英雄の子 2
一度だけ、あの剣が抜けたことがある。
まだ幼かったころ。父の遺言によって贈られたらしいその剣を、ただのナイフだと思って野山を駆ける輩としていたころだ。
隣にはいつでも泣き虫な少女がいた。
アムクゥエル・クウィンヒー──クウィンヒー家の一人娘にして、唯一無二の親友……いや、親友とは少し違うだろうか。ともかく、今も昔も、誰よりも親しい人間なのは確かだ。
あの日、いつものように出掛けた裏山で、二人はきっと人生で初めての絶望を抱いた。
これは、走馬灯というものだろうか。
確か、その日はクウィンヒー邸の周囲一帯で大規模な魔物駆除が行われていて、その撃ち漏らしが、あろうことか裏山にまで逃げ込んでいたのだ。
それは、冒険者たちが見逃すのも無理ないくらい、本当に小さな魔物だった。
記憶の姿が正しければ、魔栗鼠の幼体だったのだろう。Fランクでもかなり弱い方の魔物といえる。
ただそれでも、頭も身体も心もみるい子供二人にとっては、命を脅かすに十分な危険だった。
怖かった。逃げ出したかった。
しかし、己以上に怯懦するか弱き少女を背にして、男が一歩も退けるものか。……そういう、紳士性というか、英雄への憧れというか……そんなものを、あの頃はまだ持っていたのだ。
あの輝ける刀身は、今でもはっきりと思い出せる。気高く、神聖で、絶対的で。信念というモノがそのまま形になったような銀色をしていた。
迸る銀閃は哀れな魔物を両断し、役目を終えた剣は自ずと鞘の内に戻っていた。
そのあとは……よく覚えていないが、確か心配やら怒りやら賞賛やらをまとめて浴びて、最終的には『勝手に二人で出掛けないこと』を約束させられた気がするが、それはどうでもいい。
大切なのは、その夜に、ふたり定めた夢のほう。
誰よりも強い冒険者になること。
それをずっと支えること。
そして、きっと二人、誰かを助ける英雄になろう。
誓いの下に、二人は己が道を進んだ。
進んでいた、はずだったのだ。
リオ・ベックマンは、リオ・ベックマンだけが誓いを違えた。
あの聖剣は、もう抜けない。抜けなくて当然だ。杖として使えるだけ御の字だろう。
ただひとつだけ、疑問が残る。
家族すら省みなかったあの父は、いったいどんな誓いでもって、この聖剣に認められたのだろう?
教えてくれ、大英雄ゼン・ベックマン。
あんたはいったい何を目指して、それほどまでに輝けたんだ?
目覚めたとき、日は既に高々と昇っていた。
当然それにも驚いたが、何より驚いたのは再び目覚めることができたということだ。てっきりあのまま死んだと思っていた。
ベッドから起き上がり簡単に身体を動かしてみるが、明確な不具合は感じられない。
何ともいえない倦怠感のようなものがあるといえばあるが、それは単に長らく寝ていたせいだろう。
と、そのときガチャリと音を発てて部屋の扉が開いた。
「お目覚めですか、リオ様。身体のほうはいかがでしょうか」
「問題はないが……あんた誰だ?」
ここいらではあまり見かけない白銀の髪に、やはりこちらも見珍しい灰色の瞳。大人しそうなその顔立ちにも、どことなく異郷の者という感がある。
はて、新しいメイドでも雇ったのだろうか。
「ネージュ・ミーガと申します。カンシアの出身ですが……最果ての町、と言ったほうが、通りがよろしいでしょうか」
「あぁ、魔王領域直前の」
かつて魔王が根城にしていた区域では、その消滅から十六年経った今でも魔素の汚染が凄まじい。
その内に跋扈する魔物は他の地域とは比べ物にならないほど強く、上級冒険者でなければ立ち入りを禁じられるほどだ。
ただ、転移鍵の材料として使われる汚染土壌をはじめ、超一級品の素材が多数存在するので、その採取として大規模なキャラバンが組まれることも珍しくない。
