第6話 靖晶の巻

 藻は震えているようだった。いきなり大人たちに詰め寄られて声も出ないようで。


「先月の玉体のご不振、この呪詛のせいであろう。畏れ多くも帝に呪いをかけるとは万死にあたいするぞ! 本来ならば即刻晒し首だ!」


 一方で衛門佐は楽しげではしゃいでいる。木簡もっかんも子供の玩具じみて少年と少女でままごとでもしているようにすら見えるのに、彼らを取り囲む屈強な男たちは本物だ。


「何やら妙な商いをしているが、これは誰に許しを得たのか? お前たちも仲間か」

「と、とんでもございません!」


 と馬の足元にひれ伏すのは浄衣らしい白い衣を着た楽人が三人と――ぶつかって預流の数珠を切った子供と、ほくろの店主だった。他にひざまずいているのは列整理だろうか。数珠玉を拾い集めていた連中もいる。あまりのことに預流も言葉を失ったが、明空は舌打ちした。


「やはりわざと怒らせようとしていたぞ、おれが怒りっぽいと思って挑発してくるやつが一番たちが悪い。その手に乗るか。おれを巻き込むな。茶番は童と下臈げろうだけでやれ」

「……源四郎、何だ、これは?」


 高貴の御方も何が起きたかわからないようで。明空はすかさず指を突き、平伏しながら申し上げる。


「――畏れながら。使庁検非違使庁。我々が特に動かなかったので使庁しちょうの方が諦めたものと」

「使庁が踏み込んでくる予定?」

「厭魅呪詛は世が世なら死罪もありえる大罪でございますから、逃げられないよう取り囲んで捕らえる手筈になっていたものと。結果的にここを動かなくて幸いでした。下臈にお姿を晒したり道を譲ったりせずに済みました」


 ……こいつ、いつから起きていた?


「わ、わたしにはわかりません!」


 社の前では藻が悲鳴を上げていた。


「わかりません! わたしは何も! 呪いなど知りません! そんなもの、今初めて見ました。何かの間違いです!」

「言いわけはごくで聞こう。縛せ」

「衛門佐さまが縄を打てとおっしゃっている!」


 相変わらず衛門佐とそのおつきが茶番をやって。


「我々は何も知りません! ただ雇われて働いていただけです! 指図される通りにしていただけで、呪詛など知りません!」


 店主たちがひざまずいたままで言いわけをしている。それで一層、藻の顔が強張って。

 検非違使に脇によけさせられた人たちも。


「まじない師だったのか? 呪いだって」

「どうするのよ、妙な占いなんか受けて。子供が祟られたら」

「いきなり流行り出して、おかしいと思ったんだよなあ。まじないの力で客を集めてたのか」


 手のひらを返したようにひそひそささやき合っていた。


木簡もっかんとかいつの時代? まじないの道具って紙じゃないの!?」


 やっと預流は声が出るようになったが、


「証拠が今どきの紙の形代かたしろだと小野の小童こわっぱが破いたり失くしたりするからだろう? どうでもいいではないか、罪の重さに変わりない」


 明空が顔を上げて平然と言い放った。


「元服したばかりで親が根回しして官位だけは立派になったが、使庁は危険な仕事が多い。群盗盗賊団と戦って怪我でもしたら大変だ。が、親の心子知らず。血気盛んな童が一人前に手柄がほしい、捕り物をやってみたいと喚いたのだろうな。淫祠邪教の巫女ならば暴れても高が知れている。うってつけの獲物だ。自分を袖にした女を捕縛して親戚に手柄を立てさせる。一石二鳥、いや三鳥も四鳥も狙ってきたな。合理も過ぎると吝嗇りんしょくだ。欲深く罪深いな、

「な、何それ」

「本当に何だろうな、毒蛇の方が生娘きむすめにえに差し出すとは。図体が大きいと自分の尻尾でもないものを切ることができるとは、まるで悟りの境地だ。社まで建ててやったからには役に立ってもらうのだろうよ」


 言っていることは冗談のようだが表情は苦々しげだった。


「どうやら何かやましいことがあって使。急ごしらえで仕立てたものだ」

「妻?」

「女二の宮、茜さす斎院。今上に呪いをかけるような御仁は一人しかいない。昔から仲が悪いからな」

「そもそも呪いって何よ」

「先月、播磨守が清涼殿の東庭で何やらもがき苦しんで儀式を途中でやめたのは呪詛の身代わりとなったせいだったらしいぞ」


 ――その場にいた預流には何が何だかわからない話だった。


「か、勝手にあの人の足が攣っただけなのにどうしてそうなるの」

「事実がどうあれもがき苦しんでいるのを見た者は誰もそうは思っていない」


 ――見た者。

 承香殿じょうきょうでん内裏女房だいりにょうぼうとか?

