願い願えど 2

 ネージュは降り始めの雨のように、ぽつりぽつりと言葉を落とす。


「私は、救われてばかりいるのです」


 一度、二度、三度。全ては己の力が及ばぬ故に。

 一度目の救いで夢を抱いた。


「初めは、英雄殿に。幼少の折、魔物に襲われた私は彼に命を救われました。その延長に婚約云々がありましたが、これは別の話として……私は、不相応にも、彼のようになりたいと願い、冒険者を志しました。同じように救われた、無二の親友と共に誓いを重ねたのです。『いつか二人、誰かを助ける英雄に』と」


 横目に覗いたアムクゥエルは驚愕に言葉が出ないようだった。それはそうだろう。何度も口に出してきた大切な誓いなのだ。

 だが奇遇奇遇と笑える雰囲気では到底なかった。

 それゆえ、アムクゥエルもまた、何かを紡ぎかけた口を引き締めて続きを促す。


「彼と共に研鑽を積み、カンシアからの精鋭として魔王領域までの道案内を務めるようになり、しかし私は、結局のところ、英雄の器になかった」


 二度目の救いで夢から覚めた。


「二度目は、他ならないその盟友に。魔物から私を庇い、彼は命を落としました。そこでようやく気づきました。私は英雄にはなれないのだと。誰より大切だったひとを守れずに、一体誰を守れるというのか。……今まで築いてきた己の全てに意味などなかった。助けられた命と分かっていながら、生きることを止めようと夜半の月を見上げたのは、一度や二度では足りません。……それでも、ひとつだけ、私には生きるに足る理由が残っていた」


 そして、三度目。

 そこでついに、最後の光すら己の自惚れであったと知った。己の槍には真実一片ひとひらの価値もないのだと。


「……聞けば、英雄の息子殿は稀代の無能だという。一度二度無力を噛み締めた己の腕も、中級冒険者には劣るまい。英雄殿の願いでもあるのだから、ささやかな恩返しにはなろうやと……それは所詮建前の話。意地汚い私は、他ならぬあなたで、己を慰めようとしていたのです。しかしそれも愚かしい考え。三度みたび私は救われることとなりました。……汚名を灌ぐ機会も、落とした名誉を更に見失うことにしかならず。私は……」

「……で、気晴らしのような、強迫されるような、そんな心持ちでひたすら槍を振ってたと」

「……私は、何を話しているのでしょう。他人に……しかも、あなたに正直に打ち明けて良い話ではありませんよね。……あは」

「病人は心も弱るもんだろ。それに、俺は無能であんたが強いのは事実だし。俺があんたを助けられたのは聖剣様に頼っただけ、火吹き竜の件は精霊たるマオの力で、俺の力なんてどこにもない。これからあんたを頼ることだってあるさ」

「私にはあなたを守れませんよ」

「……理由はなんにせよ、槍、振ってたんだろ。いまは曇ってるかもしれないが、折れてはいない。折れた武器は握れないから。あんたは──あー、いや、うん。お前は、まだ諦めてないはずだ。諦めなければ機会はいくらでもある。どこぞの偉いお人の言葉だ」

「……しかし。もう。いいのですよ。もう何をすればいいのか分かりません。半分死んだようなものです。あと半分を殺すことに難しいことはありません」


 迷った。これは言うべき言葉ではないと思ったから。けれど他には思い浮かばない。

 単純で、それゆえに難しく人を惹き付けそして失望させてやまない答えを、心の奥の子供たちは知っていた。知っていても気づけない。世間知らずな幼少の思い出は、今では見るも痛ましいから。

 けれど筆を執れば夢はキャンバスに描き出せる。

 そして現実は無情であるゆえに不変なのだ。


「お前の、誓いは? ……まだそれは残っているはずだ。どんなにお前が誓いに相応しくなくても、どんなにお前がお前を呪っても、交わした誓いは何も変わっていない。変わっていくのは俺たちだけで、だから変えたくない俺たちを誓いにするんだ。過去を裏切るのは今を生きる人間の勝手だが、誓いはいつまでもなくならない。ずっとお前を、大願成就のときをいつまでも待っている。絶対に」

「……リオ」


 アムクゥエルの呟きが聞こえた。

 小さいながらに重い音。背中を引いて止まない声。

 しかしそれを振り払ってネージュを見つめる。


 言いたくなかった。言うべきでは。

 げらげら、げらげら、下卑た自嘲は途切れない。

 なあ、過去に背を向けているのは一体誰だ?


「……ありがとう、ございます。……少し、眠ります」

「ああ」


 ネージュの顔は、相変わらず憂いの色を帯びているが、少しだけ楽になったようにも見えた。


 せめてどうか、よい夢を。

 人は変わる生き物で、忘れられる生き物だ。

 涙は空が枯らしてくれる。


 アムクゥエルから逃げるようにネージュの部屋を後にして、食堂に向かった。こちらの心中に気づいているのか、アムクゥエルは追ってこない。


 マオはそれなりに美味しそうに食べていたが、目の前にあるのは苦いばかりの昼食だった。




 昼食の後はマオと再び書庫に引きこもった。


「人の傷をよく覗く日じゃの」


 ネージュ。アムクゥエル。魔王。そして他ならぬリオ自身。

 それぞれの抱えるものがじんわりと表出していた半日だった。


「……かもな。悪意は大丈夫なのか?」

「八つ当たり程度なら心配ない。多くの場合明確に悪意があるわけではない故な。参照するは行為ではなく真意よ」

「あっそ」

「お主こそ大丈夫かと問いたい。不味そうな顔で飯を食いおってからに」

「まあな」

「……訊いてもよいのか?」

「訊くのはいいが、答えられはしない」

「それは訊くなと言うのだ」


 マオはそれきり本を捲る作業に戻る。

 ぺらり、ぺらり……規則正しく柔らかく、静寂に響く優しい紙の音と匂い。

 それはアムクゥエルとここにいたときにはないものだった。

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