第三話 願い願えど
願い願えど 1
いつまで二匹の狼は傷を嘗めあっていたのだろう。
気づいたころにはそれぞれの読書に戻っていて、それもかなりの時間が流れた。
「昼時だな。……そういや聞いてなかったが、お前って飯食うのか?」
開いていた本を閉じて訊ねる。マオもまた同じように本を切り上げて大きく伸びをした。
「ものは食せるが、食する必要はない。魔素で動かす身体ゆえな。食せば魔素の足しにはなるが、食さずとも存在に足る分は空気中の魔素だけで賄える」
「……まあ、じゃあ、食うか? その方が自然だろう。見る側としては」
「うむ。……、おっけー!」
「……どうしたよ」
「口調も今っぽくしたほうが自然かなあって思って」
マオがつい先程まで読んでいた本を掲げてみせる。タイトルは、『アンソルージュの騎士』。……大衆小説だ。たしか若い女性の間で流行りだという。
見れば、マオの周りうず高く積まれた本の山、その一角は同じような大衆小説で構成されていた。
「いや、まあ……否定はしない。否定はしないが、無理はしなくてもいい」
「えー? そんなに似合わない?」
「堅っ苦しい喋りしてたやつが数刻で似合うようになる代物じゃねぇことは確かだな」
なんというか、砂糖だと思っていたものが塩だったかのような様相を呈している。味そのものは悪くなくとも、印象と実態が解離し過ぎて困惑せざるを得ない。
「左様であるか」
「左様だよ」
「うむ、まあ、では徐々に慣らしていくとしよう」
「そうしてくれ。じゃあ、片して飯食いに行こうぜ」
「応」
片付けも放っておけば下女らがやってくれはするだろうが、甘えすぎるのも気が引ける。アムクゥエルが見れば仕事を取ってやるなと言いそうだが。
「仕事を取ってやるなよ」
などと思っていると、書庫の入り口にアムクゥエルが立っていた。
「ご飯の時間だから一応呼びに来たんだ。本を読んでいると気づかないこともあるかと思って。でも、片付け始めているならお節介だったかもな」
「いや」
「お節介なんて、全然そんなことないよ!」
「……お、おう」
声を張り上げるマオ。当然アムクゥエルは混乱していた。
「ほら見ろ」
「うむ。やはり駄目らしい。徐々に徐々に、しーむれすに遷移せねばな」
「何の話だったんだ」
「なんでもねぇよ」
話す間も粛々と書庫を復元し、三人で階上へと向かった。
食堂にネージュの姿はなかった。明確に時間が決まっているのはディナーだけで、朝だけでなく昼もまた、顔を合わせるかはその時次第。不思議なことではない。
だが、アムクゥエルは怪訝そうな顔をしていた。
「ネージュ嬢、ここ二日はこの時間に来てたんだけど」
「もう食い終わったんじゃねぇか」
「かなあ」
こちらに気づいた下女が三人分の昼食を用意してくれる。
その折にアムクゥエルが疑問の解消に動いた。
「ネージュくんはもう食べたのかい?」
「いえ。まだお越しになっていません」
「……うーん。彼女は、魔道具を作ってるんだっけ? 彼女こそ心配したほうが良かったかもね。作業に没頭しちゃってるかもだ。悪いけど見てきてくれるかい?」
「承知いたしました」
「あー、いや。俺が行こう。魔道具作成の現場とやらに興味があるからな」
「だから、仕事を取ってやるなって」
「建前とかじゃねぇよ。自分で作れるものなら安く済むだろう」
「まあいいけどさ……。あんまり熱中するなよ。呼びに行く意味がない」
「分かってる」
「では我も行こう」
「え。じゃあわたしも行くよ」
結局三人揃ってネージュの部屋を訪ねることになった。だがノックに返事はない。顔を見合わせて中に入ってみるが、やはりそこには誰もいなかった。
「……考えてみれば、部屋でやる、とは言ってなかったね。そういう施設に行ったとか?」
「なら一声あるだろ」
「であれば、庭かのう」
「かもな」
ネージュの部屋は丁度裏庭に面している。窓から外を覗くと、果たしてネージュはそこにいた。昨日の朝と丁度同じ格好で槍を振っている。しかし、彼女にしては技に精細さを欠いているような気もする。
「おい。あんた。──ネージュ!」
「っ、はい。ええと……ああ。あは。こんにちは」
束の間辺りをきょろきょろとしたネージュの瞳がこちらを認める。この距離でも分かるほどに、その額には玉のような汗が伝っている。
と、その直後、突然ネージュが糸を切られたように膝から崩れかけた。支えの槍がなければそのまま倒れていただろう。
半ば反射的に窓枠を越えて庭に飛び降り、荒い息を無理やり整えようとしている背中に駆け寄る。
「おい、どうした」
