6 十二歳の決意
真っ暗な部屋にいた。狭くて暗い部屋なのに、そこには何人もの人影がある。周囲を照らすのは人影が持つ松明の灯り。ゆらゆらと揺れるそれだけでは部屋の中を照らすにはまるで足りない。それどころか、暗闇を一層濃くしたように見えるのは恐怖故か。
手足は拘束されて動けない。何度も試したからもう知っている。自由はない。それでも心まで屈服する気はなく、唸り声をあげた。
周囲の人影は意に介した様子なく、松明を動かす。その先には自分と同じく拘束され、床に伏した男がいた。頭を押さえつけられた男は、髪の隙間からこちらを睨みつけている。己の自由を奪う相手よりも、こちらを。今にも殺しそうな目で。
「……何でお前みたいな化け物と……!」
憎悪のこもった視線で吐き捨てられた言葉。それに思わず笑いそうになった。
化け物。お前らには言われたくない。こんなことをするお前らの方がよほど醜悪な化け物じゃないか。
「こっちのセリフなんだよ、人間ふぜぇが! お前ら覚えとけよ」
押さえられた男も、周囲を取り囲む人影も、全員をぐるりと見渡して吠えた。
「その首切り落として、殺してやる」
夢の中の自分の声に驚いて目が覚めた。
今にも壊れそうなほど音を立てる心臓に、全身から噴き出したような汗。荒い息を整えるために胸に手を当て深呼吸する。
一体今の夢は何なのか。冷たい床の感触。手足に着けられた拘束具の痛み。ラルスを囲んでいた人影の息遣い。全て鮮明に、一度体験したことがあるかのような生々しさ。
生まれてから今までラルスはあんな経験をしたことがない。ただの夢。そう割り切ってしまえばいいのに、頭にこびりついて離れない。だからといってハッキリ思い出そうとすれば頭に鈍痛が走る。
頭を押さえて周囲を見渡せば、視界に入った暗闇に悲鳴を上げそうになった。
すぐにカーテンの引かれた部屋だと気付いて息を吐く。清潔感を感じる部屋は学院の保健室。他のベッドはラルス以外は使っておらず、部屋の中を見渡しても先生の姿は見えなかった。
混乱が収まれば少しずつ記憶が戻ってくる。ヴィオにお姫様抱っこされた記憶に関しては忘れ去りたかったが、そうもいかない。気持ちを切り替えるために頭を振ると、眩暈がして、ラルスは頭を押さえた。
そんなに自分は弱っていただろうかと、自分の体を触る。今朝はいつもと変わらない目覚めだった。昨日はヴィオの部屋に泊まったが、同室者の居ないヴィオの部屋は半分ラルスの部屋と言ってもいい。今更気を遣うこともない。
「ヴィオ……今朝、何もいってなかったけどな?」
体が弱いクレアをいつも見ているため、ヴィオは他人の体調の変化をよく見ている。
大雑把な性格なラルスが風邪を引いたことに気づかず悪化させ、ヴィオとクレアをあきれさせたことがあった。それ以来ヴィオはクレアを同じくらいラルスの体調に気を配ってくれている。普段と違う変化があれば、朝のうちに教えてくれただろう。
となれば、なぜ急激に体調が悪化したのか。
「……匂い?」
教室に充満していた甘く濃い匂いを思い出す。ラルスは確認のために鼻をひくつかせるが、保健室の中はあの匂いがしない。薬品のつんとした匂いが鼻を刺激するだけだ。
教室の中に匂いの元があったのか。だとしたら何だろう。見た限りはいつもと変わらなかった。それに周囲の獣種も何の反応もしなかった。となると、ラルスだけが匂いを感じていたのか。
ふと先生にもらった満月の日の注意事項を思い出す。鼻の良いワーウルフは満月の日になると番の匂いに反応して、酔っぱらうことがあると。
思い浮かんだ可能性に息をのむ。嫌な予感を振り払おうと頭を振ると、あの匂いが鼻をかすめた。とっさにうかんだのは矛盾した感情。
会いたくない。会いたい。近づいてくるな。早く来てくれ。
自分でも何が何だかわからない。大きな真逆の感情に振り回されて、どうしたらいいか分からない。ただ、今の状況で匂いの主と会う事だけはまずいと分かった。逃げなければいけない。そう思うのに、ラルスの体はピクリとも動かない。
