願い願えば
夢を、見た。
幼い時分の、幼い夢の夢を。
決して忘れえぬ銀の輝きの下で、髭のわりに若く見える男がにかりと歯を見せて笑っていた。所狭しと跋扈していた魔物の群れは既に魔素の奔流へと還っていて、男の背後できらきらと瞬いている。
「おう、無事か」
「あなたは……」
助けられたのだと理解するまでに時間がかかったのは、男の助太刀があまりに絶対的で、ともすれば魔物など最初からいなかったのではないかと思えてしまうほどだったからだ。
そうして礼も忘れて呆然とする幼子たちを前に、男はやっぱり笑った。
「俺ぁ、ゼンだ。ゼン・ベックマン。坊ちゃんと嬢ちゃんは?」
「い、イル・カベック」
「ネージュ……ミーガ、です」
「んん? 嬢ちゃん、家名をミーガっつったか?」
「は、はい。それが……?」
「うーむ。恩を売るつもりじゃなかったんだが。まあいい、これも何かの思し召しさな。ミーガっつうのは、あの有名な焼鉄屋のミーガだろう? 実はちょうど用があったんだ」
「お父さんに、ですか」
「な、なあネルク。ゼン・ベックマンって、あの、英雄の」
「わ、分かってる。失礼がないようにしないと、だからイルは黙ってて」
イルは不服そうな顔をして見せたが、大人しく口を結んだ。
そんな子供を見て英雄の豪放な笑顔は苦笑いに変わる。
「あー……、別に、そうかしこまらずともいいんだぞ」
「とにかくご案内します。こっちです」
「どうも、ありがたく」
英雄は大きな身体を丸めて、木々の隙間の抜け道をついてくる。
熊みたいだと思ったが、絶対に言ってはならないと、イルに倣って口元を引き締めた。
「遅かったじゃないか。こんな時間まで……そちらの方は?」
日も暮れかけたころ辿り着いた我が家。軒先で出迎えた父は、子供たちの後ろでどっかりと存在感を放つ男を認めて怪訝な顔をした。
「魔物に襲われて……この人、じゃない。この方が助けてくださったの」
「ゼン・ベックマンだ。鍛冶師ミーガの噂は聞いているよ」
「ベックマンというと、まさかあの……」
「まあ……そのベックマンだろうな。つくづく俺も有名になり過ぎた」
「なんと、これは……娘らを助けていただきありがとうございます。あなたがいてくれてよかった」
父はへこへこと何度もお辞儀をするが、英雄はやめてくれと手を振った。
「運が良かったよ。町に着いたらその町の子供が死んじまってたなんて、具合が悪いからな。しかも俺はあんたに用があってこのカンシアに寄ったんだ。さすがに娘を亡くした親に事は頼めまい」
「頼みとは、何でしょう。魔王討伐に向かわれるあなたへ、そして何より娘を救ってくださったあなたの頼みだ。私にできることならばお受けしたいですが」
「ああ。剣を打って欲しいんだ。正確には、その約束をして欲しい」
「剣、ですか。しかしあなた様は音に聞く聖剣をお持ちだ。その剣の前では、いかな匠の打てし剣といえどいささか見劣りしましょう」
幼子にもそうと分かった。凄腕の魔道具作成者である父の魔剣はそれこそ百二百と見てきたが、あの銀の輝きに太刀打ちできるものなど一振りもない。
「ああ。この剣がある限り俺はきっと負けない。だから、俺が死ぬことがあったなら、それはこの剣が折れたときだ。無事に帰れたのなら、あんたにやってもらうことはなくなる。だがもしも俺が帰れなかったら、そのときは聖剣を打ち直してほしい。多少形が変わってもいい。だができるだけ剣の魂を再現してほしい。それを、この世界で一番信頼できる魔剣匠のあんたに頼みたい。なに、回収のことは案ずるな、どれだけ悪くとも相討ちには持っていくさ」
「あなたが、負けるなど……」
「俺も負ける気はない。だがなあ、もし死んじまったらと考えると恐ろしいのさ。俺は故郷に妻子を残してきた。ガキは俺が旅立った時はまだ腹の中で、いまは……ネージュちゃんはいくつだい?」
突然振り返られたので思わず肩が震えたが、とにかくすぐに答えた。
「六歳、です」
「ありがとよ。……奇遇なことに、俺のガキも六歳のはずだ。だが俺はまだ一度も会えてない。故郷から離れて離れて魔王領域まで来たんだから、当然だが」
「それは……」
