この世界に必要なもの?

 先ほどまでは空に輝いていた月もいまは雲が覆い隠してしまい、部屋の明かりは頼りなく揺れる燭台のみとなる。

 そんな闇の中で、男が苛立たしげに踵を鳴らしている。舌打ちをしてみたり歯ぎしりをしてみたりとするが、時計の針はただ進んでいくだけだ。

 しかし、その永遠にも思えた焦燥をひとつのノックが引き裂いた。次いで下女服に袖を通したちんまりとした少女が入室する。


「おいでなさいました」

「通せ!」


 少女の何倍もあろうかという大男がのっそりと部屋に入ってくる。しかし大男は見るからにしぼしぼ萎縮してしまっており、その巨躯はいまや虚仮威こけおどしでしかなかった。


「報告! 早くしろこのボケが!」

「……は。失敗、でした。申し訳ありません」

「失敗!」


 だん、と踏みしめられた絨毯が複雑に歪む。

 だが見上げた男の顔の歪み様はその比ではない。


「そんなことは知っているッ! 固有魔法を使ってなお、あまつさえ仕留めそこなうばかりか、羽虫の如く撃退された大ボケがお前だということなど、昨夜のうちに耳に入ったわ!」

「申し訳、ありません……」

「ちっとは申し訳ろよこの脳筋野郎! お前の固有魔法は最強の矛、どんな魔法でも防げない。あんな出来損ないごとき木っ端の数にも入らないと、そう聞いたからお前を雇い、お前も任せろと承諾した! なのに見ろ、このザマを! 逆にのされた挙げ句一日ぐっすり眠りやがって! 俺が、昨日からどんな思いで過ごしてきたか分かるか、分からねぇだろ! てめえのせいで胃が痛んでロクに飯も食えなかった! てめえがぐーすかぴーすか寝ぼけてる間、俺が、この俺がだ!」


 平伏する大男の頭をげしげしと踏みつけながら、男は激昂のままに捲し立てる。事実、決して少なくない額が交わされた契約を反故にしたのは大男であり、男の蛮行に対する口答えは何もなかった。


「しかし、あれの固有魔法は、あまりに強力でした」

「ぐちぐち言い訳すんじゃねぇ! くそッ」


 いかに横暴であっても。


「で。お前の処遇だが、喜べ、俺様は寛大だからな、一応聞いておこう。──お前の家族に、低身長の女性はいるかな?」

「何故、そのような──」

「答えろよ」


 いつの間にか、男の手には赤々と熱された鉄の棒があった。躊躇なくそれを大男の肩口に押し付ける。 先程までのなよなよとした蹴りとは比べ物にならない激痛に、大男はたまらずのたうち回る。だが火かき棒はそんな大男をまるで蛇のように追いかけ、決してその顎を外さなかった。手慣れた動きだった。


「いる、居ます! 妹、妹が……!」

「いくつだ」

「十九歳!」

「身長だ! いや、だがまあ歳は歳で素晴らしいな。本当に低身長ならだが。さて、身長は?」

「ひゃく、ごじゅ──」

「ミラ」

「御意に」


 傍らに佇んでいた下女が魔法の乗った蹴りを放つ。大男の首筋に直撃した打撃はしめやかにその意識を刈り取った。倒れ伏す大男を最後に一瞥すると、もはや興味を失くしたように椅子に腰かけてワインをくゆらせる。


「面倒を増やしてしまったね」

「いえ。どうかお気になさらず。そのための下女です」

「うん、ありがとう。いつもの、地下室へ。よろしく頼むよ」


 先程までの狂奔はどこへやら、柔和な笑みを浮かべて、大男を引きずって部屋を後にする下女を見送る。


「アムクゥエル。あぁアムクゥエル……今度こそ君を救ってあげよう」


 しかし、静かな狂気は、変わらずその内に根を張っていた。

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