第3話 ガウルの少女

 その日の夕暮れ時。


 カイムは細い山道をよろよろと走っていた。左手は草木のまばらに繁った断崖絶壁。右手は急斜面の雑木林。


 彼のずっと後方には巨大な土くれの怪物。狭い道に対し熊をも上回る巨体を左右六本足で傾かせ、彼とほぼ変わらないペースで追いかけている。その土で出来た体に頭部らしきものはなく、光る目玉が二つ、胴体の前面に張り付くのみ。


 死に物狂いで逃げる彼は肩で荒く息を吐いており、すでに体力の限界が近いようだった。重い荷や装備を投げ捨てれば少しは楽に逃げられるだろう。それをしないのはその結果どのみち野垂れ死ぬのがわかっているからだ。


 しかし、いよいよ彼が荷を捨てる覚悟を決めた時、


「あと少し頑張って下さい! そのまま一気に走り抜けて!」


 頭上から唐突に激励の声がかけられた。一拍おいてその直後、上から何かが雪崩れ落ちる大きな音が響き渡る。走る速度を落としつつ思わず見上げた彼の視界に映ったのは、断崖を転がり落ちてくる数本の巨大な丸太。それは背後に迫っていた怪物に轟音と共に降りそそぎ、土埃を上げて押し潰す。のみならず怪物の巨体を右手の雑木林まで押し流した。


 潰れた怪物は丸太と樹木の間に挟まれながらも、まだそこから脱出しようともがいていた。体の前面にただ据置かれているだけに見えた二つの目玉が、かたつむりのように短くせり出し、うねうねと動いてこちらを凝視している。


 ようやく足を止め、呼吸を整えながらそれを見下ろしていたカイムに、再び頭上から声がかかった。


「すみませんが、私の武器をお願いします! こっちにもいました!」


 間髪入れず崖の上から煌く何かが落下し、彼の傍らに突き刺さる。それは柄と刀身含め、緩やかなS字型の奇妙な形をした長い刀。柄と刃がほぼ同じ長さのそれが、長巻と呼ばれる東方発祥の刀剣類である事をカイムは知っていた。地面に刺さったそれを手に取りながら上を見上げる。


 崖の上ではすでに少女が身を乗り出し、ロープを伝ってこちらに降りようとしている。そのローブは崖の上で丸太を支えていた数本のうちの一本だった。高い崖に対し、その長さは半分にも満たない。

 

 少女の尻に細長い尻尾が生えていることにふと気づく。彼女の様子を見守っていたカイムは息を呑んだ。尻尾に驚いたのではない。ロープにぶら下がる彼女のすぐ頭上に二本の長い腕が現れたのだ。それが自分を追ってきた土くれの怪物と同じものだと確信したのは、その体が半分近く崖の上に現れたからだ。怪物は四本足で崖っぷちに体を支えたまま、残りの二本で少女を捕らえようとしている。


「危ない! すぐ真上に来てる!」


 少女は必死に怪物の手を避けながら、ロープを降りてくる。ロープの端まできた少女はそこで手を離し、そのまま崖を滑り落ちてきた。しかし、途中でバランスを崩してしまう。その瞬間、彼女は思い切りよく斜面を蹴ってジャンプした。それでもまだかなりの高さがある。少女は四つん這いで山道に着地すると、その勢いを殺す為、全身を捻って横っ飛びに雑木林へと突っ込んだ。


「わぶっ!」


 やや間抜けな声と共に林の大木に激突し、それに抱きつく形でずるずると下がっていく。


「大丈夫かっ!」


 慌てて雑木林を覗き込むと、少女はすでにこちらに向かって急斜面を這い上がってくるところだった。


「タテナシかけてあるので、これくらいなら平気です」


 タテナシとは最もメジャーな防御魔法である。一定時間対象者の物理及び魔法耐性を上昇させる効果がある。分かりやすく言うと、不可視かつ重さの無いフルプレートアーマーを身にまとっている状態だ。


 カイムは少女に手を差し伸べながら、上にいた怪物が気になり振り返ろうとした。


「上ですっ!」


 彼女の叫び声と共に辺りが暗くなった事に気づき、とっさに彼女の手を引いて思い切り後ろに倒れこんだ。巨大な影を落としつつ、少女の元居た場所に怪物が落下した。


 少女を追って崖を降りようとし、足を滑らせ転落した挙句、その巨体を崖の中腹にぶつけてバウンドしたのだ。そのワンクッションがなかったら、カイムは少女もろとも垂直落下した怪物に押し潰されていたに違いない。


