第25話 こかげ

 三人が通された部屋は昼だというのにカーテンを閉め切り、蝋燭ろうそくの明かりで照らされた薄暗い部屋だった。魔法具や解呪の儀式に使うであろう様々な調度品などが所狭しと並べられている。


 その部屋の真ん中、大きな魔方陣の描かれた中心に彼女はいた。床にペタンと座り込み、呆然と宙を見つめている。

 艶やかな長い黒髪を姫カットにした端正な顔立ち。目は切れ長で少し気が強そうな感じだ。年は二十代前半といったところか。やはり、あの時の女性に間違いない。見知っていたカイムとフェイランは揃って目を見張った。

 

「衣服や物を身につけたまま姿を変えられているというケースは、極まれにではあるが、ワシも何度か遭遇した」


 基本的に人から動物に姿を変えられた者は、元に戻った際生まれたままの姿でいることが多い。ところがクラウズの解説した通り、彼女は服を身にまとっていた。

 灰色をベースにした長袖の布製ジャケットにショートパンツ。茶色い革の長手袋に、膝まである丈長の同色革ブーツ。背中には小さな背嚢を背負っている。その服装もあの時のままだ。


「わしの言葉がわかるか?」


 クラウズは彼女に近寄り、傍らにしゃがんでそう問いかけた。黒髪の女性はしばらく間を空けた後、その問いに虚ろに頷いた。

 

「お前さん自分が何者であったか覚えておるか? 自分の名前を言えるか?」


 クラウズは出来るだけ優しい口調で立て続けに質問する。

 

 彼女は何も答えようとしない。その様子にクラウズは一瞬顔をしかめた。

 ……これは厄介かもしれん。

 口に出さずとも彼の表情がそう物語っている。さらに質問を続けようとして、クラウズは女性が後ろの三人に視線を送っていることに気づいて口をつぐんだ。

 息を呑んで女性を見守るカイム、テッド、フェイラン。その目線がカイムのところでピタリと止まる。そして彼女はこう言った。


「名前か……貴殿らの好きに呼んで構わない」


 カイムとフェイランがお礼と共に森で出会った時の事を覚えているかと訊ねると、やはり彼女は口を閉ざして何も語ろうとはしなかった。記憶を失っているのか、それとも敢えて黙っているのか判別がつかない。

 とりあえず彼女の事は暫定的ながら、今まで通りこかげと呼ぶ事になった。


 その後、紆余曲折あったものの全員客室に移り、そこで彼女の了承を得てその持ち物を調べさせて貰うという段階に移った。身元に関わる手がかりが見つかるかもしれないからだ。


 こかげの体も服もそれほど汚れておらず、持ち物もそのほとんどに劣化が見られない。彼女の所有する持ち物の中に打竹うちたけという火種を保存しておく道具がある。驚くべき事にそれにまだ火がついていた。クラウズが言うには、こういった事例の場合、元の姿はその時点の状態のまま時間が停止しているのだという。すなわち彼女は猫になっている間、年を取っていないのだ。


 残念ながら身分証に該当する物は無かった。その代わり彼女の職業がすぐに判明する数多の品々が、どこに隠し持っていたのかと目を疑うばかりに出てきた。

 武器として苦無くないが一本、鉄拳一つ、飛苦無数本。さらに坪錐つぼきり、しころ、打竹、矢立やたて、火口箱、伸縮式の小さな遠眼鏡とおめがね、尺長の手ぬぐい、Y字型のスリング、それに幾つかの兵糧丸ひょうろうがん、かすがい、菱の実、煙玉、目潰し玉等々……。


 彼女は情報収集や諜報活動を主とし、隠密行動に長ける忍びという職だった。

 護身程度だが戦いもそれなりにこなし、罠の設置や解除にも優れていることから、冒険者の中にもこの職は少なからず存在する。雑用やちょっとした戦闘のみの駆け出しパーティではいざ知らず、野外や迷宮を主な活動の場とする熟練パーティには必要不可欠といってもよい。先日戦った茶装束の男も忍びだ。

 冒険者ギルドとは別に、彼らのみで構成された専門のギルドが存在していた。そこに行けば、もしかしたら彼女の身元が判明するかもしれない。

 