匂いが近づいてくる。過敏になった耳が足音をひろう。ラルスがよく知っている音。その事実をラルスは受け入れたくなくて、ドアを凝視する。間違いであってくれ。お前が番のはずがない。
足音はドアの前で止まる。律儀に三回ノックする音。貴族出身のセツナでもそこら辺は適当なのに、アイツは礼儀作法にはずいぶん細かく煩い。
返答がないのに顔をしかめている姿が想像できた。勝手に開けていいものか考える姿も。やがてため息交じりにドアノブに手をかける姿までもが、実際に見ているかのように頭に思い浮かぶ。
やめろとラルスは叫ぼうとした。けれど、開いた口から出たのはかすれた声。とても言葉にならない弱々しい声だった。
「目が覚めたか、バカ犬」
ドアを開いた瞬間、あの匂いが流れ込んできた。嫌な臭いじゃない。むしろ心地いい匂い。嗅いでいると身を委ねてしまいそうになって、ラルスは奥歯をかみしめる。
反応しないラルスに眉を寄せたのはカリム。吊り上がった瞳と目があった瞬間、本能が叫ぶ。
こいつが俺の番だと。
「……おい、まだ調子が悪いのか」
カリムの声音に少しだけ戸惑いが混ざった。全く動かないラルスの態度が変だと思ったのだろう。いくら仲が悪いといっても、カリムは体調の悪い相手に追い打ちをかけるような非道な人間ではない。そんなことは出会ってすぐに分かった。表情がきつめなだけで、真面目で純粋で、人を助けることを迷わない。分かりにくいだけで優しい人間なのだということをラルスは既に知っている。
ただ、その情がラルスには向かない。それだけの話だ。
無言を貫くラルスに、カリムの表情が険しくなる。機嫌が悪いのとは違う、こちらを心配しての反応だと匂いで分かった。何でこんなに鼻がいいんだろうとラルスは初めて自分の体質が嫌になった。分からなければ、機嫌が悪いと思えれば、カリムに八つ当たりもできたのに。それすらできず、体を小さくする。
「……先生呼んできた方がいいか?」
怒鳴るでもない、冷たくもない。気遣いが見える優しい声に泣きたくなった。
一歩、一歩、カリムが近づいてくるにつれ匂いが濃くなる。理性がぐずぐずに溶けていく感覚。お前が番だと叫びそうになる心を押し殺して、ラルスはいっそう奥歯をかみしめる。
カリムの手が伸びてくる。それがラルスにはやけにゆっくり見えた。心配そうにラルスを見るカリムの顔もハッキリと。それにラルスはたまらない気持ちになって……、いきおいよく手を振り払った。
「近づくな!」
狭い部屋に逃げ場なんてない。分かっているがラルスはベッドの隅。壁際へと移動する。毛布をかぶって出来るだけ小さくなった。少しでもカリムから離れて、匂いを誤魔化すために。
「ラルス、落ち着け」
いつもだったらすぐに怒っていなくなるのに、今日に限ってカリムはそうしなかった。先ほど以上に心配そうな声。ラルスには今まで一度だって向けたことがない優しい声。それを聞くと一層匂いが濃くなったような気がして、体の力が抜けそうになる。
やめろとラルスはさらに体を小さくした。近づくな。離れろ。触るなと叫びたいのに、声を出すと逆のことを言いそうになる。
「何で……」
「ラルス?」
「何で、お前なんだよ!」
毛布の隙間からカリムをにらみつける。夢の中で見た男がちらつく。きっとアイツと同じ顔をしている。
「お前なんか、年上の女とよろしくやってろ! ばぁーか!!」
「はぁ!?」
カリムが固まったことを良い事に毛布をかぶったまま横をすり抜ける。「おい!」と背後から聞こえた頃には既にドアを通り抜け、ラルスは廊下を駆け抜けていた。本気で走ったワーウルフに人間が追いつけるはずがない。行先は分からない。ただとにかく走って、逃げなければと思った。
角を曲がった瞬間、ドンっと誰かにぶつかった。謝らなければいけないのに、混乱したラルスの頭では簡単な動作すらままならない。
