俺は無為にその生涯を終わらせた

辺りの様子を伺うかのように長い首をだらりと下げ、頭を左右にゆらゆらと揺すっていたバケモノ、プテロンセベクトの8つの瞳が改めて、瓦礫の山の上で立ち尽くしていた俺達を捉えた。オ・モ・チ・ャ・を咥えていた口をあっさりと閉じると、哀れなカボスのゆるキャラはばきんと砕かれ、パラパラとバケモノの足元に落ちた。


「ガアアアアアアアア!!」


凸凹の鉄を削り上げたような咆哮を上げ、俺達を威嚇するその姿に、未紅はすっかり萎縮してしまっている。


彼女の半身とも言える魔法のステッキ、クリュプトン・ワンド(9)を握る腕は震えており、戦意を失った彼女の心理状態を物語るように、だらりと垂れ下がってしまっている。


(チッ……。不味いな)


『あらあら、これは今回もダメかしらぁ?』


突如俺の耳に艶やかな女の声が届いた。それとクスクスと小馬鹿にしたような笑い声も。


『黙ってろよ、駄女神』


『そうねえ、私としてもこれ以上領域を奪われたくないですもの。貴方だって繰・り・返・す・のは、嫌でしょう?』


その言葉に、墨汁を流し込まれたような苦々しさが込み上げてくる。


それと共に、自然と俺はこれまでの苦労を思い出していたーー。


今から話すのは俺の終わりにして始まり。愚かな俺が、最後の最後で己に絡み付く業の鎖に気づいた時のことだ。


 


 


ーーうろこ雲が浮かぶどこか寒々しい空を太陽が緋色に染める。染まった雲の隙間から漏れた線が俺の居る部屋をじわじわと塗りつぶして行く。それと共に、部屋に落ちる影が、俺の目の前に居る少女を覆っていくのを俺は黙って見ていた。


「ーーねえ、泰斗くん。さっきの嘘だよね?泰斗くんはミクを捨てたりしないよね?」


全体的に茶色く、かび臭い三畳半の部屋は俺が一日の大半を過ごす日常だった。だが今、その日常は異常の背景と化していた。

俺は薄汚れて茶色く着色した壁際まで追い詰められ、目の前には顔から血の気を無くし、瞳孔が開いた女が長い髪を振り乱し、包丁を握って立っている。


ーー成る程、これが所謂シュラバってやつか、とどこか他人事のように考える。


俺の名前は天道泰斗てんどうたいと。一応は大学生だが、ほとんど大学には行かず、世間で言うところのヒモだ。そんな俺を両親は見捨て、モテない男はクズと軽蔑してくるが、俺はヒモとは一種の職業だと思っている。確かに俺は女に生活を依存しているが、代わりに彼女たちが外出している間に家事をやって、帰ってきた時にはホストのバイトで培った技術で女を満足させる。夜とて独りよがりで満足するのではなく、いかに彼女たちが快楽を感じるかを探りながら交わっている。そしてその女の体と単調な生活に飽きたところでべつの女を探す。ここ五年は薄幸そうな地味な女相手にそうやって生きてきたが、十分に満足していた。


だが俺は自分の女を見る目を、少し過大評価しすぎていたらしい。


この女にもそろそろ飽きてきたので、少しずつ態度をよそよそしくしていき、後腐れなく別れようとしていた。


そしてついさっき別れよう、と言ったのだが、


「ねえ、泰斗くん。さっきの嘘だよね?泰斗くんはミクを捨てたりしないよね?」


ーーご覧の有り様である。


「ま、まてよ。お、おおちつけって」


あり得ない、ありえない、ありえない。この状況が、俺にすがり付くことしか出来ない格下に、この俺の命が握られているこの状況が。堪らなく不愉快で、ふざけるなと叫び出したい。なのに、口から零れる音はみっともなく掠れて、どこか媚びた感じの声だった。其れが俺の声だと言うことも、苛立ちに拍車を掛ける。

 女は俺に更に詰め寄ってくる。


「ねえ、約束したよね?言ってくれたよね?」


さっきからこの女は同じ問いを俺にしてくる。何とみっともないことだろうか。俺が言ったことが理解出来ていない訳じゃない。ただ現実を見たくなくて、終わりを先伸ばしにしようともがいているだけ。たまらなく無様で、憐れだった。勿論、俺がそんなこいつを哀れむ訳がない。寧ろ気分が悪い、こんな女に俺は脅かされているのかと。