 カイムは人の姿を取り戻したこかげを連れ、ひとまず小兎亭への帰路についた。テッドとフェイランはまた様子を見に来るといってすでに別れている。

 そして別れ際、クラウズは気になる事を言い残した。


「彼女の記憶に関してはともかく、正直、解呪が完全に成功したとは言い切れん。手ごたえが中途半端な気がしたのだ。今後何かあるかもしれぬ。すまぬが、しばらく様子を見て、気になることがあったらまた来て欲しい」


 彼女の記憶が曖昧だと前提した以上、はっきりするまでは引き続きカイムが面倒を見ることになった。そう宣言していたので彼自身なんの不満もない。

 幸いペット探しの報酬のおかげで、しばらくもう一人養うだけの余力もある。しかし長くはもたないだろう。クラウズやテッド、フェイランたちに深く礼を言って別れたものの、彼はそれを後悔する程度に内心心細く感じていた。

 

 これからどうしようか……。

 歩きながら青い空を見上げ、途方に暮れる。空に猫のこかげの姿が浮かび、彼はまた切なくなった。


「養って貰う必要はない」


 彼の斜め後ろを黙ってついてきていた女性がいきなり口を開いた。今までこちらからの質問以外、自分から物を言ったことのない彼女だ。カイムの心のうちを見透かしたかのようなその言葉に、彼はギクッとして振り返った。


「先刻の質問の際にも答えたが、素性は思い出せずとも幸い職の知識と経験だけは残っている。カイム殿は冒険者なのだろう? ならば私もそこで共に働こう」

 

「それはぶっちゃけ助かるけど……」


 この流暢りゅうちょうによそよそしい物言いをする女性が、本当にあの甘えん坊のこかげと同一の生命体なのか? カイムは自分の記憶を疑った。


「何か不都合でもあるのか?」


 ぎろりと睨まれる。


「あ、いえ、そうではなく、その、こ、こかげ……さんには……」


 カイムはその女性をこかげと呼ぶことに違和感を覚えて、しどろもどろになる。


「呼び捨てで構わない。何か?」


 そう返す彼女の瞳が一瞬、悲しげに見えた気がした。


「働いてる時間があるなら、自分の生い立ちを探ることを優先させて頂こうと思っていたので。その間くらい俺が……僭越ながら面倒見させて貰いますし」


「その他人行儀な敬語もやめて頂きたい」


 ぴしゃりとそう言われカイムは絶句した。

 他人行儀なのはどっちだよ……。

 しかし彼はそれをぐっと堪え、にこりと笑ってみせた。


「悪かったよ。俺より年上っぽいんで一応気を使ったんだけどな。これでいいか?」


 右も左もわからない状態で突然見知らぬ地に身一つで放り出されたのだ。不安であろう彼女の心境を思えば、冷たくあしらうわけにはいかない。


「それでいい。自分の身元を探るのももちろん重要だが、出来るだけ貴殿に負担はかけたくない。忍びとしてはまだ半人前ゆえ、当分は世話にならざるを得ないだろうが、そこはどうか許して欲しい」


「君がそれでいいなら、こっちとしては助かるけどね」


 そういえば俺、猫のこかげとマチュアだけお前って呼んでるな。

 そんなどうでもいいことに思い当たる。 

 それにしても……。カイムは心の中で呟いた。

 隠密行動に長ける忍び、ねえ……。


 さっきからすれ違う男性のほぼ全員が、こかげに目を奪われている。

 背の高い絶世の美女というだけでなく、フェイランにも匹敵するその豊満な胸を張り、背筋をピンと伸ばして毅然と歩く姿。ショートパンツから露出する太腿も眩しい。


 目立たない事を美徳とする忍びとしては、致命的な注目度だ。

 実力はあまり期待しないでおこう。本人の申告通り、カイムは密かにそう思うのであった。



 カイムと共に小兎亭に戻ったこかげは、予想通り衆目の的となった。皆、彼女が戻ってくること自体期待半分だった上、それがどのような人物なのか各々勝手に想像を膨らませていた。そうした好奇の視線を一身に集めながら、こかげはまったく臆する様子もなかった。

 

 彼女は早速ギルドマスターのアンジェと対面し、カイムの口添えで冒険者としての登録を済ませた。マチュアの時と同じく、カイムが後見人になるという条件付きだ。登録費はカイムが肩代わりすることになった。先の依頼で囮として危険な目に会わせてしまったことへのお詫びの意味も込められている。

