この世界に必要なもの 3

 夜半時。月と、月が満ちるほどに夜空での輝きを失う星々は、英雄と大衆とによく似ていた。

 窓を開くと、部屋にしんと夜が降りてくる。


 あの声は、結局どういうものなのだろう。『悪意の結集』と聞いて思い浮かぶのはやはり魔物の誕生だが、あれは他にもいくつかの通り名を残していった。『星の老廃物』だとか、『人の裏』だとか、そして──『月の理』、だとか。

 だが後ろみっつの意味はまるで分からず、早々に思考は放棄した。チェストにどっかりと座って、傍らの聖剣の残骸を弄ぶ。


 きっと直接聞いた方が早い。


「……よう」


 ふと瞬きをしたその刹那、再び開かれた視界では、やたら髪の長い少女がこちらを覗き込んでいた。背の丈はアムクゥエル以上の拙さだが、ふわふわと宙に浮かんでいるせいでこちらが見上げる格好になる。


「まず礼を言うべきとも、しかし何故なにゆえとの疑念が強い。てっきり望みは叶わぬものと」

「別にしたくてしたわけじゃねぇよ。依頼の報告に行ったら思ったより人がいて、思ったより目立っちまったってだけの話だ」


 これは、嘘ではない。

 ちょうど昼下がりであることをもう少し考慮すべきだった。火吹き竜の素材の納品処理は、この童女が望む人目に十分すぎた。もっとも、行き着く先は同じだっただろうが。


「その割には、落ち着いておる」

「過去に戻ったとして過去は変えられない。平行分岐の原理だ」

「……呵々。では改めて、礼を。我の為すべきところならば、主の力となりこの恩に報いよう」

「じゃあお前のこと話せよ」

「応さ。元より、結んだ約は違えぬよ。──我は、浄罪機構と銘打たれたモノ。しかしかく呼ぶ者はおらなんだ。我には増して適当な呼び名がある故な」


 童女はにんまりと笑んだ。

 みるい獣の仔が凛々しい親の真似をするような笑みだった。


「すなわち、魔王。天地開闢かいびゃくそれ以来、この世を蝕み続けるがんである」


 魔王。すんなりとその単語が頭の内に溶けていく。

 外れて欲しかった目論見が当たって嬉しく、嫌になる。曖昧な感情を意識しないよう、努めて冷静に声を作った。


「そうか」

「存外驚かぬな。この答えは見据えていたか」

「驚いてるよ。ひどく突飛な予想が当たったからな」

「慧眼、よきかな。万の知識持つ老眼ではなく、世の光に毒されぬ、無垢な輝きこそが真実を見る。しかし何故そう思うた?」

「人の言語を操る魔物を竜と魔王以外に知らない」

「呵々、確かに竜ではない、成る程」

「で? なんで魔王様がお出ましましたんだ。英雄様は無駄死にだったか」

「魔王とは、過ぎた感情……とくに悪感情が要らぬ魔法を生むことを防ぐため、収集し留め置く、創世術の産物である。まあ、魔物共に近しきモノよ。あれらも規模は違えど、我と同じものだ」

「あー、なんだ、つまり……意図しない魔法が発動しないよう、別の形にして処理してるってことか」

「うむ、うむ。そしてそれを狩ることで、悪感情は無害な魔素に還る。故のである。一種の必要悪とも言える。人間には魔王が必要であり、また魔王には英雄が必要であり、英雄には人間が必要さな」

「……で、世界があんまり辛いから、倒してもすぐにまた別の魔王が出てきたって?」


 ううむ、と唸って魔王は肩を竦めるが、肩も腕も細すぎてひどく不恰好だった。


「間違ってはいないが、適切ではない。元より魔王の居ない世界などない。魔王は世にあまねく概念であり、この身や、あるいはいまに至るまでの数多の『魔王』は、現世に作り出された器に過ぎぬ」


 要するに、井戸を崩しただけで水源自体は地下を変わらず流れているということか。そう聞くと、英雄たちも浮かばれまい。無駄死にというのもあながち間違いではない気がしてきた。

 次の言葉はさらにその風を増長した。


「そして魔王の器が滅びる時には、強大な魔王を滅ぼすに足る明確な害意が傍にある。魔王の概念はそこに引き継がれるのだ。すなわち魔王殺しの英雄こそ、新たな魔王を生む種火。丁度朝方の我と主のように、魔王は英雄の心に寄生することで、英雄に向けられる悪意を食み食み成長し──そして熟したとき、現世に魔王として表出するのだ」

