第4章 ああ、元の姿に戻れるなんて……。もうずっとあのままかと思ったぞ

第24話 クラウズ邸へ

 翌々日の昼下がり、カイムは宿の部屋で物思いにふけりながら、ベッドの上でこかげに丁寧にブラシをかけていた。その猫用ブラシは宿の割増料金に含まれる猫セットの備品の一つ。

 こかげは喉をごろごろ鳴らしながらカイムの腕に抱きつき熱心に甘噛みしている。時折抱きついたまま耳を伏せ、両後ろ足で彼の腕に激しい蹴りを入れる。爪は立てないようにしてくれているが割と力強い。


「痛い、痛い! お前、今日はやけに荒ぶってんな」


 ブラッシングの時はいつも気持ち良さそうにじっとしているのに、カイムの様子が普段と違う事に不安を覚えたのか、そのじゃれつきぶりは彼女にしては珍しい。


「こら、大人しくしてなさい。ブラシかけてる時に噛まれると歯が食い込むだろうが」


 ブラシを止めてカイムが抗議すると、こかげはなぜ止めた? と言わんばかりに顔を見上げ、腕に抱きついたまま片方の前足でブラシにちょっかいをかけてくる。大人しくするつもりはなさそうだ。


 呪術師と名乗るリルの祖父クラウズはさらにこう言っていた。


「呪いによって長時間姿を変えられた者は一部の記憶、あるいは全てを失っている恐れがある。それと猫から人に戻った際、猫として過ごした時の記憶も失う事があり得る。それを踏まえた上でどうするか考えるといい」

 

 その補足はカイムに重く圧し掛かった。つまり、それは猫としてのこかげとの永遠の決別と同義だ。


 人に戻るのと、このまま猫として一生を終えるのと、こかげにとってどちらが幸せなのだろうか。人に戻ったとして記憶を全て失っていれば、さらに身元不明ならば尚、その先大変な苦労を強いられるだろう。ただ、それは最悪なケースでの話に過ぎない。


 猫として過ごす場合、この先カイムに依存しなければ彼女は生きていけないだろう。

 けれども人に戻れば彼女は彼女の意思で独力で生きていける。人は猫よりもずっと出来る事が多いはずだ。恐らく、いや間違いなくあの時の女性なのだろう。今でもはっきりと覚えている。黒髪の美しい女性だった。猫になる前の彼女の人生の方がずっと長かっただろう。それをここで自分の意思一つで断ち切るわけにはいかない。


 その事に思い至った時にカイムの心は定まった。彼は断腸の思いで、こかげを人に戻す事をクラウズに伝えた。


 部屋の扉がノックされた。カイムが開いている旨を伝えると、遠慮がちに部屋に入ってきたのはフェイランだった。


 一昨日、あの後それぞれ依頼報告を済ませたカイムたちは、昨晩、受け取った報酬の分配とささやかな打ち上げを兼ねて、この小兎亭に集まった。

 カイムは本日午後からクラウズの元を訪れる約束をしており、その際テッドとフェイランはカイムに同行を申し出ていた。骨休めの為、二人は元々今日丸一日フリーにすると決めていたのだ。当然マチュアもついて行きたがったが、小兎亭での仕事がある為、泣く泣く断念せざるを得なかった。


「お邪魔しますね。おはようございます、カイムさん」


 テッドは昨晩そのままここの宿に宿泊したが、フェイランは律義に教会へ戻り、またUターンしてきていた。普段通り長巻を携えた完全武装の出で立ちだ。

 互いに挨拶を交わした後、フェイランが何か笑いを堪えている。カイムがそれを訊ねると、


「いえ。マチュアさんが、カイムさんならどうせ部屋でこかげさんといちゃいちゃしてるだろうと仰っていたので……」

 