そうしたキャラバンの中継拠点として点在する町のうち、最も魔王領域に近いのがカンシアだ。誰が呼んだか最果ての町。
大英雄ベックマンの姿が最後に目撃された場所としても有名である。
「ええ、そのカンシアでございます。ここには……その、リオ様に会いに参りました」
「なぜ?」
「その、私は、一応……リオ様の、婚約者……らしいので」
「は……婚約? 俺とあんたが? 初対面だろう」
「はい。お初にお目にかかります。……父と英雄殿とが、酒の席でそういった約束をしたらしく……いえ、やはり与太話の類いとは思うのですが、父はすっかりその気でわたくしを育てられまして。お前も十六歳になったのだから、そろそろお会いしてこい、と家を追われてしまいまして」
真偽は不明だ。カンシアでの夜を最後に、英雄は魔王の根城に向かい、そのまま帰ってこなかったのだから。
あるいはもしも生還していたら、この話もこちらに届いていたかもしれないが、空の上からでは声はとても聞こえない。
「なんつーか……難儀な話だな。あんたにとっても迷惑だろう?」
「あは。私は、まったく構わないのですけれど……リオ様にはもう素敵な女性がいらっしゃるようですから」
「あー……アムクゥエルのことか? アムクゥエル・クウィンヒー」
「ええ。つれあい、なのでしょう?」
「違ぇよ。冒険者とその後援者だ。……まあ、幼馴染みというか、家族のようなヤツではあるけどな」
なにせクウィンヒー家には母が生きていたころから色々と世話を焼いてもらったし、母の死後もう十年以上一つ屋根の下で暮らしている。
特に父に関しては、顔も知らない実父よりも、クウィンヒーの当主ニコラのほうが先に浮かぶほどだ。
「まぁ、だからってあんたと婚姻を結ぶ気はないが」
「あは。ええ、分かっております。……さて。では、あとはクウィンヒー嬢にお任せしましょうか」
「あんたは、これからどうするんだ?」
「……どうしましょう。特に決めてはおりません。流石に、今すぐカンシアに帰るのは気が重いですから、しばらくはこの地に逗留すると思います。……ああ、そうだ。よろしければ、パーティーを組みませんか? 行き先はリオ様にお任せします。私は滞在費さえ稼げればそれでよいので」
「あんた、冒険者なのか?」
「あは。カンシアでは、ある程度の腕がないと、おちおち外に出られませんから。ランクは一応Aですので、むやみにお手を煩わせはしないかと」
「そりゃすごい。俺はCだぞ。俺に合わせてちゃあ色々と損だろう」
「本当に、富や名声が欲しいわけではないので。こうして多少なりとも面識がある分、気楽でしょう?」
「だがな……」
「あは。無理にとは言いませんよ。別の方を探すことにします。それでは、私はこの辺りで。装備はそちらの卓上にまとめてあります」
「ああ……」
頷きかけて、ずっと喉に小骨のようにつっかかっていたものの正体にようやく思い当たる。
「ところで、俺の死体を拾ったやつって知ってるか?」
「した……ああ、あは。私です。昨晩このお屋敷をお訪ねしたところ、リオ様が戻っていないということだったので。組合でどの依頼を受けられたのか改めて、あの場所に」
「あー……やっぱそうか。手間をかけたな」
「いえ、いえ。ご無事で何よりです」
「なあ、本当に、金は要らないのか?」
「? ええ、はい」
「あー、っとな。うん……なんだ。その。さっきの……パーティーを組む件は、冗談だよな」
何を言いたいのか察したのか、ネージュはくすりと微笑んだ。
「いえいえ。冗談ではありませんよ」
「そうか。あー、じゃあ、宿と飯と肉壁は提供できると思うが、どうだね?」
「余りあるご提案ですが、よろしいのですか?」
「冒険者ならば、恩は早めに返しておくものだろう」
なにせ、いつ死ぬか分からない。
「あは。では、お言葉に甘えても?」