「……待て、じゃあ……」

「案ずるな。魔王が夢の世に座しているのはな、我の意志ではない。英雄とは、身体だけでなく精神も驚くべき強靭さを持つものだ。相応の力がなければ干渉すらできぬ。解脱など夢のまた夢よ。して、相応の力を得たときには、この自我はとうに悪意に塗り潰され、まことの魔王となっておる」

「心が弱くて悪かったな」


 とどのつまりそういうことだ。英雄は好意を主として数多の感情を向けられるから、それに紛れる悪意を食われても違和感を感じない。英雄は心が強いから精神干渉を受け付けない。

 そのどちらも満たさなかったからこそ、いまこの夜がある。


「良かったといっておろう。お陰でまだ余裕のあるうちに出てこられたのだ。あとは隠遁でもしてしまえば、向こう二、三百年『魔王』が現れることはないだろう。……もっとも、限界はあろうがな」

「あんたの、感情の収集ってやつは……こうと決まった範囲はあるのか?」

「集めるものの範囲ならば、一般に負の感情と呼ばわる、悲哀、嫉妬、敵意等々。距離の話ならば、基本的にこの世界全てを範囲とする」

「隠居しようが意味ねぇじゃねぇか」

「感情の吸い方にもふたつあってな。まず無条件に世界に生まれる悪意を収集するが、この場合はほとんどをそのまま魔素に変換できる。浄罪機構の本懐よ。まあ多少影響は受けるがの。しかし、我に向けられた悪意は異なる。これは魔王の欠陥よな。基盤が精神である以上、自己への刺激にはどうしても過敏になる。我への悪意は我の悪意となり、魔王としての力を増長させていくのだ。ゆえ、隠遁すれば、という話」

「大体分かった。なら部屋に閉じ籠ってりゃ一緒だな」

「というと?」

「流石に丸っと信じて野放しには出来ねぇって話だ」

「……よいのか?」

「よくはない。面倒だからな。だが悪くもない」

「魔王を憎んではおらぬのか」


 憎悪は、不思議とない。なぜなら、ずっと……。魔王に出会うことを、心の奥で望んでいたのだ。ネージュに求めるものとちょうど同じ。

 共通解を見つけ出せばその詳細もわかるだろうとはネージュの言葉だった。むべなるかな、いま自分がネージュや魔王に求めているものが理解できる。

 自分勝手な答えだった。特に魔王に関しては、一個人のちんけな欲望ひとつで意識を欠かしてはならない危険物だというのに、それが分かっていながら求め続けている。

 枯れたはずの願いがいまになって出てきてしまった。もうずっと使っていなかった井戸だから、どう扱うのかも分からない。ただ押し込められてきた流れは、変わらずそこにあって。

 何とか水が溢れることだけは抑えようと、適当な二の句を接ぐ。


「俺は、魔王なんかより英雄のほうが嫌いだからな」

「……なるほど、そうであったか」

「何に納得したんだよ」

「此度の決着は、魔王と英雄、その興亡の螺旋で、初の相討ちであった。結果英雄の精神に宿れなかった魔王は、英雄の精神が宿っていたものに宿ることとなる。それがあやつの剣。そこな屑山よ。……お主がこれに悪意を向けたゆえ、我は鞍を替えられたのだ。てっきり魔王を憎んでのことと思うておった。しかしいまはどうだ、お主からは悪意を感じぬ」

「あー……さいですか。受け取らなきゃよかったぜ」

「済まぬ、話が逸れたな。申し出有り難く承る。何せ……」


 魔王が手を伸ばす。あまりに自然な動きで、ぎょっとするころには柔らかな指が頬を這っていた。


「人と触れ合えるなど、何千年ぶりだ」


 金細工を慈しむような手つきが首元に動いていく、というところでようやく手を振りほどけた。

 呵々と魔王は悪戯っぽく笑うと、すとん、と地に降り立った。


「どうか嫌わずにおかれよ、息子殿。共に過ごす者に悪意を向けられては、隔離の意味がない」

「善処しよう。人類の敵殿、ようこそ」

「呵々、人にあらぬ我とて、食らうものが毒か薬は分かるのよ」

「そうかい」

「そうとも」


 窓の外では厚い雲が月を覆い隠していた。

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