 まったくその通りだったのがおかしいのだろう。

 ……これで最後かもしれないし。と言い訳しかけて、カイムはその女々しい言葉を飲み込んだ。


「はは……。ともかく、わざわざ呼びに来てくれてすまないね。すぐ支度して降りるから酒場で待っててくれないか?」


「はい、わかりました。テッドさんにもお声かけておきますね」


 笑顔でそう答えて部屋を出て行こうとした彼女は、そこでふと足を止めて振り返った。


「本当によろしかったんですか? その……こかげさんのこと……」


 カイムが無理しているのを見抜き、気遣わしげにそう言った。


「心配してくれてありがとう。だけど、こかげの為だから」


 いつの間にかおとなしくなっていたこかげを撫でながら、努めて明るく答える。

 出来ればこのままでいたい。

 それがカイムの本心ではあった。



 カイムとフェイランとテッドの三人はこかげを連れ、揃って小兎亭を出た。

 その際マチュアとアンジェのみならず、普段は厨房に引っ込んで滅多に表に出てこないゼストまで見送りしてくれた。今までこかげの食事を用意してくれていたのはほとんどが彼である。彼なりにこかげに愛着が沸き、その別れを惜しんでくれたのだろう。


 フェイランとテッドがカイムについていくのは興味本位だけでなく、こかげの身の安全を確保するという配慮もあった。ペットが誘拐されるという危険は完全に消え去ったわけではない。

 その為、フェイランだけでなくテッドもカイムも鎧を着込み、各々武器を携えていた。とはいえ、さすがにカイムは盾と革兜は宿に置いてきてある。テッドはその足で白鳥亭に帰る予定なので、完全武装に加え大きな荷物を背負っていた。


 その心配も結局杞憂に終わり、クラウズとリルの自宅に着いた三人は、まずは飼い犬のウェンディに出迎えられた。恩人と認識してるわけではなかろうが、

ウェンディは三人に吼えることもなく尻尾を振って人懐こく近寄ろうとしている。紐に繋がれた状態なのでそれは叶わないものの、大きな体に関わらずその健気な姿に癒される三人。

 同時に、まだ誘拐の危険性が残っていることを伝え忘れた事実を思い出し、揃って顔を青くした。


「後で忘れずに伝えておかないといけませんね」

 

 そう反省するテッドに他の二人も頷いた。こかげはウェンディにはまったく興味を示さず、カイムの腕の中でどこか落ち着かない様子だ。

 

「こかげさんて本当にカイムさん一筋なんですね」


 そんなこかげの態度にフェイランはやや的外れな反応を示した。


「まあ基本そうなんだけど、ヘルハウンドと戦った時助けてくれたレオっていう雌の犬とは、顔合わせた時から不思議と仲良かったよ。あと最近はマチュアにも少しずつ懐き始めてるような気がする」


 彼女には色々と助けて貰った事もあり、こかげなりに恩を感じて相性関係無くそうしているのかもしれない。

 ただ、マチュアとこかげのその関係も今日で終わる。ことあるごとにそういったネガティブな思考に辿りつき、カイムはまた暗鬱な気分になった。


「ウェンディが雄だから無関心なんでしょうかねえ」

 

 テッドが冷静に分析しようとする。


「こかげさんにとってカイムさん以外の雄は関心の対象外。友好を築けるのは雌のみ、ただしライバルになりうる存在は除く、という徹底したスタンスなのかもしれません」


「はあ……、そうですか」


 こかげの愛が重すぎる。猫と結婚出来るわけでもなし。彼にとってあまり耳にしたくなかったそんな推論を聞かされ、カイムはさらにげんなりした。だがそれも今日で以下略。



 家に入ると若い家政婦に案内され、三人は客室に通された。

 リルは所用で出かけているらしい。一昨日、彼女は誇らしげに祖父の自慢をしていた。カイムもテッドもフェイランもこの街に来てそれほど長くないので知らなかったが、リルいわくクラウズは街でも有名な実力ある呪術師らしい。

 