口から漏れるのが余りにも無様な悲鳴だったから俺は口を閉じて女を睨み付けた。


「……」

「……あ、そっか。そうなんだ。だったら、もう……」


そんな俺に何を思ったのか、女の顔から表情が抜け落ちた。

かくり、と壊れた人形のように女の頭が垂れ下がった。

不意にそれに既視感デジャヴを覚える。


「お、おい」


何を言おうとも考えないまま彼女に、なにか言おうとして、ドスッ、だか、ブシュといった音に遮られた。

気づけば、彼女は俺の目の前に居て、その顔は俺の真横にあった。その目を見てゾッとする。まるでビー玉のようだった。腹部に激痛が走った。


「………は?」


着ていた服がものすごい勢いで赤に染まっていく。そして気づいた。俺はこの女に刺されたのだと。ふざけんなという怒りが沸き上がった。お前みたいなどんくさい女が思い上がってんじゃねーよと。憎しみの限りの力で女を突き飛ばした。


「きゃあ!」

 

悲鳴を上げて女が倒れる。それと共に血濡れた包丁が抜けて床に転がった。血が吹き出し、墨汁が零れたように、床にどろりと染みた。


「あぎぃ……!」


幸いに鍛えていた腹筋のお陰で、内臓はさほど傷つけられていないようだった。今ならきっと止血すれば助かる。

転がった包丁を蹴り飛ばし、上半身を起き上がらせようとした女に馬乗りになった。抵抗出来ないように女の首を両手で締める。苦しげにもがく女は滑稽で、極限まで達していた俺の怒りを僅かばかり薄めた。そう言えばこの女は、俺に襲われる様にして抱かれるシチュエーションを好んだな、とどうでもいい事が頭に過り、ますます滑稽に感じた。

そこで自分が出血しているのだと思いだし、女の両手を広げた両足で押さえつけ、慌てて上のシャツを脱ぎ、ぎゅうときつく傷口を縛った。


「ッッッ!」


腹部に激痛が走り、見る間にシャツは真っ赤に染まるが、これで止血できるとどこかの本で読んだ。まさか自分で実践することになるとは思いもしなかったが。再び両手で女の首を締め、女の抵抗が弱まった所で右手を女の首から外し、ジーンズのポケットをまさぐる。幸いなことにポケットの中にあったスマホを取り出して、救急車を呼ぼうとしたところで、ふと思った。


ーーコイツを殺しておいた方が良くないか?


ーーだって、救急車が来るまでに、また俺が刺されない保証は無い。正直、今だって意識が朦朧としているのだ。きっと救急車が来るまでに俺は意識を失い、女に殺されてしまうだろう。だったらこれは仕方ないことだ。誰だって他人よりも自分の命の方が大事なんだから。それに俺がこの女を殺してもきっと正当防衛になる。だってコイツが先におれをころそうとしたんだから。おれはまったくわるくない。


気付けば俺はスマホを放り投げ、再び両手で女の首を締めていた。女の抵抗が更に激しくなる。それに合わせて首を絞める力を強める。ビー玉のような目が苦しげに細められて、それに気にすることなく、あらんかぎりの力で女をころそうとして、


そこにある彼女の涙を見た。なぜか力が唐突に抜ける。


ビー玉?そんなものは何処にもなく、濁ったそれの中には、絶望、後悔、怒り、諦念、懺悔、嘆きーあらゆる負の感情が混じっていた。

 ああ、


ーー……。        


全身から力が抜ける。力を失った体が彼女の片腕を下敷きにして、彼女の横に倒れた。隣で激しくむせている彼女を見ながら、唐突に何もかもがどうでもよくなった。彼女と目があったが、その瞳に映している感情がなぜが分からなかった。自分が彼女に抱いている感情さえも分からなくなった。


自然と両手を伸ばして、彼女の顔に当ててー


ーーなんでおれはこんなことしているんだっけ?


最期にそんな偽善めいた後悔を覚えた。


「        」


 


 


 

ーーーなさい。

ーーきなさい。


ーー起きなさい、天道泰斗てんどうたいと

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