第13話 ヘルハウンド

 カイム、マチュア、テッドの三人はバリケードに囲まれた広場を飛び出した。まずはテッドの先導で物見櫓へ。そこで監視要員からヘルハウンドの出現場所を確認する。夕刻だが、まだ辺りは明るい。三人は走り続けた。


 開けた場所にそれは居た。


 正面奥は緩やかな土手。右手は建築資材置き場の小さな丸太小屋。左手は木柵に区切られた背の高い草むら。


 青白く薄い炎に全身を包まれた真っ黒で巨大な犬だ。ドーベルマン種をそのまま馬程度の大きさにした姿。


 小屋の傍らには尻餅をついて、その化け物から後退りする人の姿。恐怖で声も出ないのかカイムたちに気づいても口を開閉させるだけだ。

 ヘルハウンドは舌なめずりをしながらゆっくりその男に近づいている。男同様、三人の存在に気づいたはずだが見向きもしない。


「マチュア、頼む!」


「任せて!」


 なんとかしてヘルハウンドの注意をこちらに引きつける必要があった。


 カイムの要請を受け、マチュアは黒い手袋をはめた右手で宙に印を描く。その印の中心から眩い光が生まれ、煌く尾を引いてヘルハウンドへ。光の球は魔獣の体に当たると弾け散った。

 単体攻撃魔法マジックミサイルだ。

 青白い炎の障壁に阻まれダメージが半減されていてもその効果は絶大だった。巨大な黒犬はマチュアたち三人を無視出来ない存在として認知した。足を止め、こちらを振り返る。しかしまだその場から動く気配はない。

 

「あと一息です! 私が奴を引きつけます! お二人はあの方の救出を!」


 テッドはそう叫ぶと槍の石突を地面に突き立てた。穂先の首に巻かれた紐を口にくわえ石突を足で踏む。こうして両手を使わず槍先を敵に向け、弓に矢をつがえた。敵の接近を阻みつつ弓を射る戦闘スタイルだ。

 ヘルハウンドに向け慎重に狙いを定め矢を放つ。だが、矢は黒い魔獣の横を掠めて飛び去った。


 カイムとマチュアはそれを見なかったことにして、ゆっくりヘルハウンドに歩み寄った。


「マチュアは俺の背後に。合図したら飛び出してあの人の元へ」


「了解」


 カイムは手製の石斧に木製の盾を被せ奇妙な形状と化した武器を携えていた。盾の紐製の持ち手と腕止めに石斧の柄を通し、それをさらに紐で固定した代物。手にした柄の先に盾がついている状態だ。

 腰には予備用に借りてきた薪割用の手斧と元々持っていた短剣。マチュアも手ぶらでは不安があったので、短めの三叉鍬みつまたくわを借りてきていた。


 弾かれはしたものの、テッドの放った二射目の矢はヘルハウンドに命中した。回り込もうとするカイムたちの動きに合わせて体の向きを変えた為、テッドに側面をさらす形になったおかげだ。


 カイムは腰の短剣を抜き放ち一回転させて刃を掴むと、そこへさらに畳みかけるようオーバースローで投げつけた。その一撃もまたたいしたダメージにはならなかった。が、怒りを買う引き金にはなった。ヘルハウンドは咆哮を上げ、まんまとカイムに躍りかかる。


「マチュア、今だ!」


 牛馬にも匹敵する巨体が迫りくる迫力。その恐怖にもめげずカイムはとっさに叫んだ。


 カイムの背後から飛び出したマチュアは、脇目もふらず一目散に走った。カイムがどうなったか確認する余裕すら無い。

 倒れている男の元に辿りつき、その傍らに膝をつく。


「大丈夫ですか? 立てますか?」


「だ、駄目だ……。腰が抜けちまって……」


 男は両手で後ずさるだけで精一杯の様子だ。


「両手で頭を庇って下さい」


「え?」


 マチュアの唐突な指示に男は戸惑いながらも素直に従った。

 傍らで膝をついたまま宙に印を描くマチュア。そのシンボルを描いた右手で触れ、そのまま男の体に掌を押し当てる。そしてその服の襟を掴み、引き摺るように背後へ放り投げた。


「ちょっ! 何を! ええー!?」


 男は叫び声を上げながら丸太小屋の向こう、藪の中へ吹っ飛んでいった。ウェイト・エリミネートの魔法をかけたのだ。


「悪く思わないで。安全な所まで連れて行ってる余裕はないの」

 


 一方、囮になったカイムは不甲斐なくもあっさりヘルハウンドの下敷きになっていた。とっさに構えた盾付きの石斧は飛びつかれた衝撃で手元から離れてしまっている。背中から地面に叩きつけられ、一瞬意識が遠のいた。

 魔獣は前足でカイムの両腕を押さえつけ、その巨体でのしかかる。彼はなんとかその下から逃れようと必死にもがくが、その圧倒的重量差の前に為す術もない。腕が動かせないので、せっかく用意した手斧も使いようがなかった。


