この世界に必要なもの 2
火吹き竜は、厳密には竜族ではなく、有膜族の魔物だ。
竜の『
火炎袋と呼ばれる顎のポケットに溜め込んだ火打ち石に、体内で精製したガスを吹き付けて発生させるだけの、ただの物理現象なのだ。
ゆえに、『息吹』のそれのような魔法の炎に比べれば、被害は小さくなりやすい。ただし、物理であるからこそ意識せねばならないことがある。
魔法であれば、魔素への干渉が外れた瞬間に炎は消える。どんな手段でもいい、術者の意識を絶ちさえすれば、そこで魔法の効力は終了する。
だが火吹き竜を相手取るときに注意せねばならないのは、たとえ相手を倒しても、吹かれた火は残り続けるということだ。
特に、相手が群れのときには。
「……、ッ……」
一体目、二体目と、最初の内は楽だ。
しかし吹かれた炎の海で徐々に行動が制限されていき、六体目あたりで魔法で消すのも間に合わなくなる。こうなってしまうと、あとはどれだけ早く残りを処理してこの場を離脱するかになってくる。
だが今回は運の悪いことに、どうも大きな巣穴が近くにあったらしい。狩っても狩ってもキリがない。
よほどの天才かバカかでなければ一度戦闘を放棄するべきレベルの群れだが、しかし、この場には前者が居た。
ネージュ・ミーガはクラスAの栄冠に恥じない猛者だった。
足を置く場所と火吹きの予備動作を冷静に見切り、かすることすらなく討伐数を伸ばしていく。
次々と繰り出される槍技は、あらかじめ定められた演舞を踊っているかのように流麗だ。この炎熱の中にあって、ある種の涼やかさすら感じられる。
「やっぱ、あいつ一人でいいよなこれ……」
対してこちらはもはや防戦一方、かつその上で被弾が見え始めた状況だ。実力差に憂鬱の念を抱かずにはいられない。しかも相手は自分と同い年なところがさらに頭を抱えたくなる。
だが、言い訳をするならば、やはり今日は調子が良くない。冒険者からの目線と同じように、魔物からの殺意すら伝わってこない。
おかげで、特に立ち位置をどう取るかをいちいち理屈で考えなければならず、反応がどうしても遅れてしまう。
「いや、つうか……Aランクと、Cランクだもんな」
落胆する前に、希望を持つこと自体がおかしい。聖剣の力で彼女を守ったという事実に、少なからず驕っていたのか。
彼女と自分は、本来こうなるものだろう。
「……ッ、危ない!」
思わず嘆息を漏らしたところで、鋭い声でハッと我に返るが、遅い。振り返った時には、吹かれた火炎が直撃コースで眼前に迫っていた。
この期に及んでも、死を感じない。
……つい一昨日も同じ状況があったな、と自嘲する間もなく、身体が炎に包まれて──。
そして、鈴の成るような音とともに、突如現れた障壁魔法に弾かれた。
のみならず、入れ替わりにドーム型の障壁が現れ、外界とを完全に隔ててしまう。何度も吹かれた炎にあぶられているが、障壁に限界が見える様子はない。
「悪い。助かった──」
しかし、礼をしようと振り返って、ネージュもまた驚愕を顔に浮かべていることに気づく。それが意味するところは──。
『なに、寝起きの試しに丁度良かればこそよ、気にしなさるな息子殿』
「……誰だ?」
甘ったるい声だった。
股ぐらを開く湯女のような、色香のある艶やかな声とはまた違う。
まるで──、そう。汚れなき童女から無垢性という無垢性を抜き取って、元より甘い子供の声をさらにだめ押しで甘くしたみたいな、ただただ甘ったるい声だ。
聞いているだけで脳が溶け出てしまいそう。
『悲しいかな、ものの数刻で忘れたかよ? まあ致し方なし、息子殿にとっては夢の内のことなれば、致し方なし、致し方なし……呵々』
声の主を探すも見当たらない。あまり好んで耳を向けたくないが、観念してよく聞いてみると、そもそも耳というよりはその奥の奥、脳に直接響いてくるような感覚がある。
「夢──、覚えてねぇな。なんだよ。夢魔の類か」
『長く連れ合う
「なんだよ。お前も美少女なのか」
『へ?』
「なんでもねぇ。で、誰だよ」
『まだ足りぬ』
「足りぬ?」
『そうさな、今朝方、どこか……人目の集まる場所に居っただろう。そこで数刻ばかり過ごしておれ。さすればかの影の下、今宵は現世で相見えよう』
「ロクなことになりそうにねぇから、行かねぇ」
『呵々、勘の良い男め。だが、行くも行かぬも、程度の差でしかないだろうよ。我から遠退く代わり、未知を知らずにいるか、我に自ずから近づきその闇を暴くか。道を選ぶはお主、道を歩くもお主、しかしてどちらの道の先に待つのも我よ』
えらく迂遠なセリフを聞き流しながら、耳に──というか、脳に? 引っ掛かった言葉を心の内で反復し、これしかないと思い当たる。
「……。人目を、集める……あーはいはい。なるほどね」
『む?』
「向けられた感情を食うんだろ。おかしいとは思っていた」
それで今日の明らかな異常が説明できる。透明な視線に乗って向けられていたはずの感情は、端から食らい尽くされていたのだ。
果たして声の反応は期待通りのものだった。
