第27話 猫として人として

 明け方近くになり、マチュアは目を覚ました。トイレに行きたくなったのだ。働き始めるにはまだ早い時間だ。もう一眠り出来るだろう。


 明かりの消えた薄暗い部屋でそろりと起き上がる。寝間着姿にブーツを履き、扉までなるべく音を立てないよう歩く。

 こかげは眠っているようだ。床の上で毛布にくるまって丸くなっている。

 猫のようなその寝姿に笑いを噛み殺しながらそっと扉を開け、明かりの灯った廊下に出た。


 トイレから戻って欠伸をしながら部屋の扉を開けた。その足元を素早く何かがすり抜け、彼女は驚いて飛び上がりそうになった。


「わっ!」


 慌てて足元、そして辺りを見渡す。その視線の先に走り去る猫の姿が映った。


「……こかげ?」


 急いで部屋の中を確認する。予想通り、彼女の寝ていた場所は毛布や敷きマットを残してもぬけの殻だ。部屋を出るまで彼女は間違いなく人の姿だった。畳まれた彼女の衣服や荷物はそのままになっている。

 マチュアがトイレに行っている短い間に猫に戻ったとしか思えない。


 遠くで猫の鳴き声する。それを辿るまでも無くマチュアはその居場所がわかった。カイムの部屋へ走る。

 

 案の定、彼の部屋の前にこかげが居た。扉に全身で張り付き、爪でがりがり引っかきながら切なそうな鳴き声を上げている。

 

「ちょっとやめなさい! アンジェさんに怒られる!」


 ここまで傍若無人な行為に走る猫ではなかったはずだ。マチュアは焦ってこかげを抱き抱えようとした。

 同時に扉が内側に開かれ、驚いた顔のカイムが現れた。


「この鳴き声……」


 こかげはその足元に即座に擦り寄り、何度も体を擦りつけた。

 

「こかげ! どうして?」


 屈みこんだカイムに抱きつき、甘い声で鳴き続ける。その体を強く抱き返し撫でてやると、ようやく鳴き止んだ。代わりに大きな音でごろごろと喉を鳴らし始める。一日と経っていないのに、その温もりと手触りが懐かしく感じた。


「何で元に戻ったんだ?」


「こっちが聞きたいわよ」


 二人とも状況が飲み込めず唖然としている。


「そういえば、クラウズさんが言ってたな……。解呪の手応えが物足りないとかなんとか……。もしかしたらまだ不安定なのかもしれない。また何かあるかもしれないってのはこういうことか」


「今日、また行ってきたら?」


「そうする」


「んじゃ、後は任せたから。あたし寝る」


 マチュアはやれやれと肩をすくめてカイムに背を向けた。


「色々世話かけてすまないな、マチュア」


「その台詞、聞き飽きたわ」


 そして彼女は足を止め、ニヤリと笑って振り返った。


「当然この後いつも通り一緒に寝るんでしょうけど、朝起きたら下着姿の美女が隣で寝てる、なんてことにならないといいわね。彼女の服、まだあたしの部屋にあるから」


「……有り得るだけに笑えないぞ、それ……」


 マチュアが自分の部屋に戻った後、カイムはこかげを抱いてベッドに戻ろうとして、ふと思いとどまった。

 

 いやいや、これまずいだろ……。


 マチュアの指摘した心配もさることながら、もう以前同様ただの猫としては見られない。中身は人間の女性なのだ。しかもその間の記憶があるときている。

 しかし、こかげは何があろうとカイムから離れる気配はない。カイムも自分をこれほどまでに慕う猫を引き剥がせる程の非情さは持ち合わせていなかった。


 まあ、いいか……。


 カイムは開き直った。人姿のこかげの反応が淡白だったのが救いになった。

 

 ベッドの中でこかげの頭を撫でながら語りかける。


「人に戻った時はムスッとしてたのに、今はこれ以上ないくらい幸せそうな顔しやがって……」


 人の姿を取り戻して彼女は本当に幸せだったのだろうか。自分の行いが間違っていたのかとさえ思える。

 

 次に人に戻ったらそのことを聞いてみよう。

 彼女が猫の姿のままを望むなら、それもありかもしれない。

 

 そんな事を考え、こかげが喉を鳴らす心地よい音に包まれながら再び眠りに落ちていった。耳元で聞くそれに強烈な安眠効果があるのは間違いない。

 

 

 結局、マチュアが茶化したような事態は起こらず、こかげは猫の姿のまま朝を迎えた。

 こかげ用に借りた砂トイレや爪とぎを、そのまま返し忘れていたのは幸いだった。もはや腹を括っていたカイムは普段通り、こかげの下の後始末を終え、彼女を抱いて酒場に降りた。

 アンジェに事情を説明しようとしたが、すでにマチュアから聞いていたようだ。今後どうするかはクラウズに会って相談してから決めることになった。


 明け方の騒ぎのせいか、少し寝過ごしたようだ。

 出かける前にやや遅い朝食を取る。いつも通りに注文したのに、こかげの朝食が少し豪華なのは気のせいだろうか。

 それをぺろりと平らげた彼女は、まだ食事途中のカイムの膝の上にぴょんと飛び乗った。


「おいおい……。お前、どこまでベタベタしてくるんだよ……」


 猫の姿に戻ってからのこかげの態度が明らかに度を過ぎている。人の姿になる前はここまでではなかった。まるで抑圧から開放された反動のように、ひたすらカイムに甘えてくる。

 白鳥亭の時と同じくカイムの膝に挟まれた状態で、腹を上に向け、彼の腕にじゃれついてきた。


「だから食べにくいって……。お前もしかして、この状態維持したいが為にワザとやってないだろうな?」


 そうやってカイムの食事の邪魔をしていたかと思うと、いつのまにかそのままの体勢で眠ってしまった。

 食事は終えたものの、カイムが動くに動けず困っていると、


「あんたちょっと甘やかし過ぎじゃないの?」


 それを見かねたのか、兎姿のマチュアがトレー片手に話しかけてきた。そのスタイルもすっかり板についている。カイムの膝の上で眠るこかげを見下ろし、苦い顔をした。


「ご満悦な寝顔で、いい気なものね。まったく……、今日もまだまだ教える事いっぱいあったのに」


「こかげ共々返す言葉もない……」


 カイムがそう口にした瞬間、こかげの姿が光に包まれた。

 カイムの手前のテーブルを派手にひっくり返し、その姿は突然、そして一瞬にして人に戻っていた。カイムの膝の上でその体に背中をもたれさせ、まだすやすやと寝息を立てている。しかも、下着姿で足を思い切り広げたあられもない格好だ。

 突然視界を塞がれたカイムにとっては、何が起こったのかすらしばらく理解できなかった。膝の上の重量が急に増したかと思うと、彼の目の前は、こかげの長い黒髪で覆われている。

 

 マチュアは周りの客同様、声も出せずにそれを眺めていた。我に返り、放った一言は対岸の火事。


「これなら、ベッドの中の方がマシだったわね」


「カイムさん! マチュアさん! 大変です!」


 そこへ大慌てで飛び込んで来たのはテッドだった。


「我々に指名……依頼が……来て……」


「しかも貴族の方から!」


 テッドに続いて酒場に入ってきたフェイラン。


「なんと……二件……別々に……」


 テーブルをひっくり返したまま、下着姿のこかげを膝に乗せて座るカイムを目に止め、二人は固まった。

 こかげの後ろからカイムがひょっこり顔を覗かせる。


「や、やあ……二人とも。これは違うんだ……」

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