第2話 木上生活
昼過ぎになっても野犬たちはその場から立ち去る気配がなかった。
カイムは干し肉を咥え、猫にも小さく切って手ずから与えている。猫はそれをすんなり口にし、固い干し肉に悪戦苦闘しながらも一生懸命咀嚼していた。
「猫には塩気が強すぎるだろうけど、今はそれで我慢してくれ」
すでに猫はカイムの掌から水を飲めるまでに懐いていた。掌にこそばゆい猫の舌を感じながら下を見下ろす。三匹の野犬は今はのうのうと木陰に寝そべっている。
いっその事、手持ちの保存食を全て投下してみようか。食料に気を取られているうちに下に降りて逃げれば……。
猫を抱いたまま思案する。
いや、上手くいかなかったときの事を考えると恐ろしい。猫を抱えて逃げるとなれば走る速度も落ちるだろう。それに他の獣を呼び寄せてしまう危険もある。やはりここは辛抱強く待ち続けるべきか。幸い飲み水は二つ目の水袋にまだなみなみと残っている。
そう腹を括ったカイムは、猫に少し運動させる事を思いついた。外傷は消え、外目には問題なさそうな左後ろ足も気になる。
自分の腕の中で毛づくろいに夢中な猫をそっと両手で抱えると、落ちないようバランスを取りながら慎重に枝の中ほどまで運んだ。枝の先端に向けて座らせ、後ずさって猫と枝の根元を結んでいた細紐を解く。そうして今度は猫のいる辺りの枝に結び直す。
腹ばいでそうしている間、猫は枝先を向いて前足を立ておとなしく座ったまま。カイムの顔の正面にはそのお尻。ゆらゆらと長い尻尾を動かしている。意図的ではなかろうが、尻尾が時折彼の顔を優しく撫でていく。
くすぐったさに耐えながらやっと結び終えた。これで猫は枝の上を、根元から枝分かれした部分まで自由に行き来できるようになった。太い根元に巻いていた分、紐にも若干余裕が出来てより長くなっている。例え足を滑らせ落ちても、野犬たちがジャンプしようが届かない絶妙な長さ。
その出来栄えに満足しつつ見守っていると、猫はカイムの意を汲み取ったかの如くゆっくり枝先へと歩き出した。二手に枝分かれした辺りまで歩を進め、そこでくるりと向き直る。そうして再びカイムのいる根元まで歩み寄ってきた。左後ろ足にもはや問題はなさそうだった。変に後遺症が残っていたらと心配していた彼はそれを見て安堵した。
「良かった……」
猫はそんなカイムに自分の歩く姿を見て欲しいのか、何度も往復を繰り返してみせた。枝の上を歩く姿も危なげない。むしろ優雅にさえ思える。
だが、カイムの狙いは実はもう一つあった。猫が離れている間に用を足したかったのである。こっそりそうしている間、不思議と猫は最も遠く離れた場所に居てそこから動かなかった。まるで気を使ってくれているようで彼は可笑しくなった。
やがて日が落ち、辺りは真っ暗になった。
野犬たちはまだ下に居るようだ。猫が離れて自由にしている間、カイムは腹ばいになって両手両足をだらんとぶら下げる。色々と体勢を変えないとさすがにしんどい。自身の寝相が悪くないのは救いだった。
猫と共に木上での二度目の食事を終え、幹に深くもたれかかって仰向けになる。頭上の幹に灯した魔法光の中、カイムは猫を胸にしっかり抱いて眠りについた。しばらくウトウトしていると猫がもぞもぞし始める。彼の腕の中から逃れようともがいていた。何事かと思い両手を離す。
猫は彼の胸の上でくるりと向きを変え、光の届かない枝先へ歩いていった。突然嫌われたのかと思っていたら、しばらくして戻ってくる。
ああ、なるほど……。
得心するカイムの腹の上に再びよじ登り、満足そうにうずくまる。そのまま眠りにつくかと思いきや、今度は何やら妙な動きをし始めた。カイムの顔をじっと見つめながら両前足をピンと突っ張り、彼の胸を交互にフミフミしている。ゴロゴロと喉を鳴らす音は周りに響き渡る程だ。なめし革の鎧の上から猫の肉球を感じながら、彼はその背を撫で続けた。街まで連れて行って適当に飼い主を探すという考えはすでに消し飛んでいた。
金を貯めて、いつの日かこの猫とどこか遠くで静かに暮らそう。
そう考えながら彼は再び目を閉じた。
カイムが冒険者になってからまだ日は浅い。そしてそれは彼自身の選択ではなかった。
元々彼は王都の郊外で質素に暮らす木こり一家の次男坊だった。そして伝説の勇者の血を引く一族でもある。
勇者はかつて魔王と呼ばれる存在を討ち倒したとされている。しかし、あまりに遠い昔の話でもはや信憑性も薄く、その末裔といえど特別視されているわけではなかった。