 こかげは一度はそれを断ったものの、ほぼ無一文の彼女はどのみち店側に借金せざるを得ない。それならばカイムに支払って貰った方が店としても助かるとアンジェに薦められ、彼女は渋々それを承諾した。


 一通りの手続きが終わり、冒険者の証であるワッペンをこかげが受け取ったところで、アンジェは彼女の顔をにんまりしながらマジマジと見つめた。


「にわかには信じられなかったけど、あなたよく見るとやっぱり猫の時の面影が色濃く残ってるわね」


 カウンターの前で椅子に腰かけ、ワッペンをしげしげと眺めていたこかげは、彼女にそう言われ顔を上げた。


「そうやって、いつもすまし顔でツンツンしてたわ。もっともカイムに甘えてる時だけは可愛らしい顔してたけど」


 それを聞いてこかげは鋭い瞳でアンジェを睨みつけた。


「ぷっ……! その顔! 私がカイムにちょっかいかけた時の顔にそっくり」


「ちょっとアンジェさん……大人気ないですよ……」


 カウンターの向こうでクスクス笑うアンジェをカイムが嗜める。彼はこかげの隣に座り、登録の補佐をしていた。


「ごめん、ごめん、少し調子に乗りすぎたわね。本題を忘れるところだったわ。こかげ……、あなたの実力次第だけどちょっと良い話があるの」


「何でしょう?」


「今、うちのベテランパーティが忍びを募集してるのよ。そこに加わってる人がもうじき引退するらしくてね。その後釜を探してるの。その人か引退するまでの間、しばらくそこに加わって後継の実地研修受けてみない? そこで働けばカイムへの借金なんてすぐに返せると思うわ」


「お断りします」


 こかげは悩むそぶりすらなく即答した。


「いい話だと思うんだけど……」


「後見人の傍を離れるのは道理に反します。それに私はベテランに混じって活躍出来る程の実力者ではありません。カイム殿やマチュア殿と組むのがせいぜいの半端者です」


「悪かったわね、半端者で」


 酒場の繁忙期を過ぎ、手の空いたマチュアが会話に参加してきた。


「ホント可愛げのないとこは猫の時のまんまね」


 相変わらず兎をモチーフにした格好にエプロン姿だ。腰に両手を当て、頬を膨らませている。


 それをよそにアンジェは諦めて肩を落とした。


「まあ、いいわ。残念だけど、この話はなかったことにしましょう」


「なあ、こかげ。ちょっと気になったんだけど」


 今度はカイムが口を挟む。


「何か?」


「なんでマチュアの名前を知ってた?」


 こかげがここに来てから、マチュアは忙しくてまだ挨拶も交わしていない。カイムとパーティを組んでいることも知らないはずだ。


「俺たちの実力がたいしたことないってのも何故わかる? もしかして猫の時の記憶が残ってるのか?」


 今さらなカイムの質問に対し、こかげは眉一つ動かさず黙って頷いた。肯定、すなわち猫の時のことを覚えている。

    

 カイムはカウンターに突っ伏して頭を抱えた。猫としての記憶を失っていると勝手に思い込んでいた彼にとって、この事実は大問題だった。そういった事態を想定していなかった自分の愚かさを呪う。


 彼は猫のこかげと一緒にベッドで眠り、共に風呂にも入りその体を洗っている。野犬に襲われた際は木の上で用を足す姿まで見られていた。


 いや、あの時、確かこかげは目を逸らしていたはず……。用足し……ちょっと待て、俺はこかげの排泄物の始末もしていた……。時々歯を磨いたり、伸びすぎた爪を切ったりもした。待て。これは別にそれ程恥ずかしい事じゃない。落ち着け、俺。


 混乱する頭の中で色々と思い出し、カイムはますます顔を赤くした。その相手が今、ほぼ同年代の異性の姿で目の前にいるのだ。これが悶絶せずにいられようか。顔から火の出る思いとはまさにこのことだ。


 カイム以上に恥ずかしいであろうはずのこかげは、特に感情を表に出すこともなく黙ってカイムを見つめている。何を考えているのかわからない彼女に、マチュアが無邪気に声をかけた。


「ねえねえ、こかげ。猫の時のこと覚えてるんならさ、じゃあ、あんたカイ……」

 

 そこまで言って口をつぐみ、言葉を濁して言い直す。


「じゃあさ、語尾に ”にゃ” とかつけないのにゃ? こんな風に」


「は?」


 凄い顔で睨まれた。

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