逃げようとしたラルスの肩をぶつかった相手が掴む。思ったよりも力強く、ラルスは二の足を踏んだ。逃がしてもらえないかと振り返れば、そこには驚いた顔をしたヴィオが立っている。その隣には同じように目を丸くしたクレアが。
「ラルス、もう調子はいいのか?」
「ヴぃ……ヴィオ! クレアちゃん!!」
泣かない。泣いてたまるかと思っていたのに、二人の顔をみたらダメだった。色んな感情が沸き上がって暴れて、何が何だかわからない。
振り払って逃げようとしたヴィオに抱き着いて、みっともなく泣く。すぐ近くにあるヴィオの体からは、父親と共にいった雪山の匂いがする。それは何より落ち着く匂いのはずだったのに、本能が叫ぶ。
違う。自分が求めてるのはヴィオじゃない。俺が求めてるのは……。
「ラルスさん、落ち着いてください」
耳元に優しい声。背中に温かい手がおかれ、落ち着かせるように撫でられる。涙でぼやけた視界で見上げれば、クレアがラルスの顔をのぞき込んでいた。優しい表情。優しい声。落ち着く匂い。
「何かあったんですか?」
「カリムが様子を見に行ったと思うが、またケンカしたのか?」
カリムという言葉に誤魔化しようがなく肩が跳ねる。しかしラルスは首を左右に振った。ケンカしたわけではない。一方的にラルスが言い捨てて逃げてきたのだ。
「……ケンカじゃない……」
「じゃあ、どうして泣いてるんだ」
「……言いたくない!」
勝手なことだとは思うが、ラルスはそう叫ぶとヴィオに一層抱き着いた。ヴィオの呆れた顔が見える気がした。クレアの困ったという顔も。
「……言いたくないなら、無理に聞けるものでもないな……」
「言いたくなったら教えてください。相談に乗りますよ」
いきなりぶつかってきて、いきなり泣き出して。二人にとっては厄介でしかないのに、優しい声をかけてくれる。そんな二人の温かい体温にラルスは違う意味で泣きそうになる。
「……俺は番、いないんだ……」
何とか絞り出した言葉はそれだった。涙声で聞き取りにくく、意味の分からないだろう主張。それでも二人は神妙にうなずいて、ラルスの頭を撫で、背を撫でてくれる。
納得なんてしてない。ワーウルフに番がいないなんてことはあり得ない。ワーウルフじゃない二人でもそのくらいのことは知っている。それでも二人は聞かずに、ラルスが落ち着くまで黙って抱きしめてくれた。
二人のどちらかが番だったら良かったのに。ラルスはそう思って、そう思った自分の身勝手さにまた泣いた。
だって、ヴィオにはクレアがいて、クレアにはヴィオがいる。ラルスとカリムと違って、二人は理想的な異種双子で、ワーウルフだったならば理想的な番だっただろう。そんな二人にくっついている自分は邪魔者でしかないとラルスは知っていた。
それでも二人の体温は暖かくて、匂いは落ち着く。ラルスから離れることなんてできなかった。
「ラルスさんには時間がある。だから大丈夫です」
赤子をあやすようにラルスの背を撫でながらクレアが優しい声でいう。言葉の意味が少しだけ引っかかったが、泣いたせいかどっと疲れが押し寄せてきた。今はただ寝たい。何も考えたくない。
「ヴィオ……クレアちゃん……、俺は一人で生きる……」
引きずりこまれるような眠気の中、ラルスはぼそぼそとしゃべる。これだけは言わなければ、自分自身に言い聞かせなければ。これから先、やっていけない。
「番なんていない……一人で生きるんだ……」
それはワーウルフにとってつらい事だと分かっている。今も本能はカリムの所へ行けと叫び、吠えたてている。それでもラルスは本能を押し殺した。
優しいカリムに同情で側にいてもらうなんてまっぴらだ。
瞼が落ちる。一瞬ヴィオとクレアの顔が見えた気がした。二人がとても悲しい顔をしているように見えたが、それが現実だったのか、幻覚だったのか、眠りに落ちたラルスには確かめようがなかった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます