第10話 教会への使い
「にゃあ~」
甘えるような鳴き声と、頬に擦り寄るふさふさな毛の感触。
それでカイムは目を覚ました。こかげが彼の顔に体を擦りつけている。昨晩、風呂に入ったおかげでこかげもカイムも身奇麗になった。
カイムはベッドから上体を起こし、枕元のこかげの背中に手を置いた。窓から差し込む日の光が強く眩しい。すでに昼近いようだ。
「随分寝たな……。悪いな、こかげ。腹減ったろ?」
その言葉に対し、こかげは彼の膝元にピョンと飛び乗り喉を鳴らして丸くなる。まるで「平気だよ」とアピールしているかのようだ。
カイムは幼い頃、家に猫を飼っていた事があった。だからこそわかるのだ。こかげの異常性が。昨晩の風呂もそうだった。例外こそあれ、本来猫は水に入るのを極端に嫌がる。しかし、こかげにはそんな素振りすら全く無かった。
賢い上にあまりに聞き訳が良すぎる。何より気遣いも出来る。正直、溺愛しているカイムですら時折、空恐ろしくなる程だ。
ボーン・ゴーレムに襲われた際、助けてくれた謎の女性。あれ以来会っていない彼女が、こかげの本当の姿なのではないか。
フェイランが言っていた言葉を思い出す。
「まさかな……」
その考えを振り払い、カイムはベッドから起き上がった。
手早く身支度を整え、こかげ用の砂トイレを確認する。割り増し料金の内訳の一つだ。他に爪とぎや食器等の備品も含む猫用の貸し出しセットである。
小さなショベルで砂の中から排泄物を坪に移し変える。その作業中、こかげは離れた場所でカイムに背を向け、なんだかしょんぼりしている。その後姿を目にしてカイムは吹き出した。
「お前、もしかして申し訳なく思ってんのか? これは飼い主の義務なんだから、もっと堂々としてていいんだぞ」
普通の猫はいざ知らず、こかげなら十分あり得る。
坪を抱えて部屋を出ると、水洗式のトイレで自分の用足しと共に坪を洗浄する。一連の作業を終え、顔を洗うとカイムはこかげと共に一階の酒場へ降りた。
昨晩とは打って変わり、酒場はそこそこの客で賑わっていた。
酒場なのに昼時の方が繁盛してるってどうなんだ?
などと思いながら、こかげと共に空いているテーブルに着く。
「昼まで寝てるなんて、だらしないわねえ。いつもこうなの?」
その聞き覚えのある生意気そうな声に、カイムは振り返った。
「誰かさんのおかげで、余計な疲労まで上積みされたんでね」
そしてそのまま凝固する。
テーブルの傍らに立つマチュアは珍妙な格好でトレーを抱えていた。
可愛い兎の刺繍が入ったエプロンを身につけ、頭には大きな兎耳のついたカチューシャ。顔には左右にヒゲの生えた兎の付け鼻。
「言っとくけど、好きでこんな格好してるんじゃないんだからね!」
「ああ、もちろんわかってるさ」
言いつつカイムは必死に笑いを堪えていた。
そういえば以前、アンジェはこの店に相応しい看板娘が欲しいとぼやいていた。
まさか、あらかじめこんなものまで用意しているとは……。
心の中でそう呟く。
「似合ってるぞ、その格好。なんならずっとそのままでいたらどうだ?」
カイムは懸命に笑いを押し殺しながら憎まれ口を叩いた。その足元ではこかげが、まるで興味がなさそうに毛づくろいをしている。
「悪いけど、あたし、あんたと世間話しに来たんじゃないの」
マチュアはあからさまに不機嫌な表情だ。さっさと注文しろということらしい。そんな態度ですらとんでもなく可愛らしい。
カイムが自分と猫の食事を注文すると、マチュアはパタパタとカウンター奥の厨房へ走って行った。そのお尻のスカートに丸くて白い兎の尻尾までついているのを目にし、カイムはついに笑い出してしまった。
笑いながらふと気づく。彼女は今日からここで働き始めたはずなのに、注文した料理の内容を一度で記憶して伝えにいった。ソーサラーなのだから当然ではあろうが記憶力はかなり良いようだ。
「あの子、すごいのよ」
背後からいきなり声をかけられ、椅子から飛び上がりそうになった。アンジェが暇そうに突っ立っている。
「掃除、洗濯、料理に注文取りまで、いきなりあそこまでそつなくこなす子、見たことないわ。おかげで私もこの通り、手持ち無沙汰よ」