 顔を思い浮かべて血の気が引いた。いかにも呪いだの物の怪だのすだまだの、言い出しそうな人たちだった。


「あちらも身に憶えがないのによくない噂をささやかれては気持ちが悪いだろう。言葉でいくら言いわけしたところで所詮言いわけに過ぎない。白黒はっきりつけるのがこの方法だ。目に見えないものなら目に見える形にして赤の他人に押しつけてしまえばいい。。――やましいところがなければ堂々としていればいいのに無理に動くのだから何かがあるのだろうとも。いや、、かな」

「――藻はあんなもの書く子じゃないわ」

「当たり前だ。あの社、小娘を取り囲んで逃がさないための仕掛けだ。小娘が自分で考えたらあんなことにならない。持ち時間半刻で大人数を捌いていたのは噂を流すためだ、ここにこのような者がいるぞと。日に二人や三人、それも秘密主義の貴族の相手をしても意味がない。左京の市で民草を巻き込んでお祭り騒ぎのような行列を作れば嫌でも目立つ。さては最初は行列に並ぶ者も雇って客のふりをさせていたのか? 全て手っ取り早く巫女として評判になるためだ。極めつけがこの数珠だ」


 預流の左手にかかった数珠の、一粒だけの紫水晶を指さす。


「物を知らん女の童をいかにも怪しいまじない師に仕立てるための雰囲気作りのようだ。こういうわかりやすいいんちきがあって怒りっぽい連中が騒いでいるところに使庁が乗り込んでくれば一層それらしいだろうと。二連の数珠を同時に綴り直して出してきたのが足並みを揃える以外の何だと」


 それで預流ははっとした。――もしかしてあのほくろの男、預流の手を握ったら預流ではなく靖晶が怒ると思っていたのでは。


「――いや、捕縛の日エックスデー? お前のその萌黄の法衣、誰が見誤ると言うのか。どこに現れてもうるさい女と短気な僧綱と陰陽寮の陰陽師。京の都で一騒動起こすのにうってつけの顔ぶれだ。ひと時といくつだったか。数珠を綴り直していた分も合わせれば使? 何せ拙僧は出家の身の上ゆえ、束帯を着ていたのは随分昔のこと。あれは着るのにどれくらい時間がかかる? 身仕度に一刻かかるか?」


 それはどうやら。

 靖晶に聞いているらしかった。


「後ろにいるのは恐ろしいまじない師だな。陰陽道の秘術で時間を操ったぞ。行列に並ばせるのはお前の言う通り都合の悪い客を選別するためだが都合が悪ければ悪いほどよかったのだ、やつらは。行列は客を操りながら、。でっち上げなくとも物を知らんまじない師などその辺にいくらでもいるだろうに、わざわざ陰陽寮に喧嘩を売った。

「漏刻は宇宙を証すために」


 靖晶は爪を噛んでいた。ささくれを千切ってしまったのか左の人さし指の端に血がにじんでいた。


「そんなくだらないことで――。凡俗め」

「燃やすための護摩壇だと。形代の間違いだろう、


 悔しそうなのは靖晶だけでなく、高貴の御方も額を押さえていた。


「――予はそなたらにしか女二の宮のことを言っていないのに」

「残念ながら、玉顔に曇りあれば誰でもそう思います。。御身が播磨守を憑坐に使ったのであちらはあの娘を使ったようです。あの娘は負けました」

? あまりに理不尽ではないか。罪のために咎人とがびとを作り出すとは」


 明空は答えず、靖晶ににじり寄ると肩に手を置いた。


「木簡の筆跡に見覚えは? あれを書いた者がわからないか。呪詛は大罪だぞ。安倍か、賀茂か、どちらでもないのか」


 小さくささやくような声だった。


「学生でも得業生でも在籍していたのなら調べればわかるぞ」


 ――聞いていられない。


「わたし、行ってくるわ。藻を助けなきゃ。あの子、無実なのにあんなのってない」


 預流は畳を下りようとした。この際、裸足でも蔀戸から出て衛門佐に一言言ってやろうと思った。


「お待ちを」


 だが肩を叩かれた。


「尼御前さま、ここはぼくに」


 靖晶だ。思い詰めた顔をしている。

「大丈夫? 土下座でどうにかなりそうな感じしないけど」

「しないですよ。――あれは呪詛です。ぼくが何とかするしかないです」


 陰陽師が言うならそうなのだろうか。心配ではあったが、考えがあるのだろうか。預流にはない。ならば譲るべきなのか。明空はまだ靖晶をにらんでいるが、あちらから逃げたい一心で検非違使の相手をした方がましだと思ったわけでもあるまい。