「あは、あはは……大丈夫です。お気になさらず」
そんな言葉を紡ぐ唇は元の桜色が嘘のように青い。
膝も肘もがくがくと震えていて、それに従い槍がかたかた音を立てている。
「……魔素欠乏か。槍に魔素を纏わせてたよな。どれくらい続けてる?」
「ええと……あは。今何時ですか?」
「十二時過ぎ」
「……では、四時間ほど、ですね」
長すぎだ。しかも朝飯抜きで。
ようやく本人も自覚したのだろう。言い終わるころにはすっかり目を伏せていた。
「はあ……」
嘆息もそこそこに、上着を脱がせてシャツやベルトを緩め、背を支えながら魔法で風を送ってやる。
「ありがとうございます。慣れておいでですね」
「どこぞの誰かがよく魔素切れで倒れてたもんでな」
「リオ!」
「ん、ああ。ナイス」
事態をいち早く察したらしいアムクゥエルが、部屋にあった水瓶を手に降りてきた。
だが長らく使われていなかった部屋のものということもあってか中身は空だ。
逡巡があったが、それはあくまで逡巡であって、決意はすぐに固まった。
魔法で水を精製し、数度振って撹拌する。
──そして。
「
固有魔法を、人の身にひとつだけ与えられた奇跡の権利を行使する。
ネージュが驚きに目を見開いたが、奇跡に相応しい変化が訪れないのを感じて、次第に困惑の視線へと変わっていく。
「飲め」
「しかしそれは、魔法の水では……」
──魔法で生み出されたものは、術者の魔素で存在を担保され続けねばならない。魔法の水を飲んだとしても、術者が維持を止めてしまえばそこで水の泡だ。
火吹き竜の火、すなわち物理の火とは真逆である。
いくら魔素が液体に溶けやすく、魔素切れに水分が効果的とはいえ、すぐに抜けてしまっては意味がない。
「いいから」
無理矢理口元に水瓶を近づけると、観念したようにネージュが口を開いた。ごくり、ごくりと細い喉が鳴って、『魔法の水』が流れていく。
「……ありがとうございます。気持ちだけでも、楽になりました」
「そりゃ何より」
「しかし……聞き違えたのでしょうか。あれは固有魔法の成句では」
「……ああ。とっておきの、使いものにならない奇跡だ。魔法の水を、ただの水に変える程度の魔法だよ」
「……え? それは……。しかし、それは、明らかに術理を逸脱しています。魔法が生み出せるものではない」
そう、それが意味するのは、つまるところ魔法の影響が魔素と関係なく続くということ。
魔法の三要素のうち、魔素等価の原理を外れた奇跡だ。
「術理逸脱の神秘魔法と言えば聞こえはいいが、本当に使い道が限られる魔法だからな。特に戦闘においてはほぼ意味のない魔法だ。同じく神に秘された奇跡でも、英雄殿の竜化魔法とは訳が違う」
「……」
「いや。悪いな。病人に愚痴を聞かせて。立てるか?」
「……すみません。肩を貸していただけますか」
「ああ……じゃねえ。ベルト締めてから立ったほうがいい」
「あは、うっかりしていましたね」
ベルトをきっちりと閉め直して今度こそ立ち上がるネージュである。
改めて肩を貸す。ネージュは片方をこちらに、もう片方を槍に預けて、松葉杖を使うように少しずつ進む。
予見されたような汗臭さはそこにはなかった。むしろ──いや、余計なことを考えるのはやめよう。
後ろからのアムクゥエルの視線が痛い。
たっぷり十分近くをかけてネージュの部屋に戻り、彼女をベッドに降ろす。
「で? なんだってあんな無茶な修練を?」
「あー……あは。気づかなかったのです」
「昨日は予定があったからまだしも、一昨日は一時間かそこらで止めていたじゃないか。なんでそんなに熱中してたんだ」
アムクゥエルも同調する。
なおもネージュは言い訳を探していたが、やがてぽつりと喋り出した。
「守れないのは、嫌なのです」
「守れない?」
「あの固有魔法から。あるいは火吹き竜からも。私はあなたを守れなかった」
「……いや。どっちも、あんたがいなきゃ駄目だったよ。あんたが出てこなけりゃ聖剣は抜けなかっただろうし、火吹き竜も、あんたが散らしてくれなきゃ障壁がもたなかったかもしれん」
後者はともかく前者は確実にそうだ。
ネージュがいなければ、己はあの場で死を受け入れていただろう。
「それでも。二度と、そう……私は誓ったのです。二度と守られる者にはなるまいと。今度こそは私が誰かを守る側になるのだと。私が、私がために亡くした親友の墓前で」
ネージュは毅然とそう告げる。
その真っ直ぐな瞳は、ずっと遠く過去を見ていた。
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