 その喉元に牙を立てようとする凶悪な黒犬を僅差で止めたのはテッドだった。彼はカイムがヘルハウンドに押し倒されるや否や弓を投げ捨て駆けつけた。手にした槍で魔獣の頭を何度も殴打する。気が動転していて穂先で突くという行為すら忘れていた。それに気づいた彼は一旦槍を引き、その横っ面目掛けて鋭い突きを放った。


 しかし、それは裏目に出た。

 ヘルハウンドはその突きを待ち構えていたかの如く、穂先をかわして柄に噛みついた。がっちりくわえたまま頭を何度も振る。その力にやすやすと振り回されるテッド。懸命に槍の柄にしがみつくもその力の差は如何ともし難かった。ついに彼は柄から手を滑らせ、大きくたたらを踏んで尻餅をついた。

 

「カイムさん!」


 テッドは蒼白な顔で叫んだ。腰のなたを抜こうにも手が震えて上手くいかない。

 大きく首を振ってくわえていた槍を彼方に放り投げたヘルハウンドは、邪魔者がいなくなった所で改めて体の下の獲物を見下ろした。


 ところが、その獲物の胸の上に何かが飛び乗ってきた。ヘルハウンドは一瞬だけ戸惑った。

 

「ウワアァァァァオォォォォ!!」


 それは物凄い声で威嚇の声をあげるちっぽけな猫だった。カイムの胸の上で思いきり毛を逆立て、尻尾を垂直に立て、体をこれ以上ない程弓なりに丸めた姿勢。余りに四肢を突っ張りすぎてよろけそうになっている。


「馬鹿! こかげ……おとなしく待ってろって言ったろ……」


 もはやぐったりしたカイムが息も絶え絶え毒づく。


 死に物狂いで主人を守ろうとするこかげだったが、その何十倍もの巨体を誇るヘルハウンドにとっては餌の上にハエが止まった程度の認識でしかなかった。一息に丸呑みにしようとその巨大な口を開く。


 次の瞬間、横から矢のようにすっ飛んできた物体があった。ヘルハウンドの後ろ足に猛然と喰らいつく。番犬のレオであった。


 ヘルハウンドは突然の横槍に仰天し、体を捻ってその犬に牙を突き立てようとした。レオはその後ろ足に噛みついたまま巧みに動いてその牙から逃れ続ける。

 二匹の猛獣の唸り声が響き渡る。ヘルハウンドは自分の下半身を追いかけるようにその場でぐるぐると円を描き始めた。


 何度か足を踏みつけられながらも、カイムはその隙にヘルハウンドの身体の下から這いずりどうにか脱出する事が出来た。右手にはもちろん、こかげを抱いたまま。


 円運動を続けるヘルハウンド。体格差の前にレオはやがてずるずると引き摺られ始めた。必死にその後ろ足に喰らいついていた勇猛な番犬であったが、ついに力尽き遠心力によって投げ出されてしまう。

 悲痛な鳴き声と共に地面に叩きつけられ横たわる。その忌々しい犬に引導を渡そうと巨大な魔獣の両目がぎらついた。


 そこへ今度は別方向から衝撃が襲いかかった。マチュアの二発目のマジックミサイルだった。


 ヒットするごとに半減する程の耐性が生じるマジックミサイル。

 ヘルハウンドのような魔法障壁に守られている相手には、初撃の効果が薄い分耐性も弱くなるので、二発目以降のダメージが若干減衰されにくいという微々たる利点があった。


「今度はあたしが相手よ、ワンちゃん! かかってきなさい!」


 マチュアは左手に持った三叉鍬を地面に立て、仁王立ちしている。


「よせ! マチュア! 無茶するな!」


 カイムは腕を押さえ足を引きずり、よろよろと武器を回収しながら制止の声を上げた。テッドを振り返る。


「奴に仕掛けます、援護お願いします!」

 

「わ、わかりました」


 テッドは言われて弓を拾いに駆け出した。マチュアはカイムの言葉に聞く耳持たず、じりじり横に移動しながら時折上空に視線を走らせている。


 ヘルハウンドは標的を完全にマチュアに切り替えた。少しずつ彼女ににじり寄っていく。

 小柄なドワーフの少女にとって、カイムの後ろに隠れて対峙した時とはその恐怖感に圧倒的な差があった。これだけの大きさの怪物と一対一で相対したことなど当然一度も無い。


「カマーン……カマーン……カマーン……」


 妙な挑発の言葉を繰り返す。額に大量の汗が滲む。動悸が激しくなる。

 しかし、それは勝算あっての行動だった。右手はいつでも魔法の印を描けるよう構えている。ウェイト・エリミネートの魔法を発動させた右手でヘルハウンドに触れる事さえ出来ればいいのだ。対象の大きさはぎりぎり許容範囲内のはずだった。

 そして、そのきっかけを作ってくれる物はもうすぐ落ちてくる。

 あと少し、あと少し魔獣が近づいてくれれば……。


 ヘルハウンドは遂に痺れを切らしたのか、身の毛もよだつ咆哮と共にマチュアに襲いかかった。


 同時にその物体が黒い影を落として落下した。


 ヘルハウンドの真上に……ではなく、全く見当違いの場所に。

 マジックミサイルを撃つ直前にマチュアがウェイト・エリミネートをかけて空高く放り投げておいた土嚢どのう。丸太小屋の傍らに積まれてあったものだ。

 それはヘルハウンドからもマチュアからも離れた場所に落下し、盛大に破裂して多量の土煙を巻き上げた。怪物を誘導してその落下地点に誘き寄せるつもりだったのだが、彼女の目論見は完全に失敗に終わった。


