてくれた雌の番犬だ。
「やっぱり……」
確かにレオと同じシェパード種だ。毛並も茶と黒の二色。カイムには個体の違いが判別し難いが、彼より密接に猫として仲良くしてきたこかげには見分けられるのだろう。もっともカイムにはその鳴き声を耳にした瞬間から薄々感づいていた。あれがレオでなければ、こかげが自分をここに連れてくる理由がない。
「カイムさん! 見てください」
カイムから遠眼鏡を渡され中庭を見渡していたフェイランが、再びそれを彼に手渡した。彼女の指し示した方向にレンズを向ける。魔方陣の左サイドに立ち、金切り声で人々に指示を飛ばす中年の女。真っ赤な髪を結い上げ、銀糸のロープを見にまとい、背が高く痩せている。謎の組織でペットの査定に訪れる首謀者らしき女性。クリスから聞かされていた人物と特徴も立場も一致している。
「そこから左、建物の壁際へ視線をずらしてみて下さい」
フェイランの言う通りにする。屋敷の壁沿いに居並ぶ五人の人物。その中心に二人の貴族。一人は細身で腰にレイピアを下げた中年の男性。その右隣に立つのは背が低く小太りな同じく中年の男。こちらは武器を持たず丸腰だ。その男こそカイムたちが浮気を探れと依頼されたライナー男爵その人だった。こちらも聞いていた特徴や人相書きと容姿が一致している。
彼らの左右に立ち並ぶ三人はその私兵なのだろう。各々思い思いの武器や鎧に身を包んでいる。一人はブロードソードを腰に挿す男。その左に刀を挿した男。そして貴族たちを挟んで一番右側に立っているのはレーヴェ。
獅子そのものな頭と尻尾を持つ獣人族だ。頭にたてがみがないところを見るに女性と目される。腰にシャムシールあるいは円月刀と呼ばれる曲刀を携えていた。
目に入ってくる情報量が多すぎてカイムは立ちくらみを覚えた。中庭に魔獣三匹。祭壇に縛り付けられた犬のレオ。ペット買い取りを行っていたであろう組織の人間たち、中心人物らしき女を含めてその数は八人。それを壁際で見守る貴族二人とその私兵三人。
彼らが今から何を行おうとしているのか、カイムたちには何となく理解出来ていた。事前に調べ上げたドガロナン商会の見過ごせない点。それは魔獣捕獲の依頼を行っていること。この事実とペット買い取りを行う組織が結び付き、さらに手懐けられた二匹の魔獣とそうでないガルム。そして番犬のレオがまるで生け贄のようにその目前に捧げられている。
彼らは人間に忠実なペットの精神、もしくは魂を何らかの方法で魔獣に移植しているのだろう。ザーグのゴーレム軍団に対抗しうる魔獣軍団でも作り上げるつもりなのか。
状況確認は終わった。後はどうするか決めるだけ。カイムにも一番賢い選択はわかっている。このままこっそりこの場から退散し、メランヴィル家にはライナー男爵の行方は突き止められなかったとシラを切り通す。一方でシュトルブルク家のクリスには有りのままを報告し報酬を頂く。彼女一人でどうこう出来る案件ではなかろうが、是非もなし。これ以上関わればこの街にいられぬどころの騒ぎではない。命まで狙われること疑いない。
「俺はレオに命を救われたことがある」
張り詰めた空気の中、カイムが口を開いた。
「このまま黙って見過ごせない」
「私もだ」
こかげが頷いた。
「なればこそ、こうしてここまで来て貰ったのだ。カイム殿ならきっとそう言ってくれると思っていた。しかし……」
彼女はフェイランを振り返った。
「貴殿は無関係だ。元来た道を辿って塀に突き当たれば、私の残してきたロープがある」
「フェイランはすぐにここから立ち去ってくれ。マチュアやテッドさんたちも巻き込みたくない。二人によろしく伝えてくれると有難い」
「そう言われて、あ、はいわかりましたと逃げ出すとでも?」
フェイランはガッカリした表情で、すでにタテナシの発動準備を始めていた。その手をカイムに突き出す。
「見くびられたものです。塀を越えた時からすでに覚悟はしていました。私は腐ってもファルネアの神官戦士。このような不条理、例え国家の為とはいえ黙って見過ごせません」
「悪かったよ、フェイラン」
タテナシの光に包まれながらカイムは苦笑いした。
「君も俺たちに負けず劣らず馬鹿だったとは思わなかった」
さりげなくこかげも含んでいるが、むしろフェイランよりも彼女がこうした行動に出ようとしている方がカイムにとっては意外に思えた。
「……誉め言葉と受け取っておきます」
「すまない、フェイラン殿、カイム殿」
こかげはレオを救い出した後の脱出経路を手早く二人に説明した。カイムとフェイランはそれを聞きながら各々魔法を発動させている。今は建物の陰に完全に隠れているので光が漏れる恐れはない。カイムのセイゲツは万が一に備えて盾の裏側に灯す。
全員にタテナシが行き渡ったところで、巨大な魔獣ガルムの檻が開かれた。檻の柵を開く金属音が響き渡る。人々の間に一斉に緊張が走り、中庭を静寂が支配した。
「ひいい、エスペランザよ。いざという時は頼むぞ!」
ライナー卿が恐怖に怯えながら、傍らに立つレーヴェの逞しい腕にすがりついた。
「お任せあれ。閣下のお命は不肖、私めが命に代えてもお守り致します」
勇ましく応える彼女の声も多分に緊張を孕んでいる。
「ほほほ、ご案じ召されるなメランヴィル卿。
リーダー格の真っ赤な髪の女が笑いながら宙にシンボルを描く。
檻から解放され、周囲を睥睨しながらゆっくりその巨体が魔方陣の中央まで進み出る。今からこの場にいる者どもを全員八つ裂きに出来る。そんな喜びにうち震えたのか、ガルムがその場で大きな遠吠えを上げた。
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