 地響きと土煙を上げ雑木林に落ちたその怪物は、最初の一体同様大木に激しくぶつかり、さらにそれをなぎ倒した。土煙が晴れ、確認できたその姿は無様なものだった。全身土くれゆえに脆いのか、その足とも腕ともつかないほとんどが胴体からもげてしまっている。


 カイムに抱きとめられていた少女は慌てて身を起こし、彼から長巻を受け取って礼を言うと、怪物の様子を山道から見下ろしていた。


 葵染めの小袖にたっつけ袴。両手には布製の手甲。ショートカットにしたさらさらな亜麻色の髪。カイムよりわずかに年下に見える彼女は、一連の大胆な行動とは打って変わってお淑やかで可愛らしい面持ちをしている。


 一見、彼と同じ人間のように見えるが、人とは決定的な違いがあった。その頭から生える二本の角は闘牛のように左右に突き出し、緩やかに湾曲して前方に向いている。そしてそれ用に穴が開いた袴の臀部からは長く細い尻尾。その先端の毛は筆先のようで、頭髪と同じ色をしていた。少女はガウルと呼ばれる東方の牛人族であった。


 さすがに無傷とはいかなかったらしく、確認できる範囲の顔や腕には小さな裂傷や痣がいくつか見られる。着物や髪の毛も土埃に塗れていた。


「君は……」


 カイムも起き上がり、少女に何か尋ねようと口を開きかける。


「まだ諦めてないみたいですよ、あのクレイ・ゴーレム」


 少女の緊張をはらんだ声に、彼も並んで雑木林を見下ろした。


 六本足のうち左前足と右中足だけが残った状態で、怪物は斜面をこちらに登り始めていた。非常にゆっくりした動きになってしまっていたが、それが余計に恐ろしく見える。少女にクレイ・ゴーレムと呼ばれたその怪物のあまりの執念深さにカイムは顔をひきつらせた。


「……逃げよう」


 思わず口に出たその言葉は、即座に少女に否定された。


「それには同意しかねます。この下の川に渡し舟があるんです」


 例えギリギリ回避して下に降りたとしても、あの急斜面では足場が悪くいずれ追いつかれるだろう。かといって山道を横に走って遠ざかっても、他にいるであろう同種の怪物に遭遇する怖れもある。自分たちの存在が知られた以上、川を渡らなければここら一帯はすでに安全圏ではない。


「戦って倒すしかないってことか……」


 諦めて腹をくくる。


 少女は胸元から取り出したペンダントをぎゅっと握りしめ、しばらく何か念じた後、その右手をカイム向けた。同時に彼の全身が眩く光り、それはすぐに消える。


「あなたにも神の御加護を。タテナシの魔法をかけました」


「ありがとう」


 彼女に礼を言いながら背嚢を背中から降ろし、盾を残して足場の邪魔にならぬよう後ろに放り投げた。左手に盾を構える。


 三本指の巨大な土の足が山道下からぬっと突き出た。地面に指をつき、そこを足がかりに徐々に体を現していく。せり出した一対の目玉が動きを止めて二人を捉えた。間近で見るそれは淡く光る鉱石のようだ。明らかに生物のものではない。


 ゴーレムの体半分ほどが山道上に出現したところで、ガウルの少女が仕掛けた。


「はああっ!」


 長巻を斜め上段に振り上げ大きく踏み込み、その左前足に叩きつける。刃を当てると同時に思い切り手前に引く。唯一その巨体を支えている足は、しかし、わずかな裂傷を受けただけであった。


 カイムも即座に前に踏み出し、盾を持った左上腕を右手で支えた。少女の横に立ち、盾を彼女の反対方向に構え腰を深く落とす。同時に盾を伝わり予想以上に重い衝撃が襲った。


「ぐっ……」


 木製の平盾がみしみしと音を上げる。


 山道下に隠れていたゴーレムの右中足が少女を薙ぎ払おうとしたのだ。カイムの行動はそれを予測したものだった。彼が吹き飛ばされずに済んだのは、ゴーレムの足がその直後、体を支えるため地についたからである。このまま完全にゴーレムが山道に体を乗り上げれば、戦いはより苦しくなる。あのようなバランスの悪い体勢で見舞われた一撃でさえ、この重さだ。