「世の中、上手くいかないっ!」


 マチュアは観念してウェイト・エリミネートの魔法を発動させた。こうなれば自身を犠牲にしてでもヘルハウンドに触れてみせるしかない。重さが無くなれば相手はほぼ無力化する。自分がどうにかなろうが後はカイムとテッドが有効活用してくれるだろう。ディレイ(魔法を完成させた後、敢えてその発動を遅延させる行為。猶予時間一~二秒)を効かせて待ち受ける。


 土煙の中、ヘルハウンドの突進は止まらない。だが、マチュアは足がすくんで動けない。思わず目も閉じてしまった。


 飛来したテッドの矢が巨大な黒犬の動きを止めた。


 間髪入れず、マチュアと魔獣の間にカイムが滑るように割って入った。

 土煙を切り裂き駆け寄りつつ、両手に構えた盾付の石斧をヘルハウンドの顔面目がけて水平に大きく薙ぎ払う。魔獣は大きく裂けた口でそれを易々と受け止めてみせた。巨大なその顎門あぎとで、そのままがっちりくわえて離さない。


 カイムはその瞬間を狙っていた。


 ベルトに括りつけた皮袋の中に右手を突っ込む。その中はクロードから分けて貰った虫除けの原液で満たされており、その液体の中にはセイゲツの発動体である魔宝石が浸されていた。

 それを握り締め、カイムはセイゲツの発動準備を行う。


 そのわずかな隙も許さず、ヘルハウンドは木盾をばりばりと噛み砕いた。さすがに石斧の柄の部分までは噛み砕けなかったようで、それをくわえたまま激しく頭を振る。牙が柄に激しく食い込む。

 左腕に盾を装備して同じ事をしていたら大変な事になっていただろう。

 カイムはそう思いながらあっさり柄から手を離した。ヘルハウンドは首を振って残った石斧を放り投げ、即座にカイムを牙の餌食にしようと再び口を開く。

 噛み砕いた盾の破片が口内に纏わりついた。その不快な感覚にヘルハウンドの対応が一瞬遅れる。盾の裏側には大量の松脂まつやにが塗ってあったのだ。それは紙片を複数枚軽く貼ることによって埃や乾燥から保護されていた。


「これが最後の嫌がらせだ!」


 ヘルハウンドの鼻っ面を液体塗れのカイムの右手が握り締めた。

 その鼻先が光り輝く。同時にカイムは巨大な黒犬の体当たりを食らって後方に吹き飛んだ。


 鼻先に強烈な匂いの液体。鼻を光源とした眩しい光。


 ブシュッ……ブシュッ……。


 ヘルハウンドはたまらず大きなクシャミを繰り返した。さらに口の中に纏わりつく木盾の破片。視覚も嗅覚も奪われ半ばパニック状態になる。テッドやマチュア、それに番犬のレオらから受けた無数の痛手もここにきて大きく響いてきていた。さすがに無傷ではなかったのだ。

 それでもまだ、かろうじて闘争本能は健在だった。自分をこんな目に合わせた憎き対象の一人は恐らく歩を進めた先にいる。

 ヘルハウンドは目も鼻も封じられた状態であるにも関わらず、倒れたカイムにゆっくりと近づいて行く。意識こそ失っていないものの彼もずたぼろですぐには立ち上がれない状態だ。こかげが再び主を救おうと懸命に駆け寄る。

 

「心よ、折れなさい!」


 そこへマチュアの三度目のマジックミサイルが見舞われた。彼女の言葉通り、その一撃は遂にヘルハウンドの闘争心をへし折った。

 股の間に尻尾を挟み、情けない鳴き声を上げながら魔法の飛んできた方向と逆に走り出す。


「これで……貸し借り……無しだからね……」


 マチュアは全ての精神力を使い果たし、その場にくずおれ気を失った。ヘルハウンドの走って行く方向が住民たちの避難所であることにも気づかず……。


「……まずいですね」


 その逃走先に居たのはテッドただ一人。弓ではすでに対処出来る暇は無い。

 不思議と冷静になっていた。

 彼は今度こそ素早く腰のなたを抜き放つと、転がり様ヘルハウンドの突進をかわし、思い切りその身体を切りつけた。

 その一撃で巨大な黒犬はかろうじて垂直に方向転換した。そのまま木柵に激突し、それを突き破って山の方へ逃げて行く。


 テッドはそれでも追撃の手を緩めなかった。とっさに膝立ちで弓を構え、気力を振り絞ってその後ろ姿に矢を射かける。矢は大きく外れ木柵に突き立った。

 それを見届けた後、彼は呆けた顔でその場に座り込んだ。


 こうして夕暮れの死闘は終わりを告げた。

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