そんな曖昧な『勇者の末裔』という肩書きを唯一裏付けていたのは、一族の長老が所有するセイゲツの魔宝石のみだった。この特殊な魔法及び魔宝石は同類のものが一般には出回っておらず、さらに他の魔宝石と異なり
ある日、そのセイゲツを所持する長老が一族の若者全員を招集した。セイゲツを譲り渡す選定を行う為だった。一族であれば誰もがセイゲツを扱えるわけではない。理由は定かで無いが資質や隔世遺伝も影響していると思われる。
そして、ある特殊な選定方により、多くの若者たちの中からカイム含め数人が選ばれる。その中には彼の兄も含まれていた。そしてさらにその中から選ばれたのがカイムだった。人格的な問題や体力面に優れるという理由も無論あったが、もっとも大きな理由は今現在の立場を失っても惜しくない者であること。
長老及び一族の有力者たちは現在の自分たちの凋落した境遇を憂いていた。このまま何もせず代を重ねていけば、いずれ勇者の末裔という矜持は一族の中で自然消滅してしまうだろう。ならば駄目もとでもいい、何らかの手段を講じて勇者の家系を再び繁栄させるべきであると。しかし衰えたとはいえ、今の王都での安定した生活を手放してまで一族を返り咲かせようと意気込む気概のある者はいなかった。そこで有望かつしがらみのない若者にセイゲツを譲渡し、国王の勅命を拝して魔王討伐に向かわせる。そう目論んだのだ。
ところがこの魔王というのも実はあやふな存在だった。ゴーレムの軍団を率い、この国に領地争いを仕掛ける北の大国ザーグ、その国の王の事を国内で憎しみを込め魔王と呼称しているに過ぎない。実際そのやり方は苛烈で容赦なく、さらにザーグそのものが謎めいた国家な為、大衆の一部の間では古の魔王の再来だと信じられてもいた。
いずれにせよ魔王討伐など個人の力で達成出来るとは到底思えなかった。実現不可能な絵空事に等しい。ゆえに裏事情を知る者の中には、自分の子にあらかじめ口裏を合わせて選定に落ちるよう仕向ける者までいた。
こうした状況下の中選ばれた者たちはカイム以外皆、今の生活を投げ打って旅立てるような境遇では無かった。カイムの兄も長男ということで家を継ぐ立場にあり、また将来を約束しあった恋人もいた。カイムだけが唯一それらのしがらみと一切無縁だったのである。さらにいえば彼は今の生活に退屈気味であり、自由気ままな旅に憧れてもいた。
そういったわけで消去法ながら白羽の矢が立ったカイムは、長老たち一族の有力者と共に王城へ赴き王に謁見する事になった。当然ながら王もまるで期待しておらず、『討伐成就の暁には一族栄達』の約束と共にカイムに勅命を下した。至極どうでもよさげで投げやりな態度の国王と、卑屈な態度でそれに接する長老たちの姿は、今もなおカイムの脳裏に焼きついて離れない。
カイムは賜わり物としてみすぼらしい小剣を一振りと王の証文を渡された。その他の装備や、わずかであるが旅の支度金は長老たちが用意してくれた。
冒険者ギルドに登録し、そこで仲間を募った後、早急に王都を出立するよう言い渡される。が、予想通り誰一人として彼の下に集う事はなかった。証文のおかげでギルドへの登録がスムーズに行われた事のみが救いだった。
こうして彼は木こりとしての生活を捨て、冒険者として王都から旅立った。
カイムは別に誰も恨んではいなかった。最終的に決断したのは自分自身である。むしろ気ままな立場になったことに感謝すらしていた。
ただし魔王討伐を愚直に目指すつもりはさらさらなかった。一族の未来を双肩に背負っているという覚悟も乏しかった。基本善良ではあるが、心の奥底にしたたかな一面を併せ持つ彼の本質を見抜けず、性格面でも問題なしと判断したのは、長老たちの大いなる過ちといえる。
今現在彼が冒険者をしているのは、純粋に生活維持と将来安泰に暮らすための資金を得るためであった。
翌朝、枝の上で目覚めてカイムは愕然とした。猫の姿が消えていたのだ。その体にくくりつけていた細紐はぷつりと千切れ、地面にぶら下がっていた。下に落ちたのかと思い慌てて確認してみるが見当たらない。それどころか野犬たちの姿も消えていた。
「まさか落ちて野犬の餌食に……」
痕跡を確認しようと暗鬱な気持ちのまま地面に降りる。そこで彼は木の根元に自分の木盾と小剣が重ねて置いてあるのを発見した。確か両方とも野犬に投げつけたはずである。その二つの間に小さな紙片が挟まっているのに気がつく。そこにはこう書かれていた。
『助けてくれて感謝する。猫は無事だ』
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