「こっちの足は俺に任せてくれ! 君はそっちを頼む!」


 カイムは盾ごと右中足に激しく体当たりした。ゴーレムの足がずるりと滑り、バランスを取るため一瞬だけ足を離し、すぐ地を踏みしめる。体勢を整えさせないための些細な悪あがきだった。


「わかりました!」


 少女も再び長巻を振り上げ、大きく深呼吸した。渾身の力を込め、袈裟懸けに左前足を切りつける。狙いは最初に傷をつけた箇所だ。長巻の刃は吸い込まれるようにその傷にがっちり深く食い込んだ。


「やああぁぁぁぁ!!」


 そこから、つんのめる程の勢いで刀を引く。ゴーレムの折り曲げた膝先から下が両断された。その体がバランスを失い、ぐらりと揺らぐ。


 カイムはその機会を待っていた。残ったゴーレムの足に再度盾で体当たりを食らわせた後、大きく体を捻って体を一回転させ、その本体に重心を乗せた回し蹴りを放つ。


 ゴーレムはその一撃で体勢を崩し、ゆっくり傾いて雑木林へ。反動で反対側へよろめくカイムの体がさらに後方に思い切り引っ張られた。その足を掴もうとするゴーレムの指が寸でのところを掠める。少女が引っ張ってくれねば、ゴーレムに足を引き摺られ共に落ちていたかもしれない。


 バキバキと木枝を折りながら落下していく派手な音を聞きながら、カイムは後頭部に柔らかい感触を感じていた。それが少女のふくよかな胸だと気づいた瞬間、自分の下敷きになって倒れているその体の上から慌てて起き上がった。


「ご、ごめん。助かったよ」


 二人ともタテナシの魔法のおかげで、倒れた程度なら思った以上にダメージはない。


「これでおあいこですね」


 助けた相手と体勢が逆だが、折り重なって倒れるのはすでに二度目だ。少女はそれがおかしいのか、くすりと笑みをもらして立ち上がった。


「あら?」


 彼女は自分の長巻の柄先に眩い光が灯っている事に、今さらながらに気づいて首を傾げた。その光を浴びているとじわじわ体が温かくなり、節々の痛みが少しずつ和らいでいくような感覚に捉われる。


「大怪我すると思って、君が崖から降りてくる時にかけておいたんだ。その光には、ほんの少しずつだけど傷を治療する効果がある」


「そんな魔法が使えるなんて、すごいです!」


 素直に驚嘆する少女に向かって、青年は照れくさそうな苦笑いを浮かべた。


「けど使えるのはそれだけなんだ。出来ればこれ以上過度な期待はしないで欲しい」


「それは私も同じですので、その言葉そのままお返ししますよ」


 互いに使える魔法は一種類だけのようだ。和やかに軽口を叩く二人。しかし、すぐ真顔に戻り、そろって雑木林を覗き込んだ。ゴーレムは遥か下で完全に動きを止めていた。残った最後の足も失われている。二人のすぐ斜め下には木と丸太の間に挟まれ体を潰されながらも、その場から脱出しようといまだもがくもう一体。


「ここに留まるのは危険です。クレイ・ゴーレムはまだまだ他にもいるはずですから」


 言いながら左後ろの崖下まで小走りに移動する。崖上からそこまで縄梯子がかかっており、その下には彼女の背嚢が置かれていた。その縄梯子を利用して崖上まで登ったのだろう。降りる際、それを使わなかったのは、その真上地点にゴーレムがいたからである。


「私の名はフェイラン。慈愛の女神ファルネアにお仕えする神官戦士です。まだまだ未熟者ですが……」


 背嚢を背負いながら少女が自己紹介した。


「俺はカイム。駆け出しのしがない冒険者だ。よろしく」 


 持っていた盾を背嚢にくくりつけ、彼もまたそれを背負った。


「よろしく、カイムさん。渡し舟のある桟橋までご案内します。ついてきて下さい」


「すまないが頼むよ。日が落ちるまでに急いで川を渡った方がよさそうだね」


 そして二人は山道から雑木林へと慎重に降りて行った。

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