「このまま死んだら俺は最低な男になる。愛した女との子供は、父親の顔すら知らずに生きていくんだ。……遺したい。せめてひとつだけでも」
英雄は腰に吊った聖剣を手に取り、掲げた。
「この剣は俺の心だ。この輝きは俺の信念だ。俺が手前のガキに見せられる背中はこれだ。きっと生きようが死のうがそれは変わらない。だから頼む。もし俺が死んだらその時は」
「ああ……大変な、ご無礼を。あなたは、英雄ではなかったのか」
「おう」
「必ず。お子様にお届けいたします。必ず」
「感謝する。あんたでよかった」
英雄と父はがっちりと握手を交わしていたが、幼い娘には、理解できない会話であった。
その晩、父は英雄と晩酌を交わした。
婚約云々はその席でと聞いている。
当時はそんな約束が交わされたことなど知るよしもなく、二人きりだというのにたいそう騒がしい宴を階下に聞きながら、二人の子供はベッドに並んで腰かけていた。
「……っかっこよかったよなぁ~」
「うん。とっても」
「決めた。俺、将来は冒険者になる」
「えっ」
彼は……血の繋がらない兄であるところのイルは、普段から鍛冶師になると言って聞かなかった。それが突然主張を覆したものだから、思わず驚きの声が漏れたのだ。
ただ同時に理解もできた。あれを見たら、そうせざるを得ない。
「私も。なりたい。誰かを助けられる英雄に」
だって人は太陽に惹かれる生き物だ。
あの光を追わない人間なんていない。
「なろうぜ。俺たちならきっとなれる」
「うん。きっと二人、誰かを助ける英雄に」
「そんで……お前は俺が守ってやる」
「じゃあ、私もイルを守る」
「それはいい! 俺がお前守るんだよ。俺は男で、兄貴なんだ。俺を拾ってくれたお前たちに恩を返すんだ。そのために俺は英雄になるんだ」
「なにそれ。私だって──」
ああ。思い出した。
この日初めて、兄と妹は喧嘩をしたのだ。
きっと誓いは言葉通りの意味なんかじゃなかった。
英雄は分かりやすい目標でしかなかった。
大好きなあなたに、誇れる自分になりたくて──。
誓いは変わらず、心は動く。
言葉にできない心を形にした言葉は、ひどく不格好に歪んでいたのだ。
「ごめんね、イル。私、忘れていたの」
ぽつりと零れた呟きが、夢の世界を終わらせる。
頬には涙が伝っていたが、きっと瞳は笑っていた。
彼はきっと誓いを果たせたのだと知ったから。
夕食の時間だけは、明確に時間が定められているらしい。
とは言っても、ここに来た初日は夕餉時には遅かったし、次の日はリオがおらず、昨日は食事の気分ではなかったので、適当なことを言って結局顔を出さなかった。
三人が顔を合わせての夕食は今日が初めてとなる。
起き抜けの頭ではあるが、思考はむしろすっきりと晴れ渡っている。憑き物が落ちたような、と言うべきだろうか。
リオは、やはり英雄の息子なのだ。たとえ英雄に遠く及ばずとも。
彼の言葉は心の奥に響く。英雄がその道行のあとに人を惹きつけてやまなかったように、彼もまた人を奮い起こす太陽の使徒であるのだ。
降りかかる試練から彼を守ることなど誰にもできない。誰よりも前を進む開拓者。それ故の英雄である。彼の眼前に何が立ちはだかるのかすら、後進たちには分からない。
ただ、彼の背を追うことならば。
そして彼が躓くとき、傾くその背を支えられるように。そのときがきっと己が英雄の一助となり得る、唯一無二の瞬間であると。
かつて為しえなかった誓いを我が身に呼び起こす。
誓いは決して変わらない。変えないために誓いとするのだ。
けれど誓いを立てた人の心は移ろいゆく。良いにしろ悪いにしろ、移りゆく。
だから誓いを今一度ここに。いま現在のネージュ・ミーガの手によって。
きっと二人、誰かを助ける英雄に。
誰にも理解されない孤高のひとを助ける
この槍にあの日の夢を乗せて、リオ・ベックマンの英雄譚を綴るのだ。
それこそが、課せられた贖罪であり、二人の誓いに届くため、自分にできることだから。
きっと今度こそ、あなたに誇れる私になるよ。
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