無論、マチュアやゼストの他にも従業員が居るからこそである。さらにもう一人、若い娘が客の着くテーブルの間をくるくると走り回っている。
アンジェは厨房から出てきたマチュアを目で追いながら言った。
「あの子、ここに来る前は間違いなくあの手の仕事が本職だったわね。それにあの格好すごく可愛いでしょ。私の目に狂いはなかったわ」
「にしてもあの格好は少し可哀相な気もしますけどね」
散々馬鹿にしておいて、カイムは悪びれもなくいけしゃあしゃあと言った。
「本当に嫌なら別に断っても良かったのよ。実際、他の子たちには全員断られたし」
そりゃそうだ……。アンジェの言葉に口には出さずカイムは思った。
同時にマチュアに対する考え方も大きく変わった。最初はどこぞのお嬢様が、
好奇心から冒険者になりたいなどと言っているのかと思ったが、どうやらそうではなかったらしい。彼女は真剣にそう思っていそうだ。
「そもそも皆が嫌がってるなら、アンジェさん自身があの格好して看板娘になればいいじゃないですか。あなただって美人なんですし」
カイムに言われ、アンジェはまじまじと彼の顔を見つめた。
「……その発想はなかったわ」
怒るでもなく褒められて照れるでもなく、的外れな反応を示す。
カイムはふとアンジェがあの格好をしている姿を想像し、彼女の年齢を思い出して苦虫を噛み潰したような顔になった。
「あ、すみません。やっぱり今言ったこと忘れて下さい」
「あなた今、失礼な事考えてたでしょ」
ギロリとカイムを睨みつけた後、軽く溜息を吐いて話題を変えた。
「それにしても、あの子ずっとここで働いてくれないかしら……。冒険者なんてろくでもない仕事だし、ここなら命の危険もなくてすむのに」
「冒険者あっての商売してるあなたがそれ言いますか……」
「やあねえ、軽い冗談よ。それじゃ私はいい加減仕事に戻るわね」
むっとするカイムに向かって、アンジェはウィンク一つ残して立ち去ろうとする。そこで彼女は突然、振り返った。
「あ、いけない。肝心な事忘れてたわ。あなた今、暇でしょ? 手間賃出すから、ちょっとお使い頼まれてくれない?」
カイムは昼食を終えると、こかげと共に酒場を出た。アンジェに使いを頼まれたファルネア神の教会を訪れる。小兎亭同様、町外れにあるその小さな教会は孤児院も兼ねていた。
よりによって……。
カイムは憂鬱な気分だった。恐らくフェイランが身を寄せているという教会はここだろう。まだ戻ってきてはいないだろうが、万が一にも顔を会わせてしまったらなんとなく気まずい。勿論、彼女の事を嫌っているわけではない。むしろその逆だ。好意的に思うからこそ会いづらいのだ。それに彼女の事を考えると、あの夜の馬鹿な自分を思い出し、情けなくなるのも嫌だった。
「こういうとこが彼女出来ない理由なんだろうな……」
つい独り言つ。
フェイランに出会わないかびくびくしながら門を叩き、出迎えてくれた壮年のシスターに、アンジェから預かった手紙を渡す。
ところが、その受け取りはやんわりと拒否された。手紙の宛先はこの教会の責任者である司祭だ。その司祭は現在、出かけており、しばらく帰ってこれそうもないからと、わざわざ行き先の地図まで書いて渡してくれた。緊急の手紙でもないのに、そこまで届けて欲しいと頼まれる。カイムとしては預かって欲しかったのだが、そのシスターの頼み方が非常に丁寧な上、まるですがるような物言いだったので断るに断れなかった。
地図に示された場所は、郊外の田園地区だった。その足でついでに立ち寄れる程、近い場所ではなかったので、カイムは一旦、小兎亭に戻った。次の仕事も早く決めなければならない。
「カイム! どこ行ってたのよ、仕事よ! 仕事!」
酒場に入った途端、例のウサギ姿のマチュアがすっ飛んできた。目をキラキラ輝かせている。奥のカウンターではアンジェと一人の男が何か真剣に話し込んでいる。質素な身なりのその若い男とアンジェが同時にこちらを振り返った。
「依頼よ、カイム。魔獣が出たから撃退して欲しいって」
アンジェはそう言った。
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