「一応家主に確認を取らにゃならんが」
「それもそうですね。肩などお貸ししましょうか」
「問題ないって」
差し出された手を押し返し、ネージュに先行して部屋を出ようとすると、ちょうど目の前で扉が開き思わずたたらを踏む。
扉の向こうから、アムクゥエルがひょこりと顔を出して、目をしばたかせた。
「おや、起きたのかい」
「心配をかけた」
「まったくだ。で?」
「……? 悪かったよ。反省してる」
当然といえば当然だが、どうも機嫌が悪いらしい。
とりあえず謝ってみるが、アムクゥエルはなおも膨れっ面でこちらを睨んでくる。身長の問題でいささか不恰好だが。
「……あー、なんだ、今度、何か奢ろう」
「え、ほんとか!? やったー! じゃなくて!」
アムクゥエルは、ずびしっ、とでも擬音すべき勢いで、曖昧な笑みを湛えているネージュを指差した。
「そこの! ネージュとかいう娘のことだ!」
「こいつがどうしたんだよ」
「君は……君はいつの間に婚約なんてしたんだ! わたしというものがありながら!」
芝居がかった様子で泣きじゃくるアムクゥエル。
別にお前のものでもないが、それはそれとして、悪戯が母親にバレたみたいな、妙な気恥ずかしさがある。
「え、あ、あー……だいぶ昔らしいぜ。知らんけど」
「一体どういうことなのか、きっちり説明しろ!」
「知らねぇって。英雄殿がカンシアに居たときに、酒呑んでまだ会ってもねぇ手前の子供の嫁の世話したんだってよ。まぁ、結婚詐欺師か何かかもしれんが」
「あは、詐欺師ではないです……」
内心を推し量られまいとつい飛ばした軽口に、ネージュは困り顔で呟いていた。それを謝る暇もなく、アムクゥエルが畳み掛けてくる。
「じゃ、じゃあ! 結婚するのか? 彼女と!?」
「しねぇよ。あっちも夫が俺じゃ迷惑千万だろう?」
「だよね。うんうん。よかったぁ」
「あー、ところで、その、なんだ、あいつ、暫く宿と飯と仲間が欲しいんだとさ。ここで見てもらえるか?」
「なっ、君は……まさか! やっぱりその娘に気があるのか! 男は結局おっぱいなのか!」
ちなみに、お察しの通り、そんなことを
「胸は関係ねぇ。命の恩人にありがとうございましたはいさよならってのはねぇだろ?」
「ぐぬ、それはそうだが……よし、では万一のことがないよう、わたしがリオを見張っていよう」
「……はぁ。お気の済むまで」
「あは。素敵なお二人ですね」
「だろう」
なぜお前は自慢げなんだ。
嬉しいよりも心が痛い。あの走馬灯で嫌なことを思い出してしまった。いや……見ないようにしてきたものが、目の前に現れてしまった。
アムクゥエルだけは、いまでもリオを慕ってくれる。支え続けてくれる。
彼女を守った少年は、あの日交わした誓いの言葉は、もうこの心の内にはないのに。
好意は、好ましいゆえに、強くは振り払えない。
いっそ……と、ネージュの方を向きかけた自分の汚ならしさに辟易して、視線を落とす。
「リオ、大丈夫か?」
「なんだ」
「気分でも悪いのかい」
「……腹ァ減ってるだけだ」
「そっか。食欲があるのは結構だね。ちょうどそろそろランチタイムだ。……そうだ、ネージュ君のこと、皆に伝えておかねば。ちょっと席を外すけど、手を出すんじゃないぞぅ」
言って、アムクゥエルはぱたぱたと落ちつきなく駆けていく。
「もうちょい慎みを持とうぜ、レディ」
「うるさいぞベックマン」
聞こえていたらしい。拡声の魔法まで使って言い返してきた。
ともあれ。
「まあ、なんつうか、騒がしいとこだけど」
「あは。楽しく過ごせそうです」
ネージュ・ミーガという少女はまた、視線の先でにっこりと笑顔を作った。
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