『……呵々、呵々。よきかな。これも此度の特異性故か、左様か……
「叶えたかねぇな」
『嗚呼、天啓を得た。女は好むか? 呵々、好もうよ、
「いらねぇっつの」
『では金か。名誉か。それとも力か?』
「いらねぇよ」
『では何を求む?』
「何も。もう何も欲しくはない」
『何も、とな』
そう。欲しかったものはもう永久に手に入らない。
如何なる奇跡があろうとも。
「いいか。頼むから、これ以上頭の中でくっちゃべるんじゃねぇ。うっかり割っちまいそうなんだよ」
『……ならば、大人しく人目についておけ。さすれば今宵には出ていこう』
「いいか、いくら頭の蛆を払いたくとも、俺は何が出てくるか分からない箱をつつく趣味はない。中身次第じゃ頭の蛆どころじゃなくなるかも知れねぇ。……お前、一体何なんだよ?」
『言えばお主は叶えぬ。あるいはお主の向ける感情で、身体を取れるやもしれぬがな』
「言わなくても叶えねぇ。行き着く先は一緒だ、そうだろ」
『む……呵々、一本』
からから笑いから一拍置いて、声は続けた。
『……やはり、身体は、くれぬか。此度は始まりから、きっと終わりに至るまで、此迄とは異なる道行きとなる。それには確信がある。そしてまた、もしや、もしやと思わずにおれなんだ。もしや此度こそ、曲がりくねった
一貫して甘々と蕩けていた声に、初めて感情が宿った気がした。諦念と、一縷の希望。
それは誰もが持つものだった。
「はぁ……。お前は、何だ」
『……悪意の結集。星という生命に積もり積もる老廃物。ヒトの裏たるもの、月の
「……まぁ、叶わねぇだろうな」
『であるか』
ぱきん、と、氷が鳴るような音と共に、展開されていた障壁が崩壊する。障壁の外の火吹き竜は既にネージュがほとんど討伐しており、追撃の心配はなかった。
頭蓋に響く甘い声も、それきり途絶えた。
「無事ですか?」
ネージュの落ち着いた声が耳にとても心地よい。熱された鉄に水をかけられたように、耳の調子が戻っていく。
「まあな」
「先ほどの魔法は? あ、もしや……」
「いや、俺の固有魔法はもっと地味なやつだぞ。さっきのは、まあ、なんだ。神様が助けてくれたんだろう、いやあ良かった良かった」
「はあ……」
ネージュはいかにも納得していなさそうだが、こちらとしても答えられるだけの答えを持ち合わせていないので致し方ない。
「悪ぃな。結局だいたいあんたの手柄だ」
「いえ、そちらはお気になさらず」
「革と、魔石と、あと火炎袋だよな。回収しようぜ。荷物持ちくらいはできる」
辺りは一面火の海だが、幸いにして火を吹く火吹き竜は当然火には強く、特に外皮と火炎袋は生半可な熱では通らない。依頼人や、あるいはネージュが求めるのは、耐熱性を求めてのことだろう。
他、魔石は魔物の第二の心臓とも呼ばれる、魔素を身体に巡らすための魔法的器官で、種族を問わず大変強固だ。魔物の討伐証明にもよく使われる。
ともあれ落ち着いて回収することに何ら不安はないということである。
ネージュと協力して火を消し止めてから、外皮、火炎袋、そして魔石を剥ぎ取った。
火炎袋は量も少ないのでそのままネージュに渡し、納品する分の皮と魔石を抱える。
外皮自体は焦げていないのだが、炙られた土の臭いと血生臭さが混ざって鼻が曲がりそうだ。
外皮にくるむように包んだ魔石が覗くたび、中の空間からもわっと獣臭が追加される。
「魔石って、人の感情が凝り固まったものなんだよな」
そのまま何もせず歩いていると嫌になりそうなので、気を紛らわせるためにもそんな話題を振る。
「激しい戦の後には、戦地を埋め尽くすほどの大量の魔物が沸いた、というような逸話はどこにでもありますよね。現代における研究でも、人の強い負の感情が魔物の発生を促すというのが定説です。人の意志が魔素から魔法を編み出すように、人の悪感情は魔素から魔物を生み出すと。もっとも、
「……やっぱ、そういうことか?」
「ええと……、あは?」
「こっちの話だ、ありがとよ。しかし、思った以上の解答だったな。詳しいのか?」
「魔王領域には学者の方もよくいらっしゃいますから。幼い頃から、自然と」
「なるほどね……」
「ところでその、大丈夫でしょうか? 顔が青いですが」
「歩く度に、臭いが来るんだ」
「……なるほど。ええと……持ちましょうか?」
「いや、いい」
「……あ。ハンカチ、使いますか?」
「あー、いや、う……やっぱ、ありがたく」
「あは。どうぞ」
細かな刺繍が施された淡い水色のハンカチの清純さを
鼻に押し当てると、清潔な匂いのお陰で随分マシになる。
「……なんだよ?」
「いえ」
ネージュの曖昧な顔の理由は、健気にも冒険者組合で待っていてくれたアムクゥエルが、出迎え直後爆笑の合間に言うことには、『据わった目の不良がくっそ可愛いもん持っててシュールすぎる』ということらしかった。
アムクゥエルは火吹き竜の皮を投げ渡すと静かになった。
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