「お前さん方はここで待っておれ。施術は門外不出ゆえ、おいそれと見学させるわけにはいかんのだ。すまんが猫はここで預からせて貰うぞ」


 挨拶の後、クラウズは早速そう切り出した。

 雰囲気で完全に察したのだろう。もはやこかげは全身でカイムの体に張り付き、革鎧に爪を立ててテコでも動かない構えだ。自分の体に死に物狂いでしがみつくこかげの頭から背中にかけて優しく撫でながらカイムは言った。


「心配するなこかげ。姿が変わろうが例え記憶が失われようが、お前が独り立ち出来るまでは俺が必ず傍に居てやるから」 

  

 それを見ていたテッドとフェイランは、思わず喉を詰まらせ瞳を潤ませる。


「気が済んだか? では行くぞ」


 クラウズはその腕輪にはめた魔宝石に触れ、しばらく念じた後その手でこかげの頭に静かに触れた。途端、彼女の体は力を失う。眠りの魔法を行使したのだ。眠ったこかげをカイムから引き剥がすのにそれでも苦労を強いられた。


「ちと厄介そうな呪いなので、しばらく時間はかかるが心配はいらん。終わったら呼びにくるでな」


 ぐったりしたこかげを抱いて客室の扉へ向かう。それを追いかけながらカイムが不安そうに声をかけた。


「あ、あの、呪いを解く際、痛いとか苦しいとかそういうのありませんよね?」


「安心せい。それはない」


 簡潔にそれだけ言って彼は部屋を出て行った。その寸前までこかげの傍を離れようとしなかったカイムは、閉じた扉の前でそれを見つめたまま佇んでいる。


 彼がいつまでたってもそこから動こうとしないので、ソファに座っていたテッドは立ち上がり彼に歩み寄ろうとした。

 

「……カイムさん。大丈夫ですか?」


「すみません、ちょっと顔見られたくないんで、近づかないで貰えますか。すみません……」


 背を向けたまま、彼はすみませんを二回繰り返した。無言ですごすご引き下がったテッドに代わり、今度はフェイランが立ち上がった。

 つかつかとカイムの背後に歩を進めると、いきなりその体を振り向かせ、強引にその頭を胸に抱く。


「……え?」


 背丈の高低差から中腰の体勢で、しかも両腕をだらんと下げた間抜けな格好で頭を抱かれ、カイムは硬直した。その髪をそっと撫でながらフェイランは言った。


「ほら、もう泣かないの。お姉さんたちに任せておきなさい」


「……何を?」


 目を瞬かせるカイム。テッドは装いだけは和やかに二人を見つめている。


 ……フェイランさん、それは母性の押し売りというものですよ。

 あとそれマチュアさんの完全模倣ですよね……? せめて台詞ぐらいはアレンジする努力を……。


 といった無粋なダメだしは決して口にせず、家政婦が出してくれていた紅茶をすする。


 それから一時間程が経った。

 三人は眠気に襲われウトウトしている。テッドはソファに座ったまま。

 カイムとフェイランはそのまま扉の前にしゃがみ込み、フェイランはまだ彼の頭を胸に抱えていた。その頭の角がたまにカイムの頭にチクチクと刺さり始め、彼は眠りから覚めた。革の胸当て越しに顔に伝わる彼女の胸の感触と、頭への定期的な角の痛み。カイムは天国と地獄を同時に味わい、どうしたものか考えあぐねていた。


 ノックも無しに突然扉が開かれた。


「……お戯れのところ悪いが、終わったぞ……」

 

 カイムは慌てて顔を上げ、背後を振り向こうとした。その頭に思い切りフェイランの角が刺さる。激痛に短い悲鳴を上げ頭を抱えうずくまる。目を覚ましたフェイランからなんとか体を離し振り返ると、そこには力を使い果たし憔悴しきった顔のクラウズが立っていた。


「どうにか人の姿を取り戻すことに成功した。今から彼女の元へ案内しよう」

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