 靖晶が地面に下り、懐から蝙蝠扇かわほりおうぎを取り出して閉じたまま右手にかまえ、放免たちに向かってゆく。


「呪詛とは聞き捨てならないことを聞いた。退け。衛門佐さまにお話がある」

「誰だお前は」


 皆、靖晶より背が高い。衛門佐の晴れ舞台のために、殊更身体の大きい下官を連れてきたのだろうが――


「陰陽頭が嫡子、従五位上安倍播磨守だ。陰陽道の大家にして筆頭である。触れるな、下臈ども。道を空けよ。呪詛の話、衛門佐さまに直々にうかがいたい」


 靖晶は祭文を読むときの通る声で言い放った。下官たちは靖晶に手を伸ばして押しのけようとしていたが、その声で動きを止めて一歩下がった。――名乗っただけで反応があるとは、意外と彼にはオーラがあるものなのだろうか。


「……あれ、さっき見かけた播磨守と違う?」

「貧相な格好だけど、本当に受領?」


 と脇によけていた者がささやいたせいで、下官たちの表情が一瞬揺らいだが。何せ靖晶は狩衣姿でその辺りの貴族の雑色と見分けがつかない。


「護身のために伴の者に名乗らせていたが、疑うのか。微行お忍びと思って身をやつし口をつぐんでいたが呪詛とあらば衛門佐さまの御身も危ない、見過ごせぬ」


 だが即座に靖晶は言い返し、蝙蝠扇を広げた――紙の扇だが上品な薄紫色で小洒落た模様がき込まれ、何か漢詩が書いてある。それを見せつけるように掲げる。


「まさかお前たち、地下じげの分際で陰陽頭が嫡子、従五位上安倍播磨守靖晶に身の証を立てろと申すのか? 清涼殿で主上をお助けし大功をなしたこのわたしを疑って、陰陽寮に使いをやって身許を確かめると? 衛門佐さまのお命が危ないこのときに? 急がねば何が起きるかわからぬぞ。こちらの扇は先日、右大将さまの姫君をお助けした折にろくとして賜ったものだが、何か他に身の証が必要とでも。それとも術で打たなければわからぬか」


 早口でもなく堂々とした態度で、疑った者たちも下官たちも一言の反論もなく、身動きもできずにいる。露骨に怯んで後ずさった者までいた。


「地下の者どもがわたしを見下ろすのか? 主上より大国たいごく播磨を預かるこのわたしを? お前たちは検非違使放免か? 上官は誰だ? 殿上人は衛門佐さまだけか?」


 いつもの靖晶なら言わないような言葉がぽんぽん飛び出して。

 まず藍染めの下官たちが直垂の官を振り返り、直垂の官が馬に付き添う狩衣の男を振り返った。


「た、大尉たいじょうさま、どうしましょう」


 すかさず靖晶が扇を畳んでそちらを指し、つかつかと歩み寄る。


「そちらは検非違使大尉どのか、見かけぬ顔だがもしや地下か。地下ではわたしを知らなくても致し方ないのか。衛門佐さまの身に危険の及ぶ火急のときだぞ。そなたもわたしに身の証を立てよと」


 狩衣の男は露骨にびくついた。


「い、いえ、あの、存じております、播磨守さま」


 と頭を下げた。それを見て他の下官たちも、次々順繰りに頭を下げていく。きっと状況がわからない者もいるだろうにわからないなりに空気を読んだのか、皆がお辞儀した。空気に呑まれたのか、道の端から見ているだけの者まで頭を下げた。

 残るは馬上の衛門佐。


「あ、あんなに言うこと聞くものなのね」


 預流は身を乗り出して固唾かたずを呑んだが。


「検非違使放免はよその役人より身分が低いのに土下座するとでも思ったか」


 明空は冷淡だった。


「そもそも殿上人ともあろう者が名を名乗って頼んでいるのに〝知らん〟と突っぱねる無法者はこの世にお前一人だけだが、まともな神経の上品な貴族はあんなみすぼらしいなりでは恥ずかしくてとても名乗りなど挙げられん。播磨守も相当やけくそなのだろうが、大尉とやら、気迫で負けたな」


 ……びっくりしている預流に良識がないとでも? そこに本名を名乗るのが恥ずかしくて播磨守を名乗った人がいる件は?


 異様な雰囲気に衛門佐が遅れて気づいた。


「何だ? 何ごとだ、お前たち」


 やっとちらりと下を見た。


ほこりっぽい道端ゆえ斯様かような見苦しいなりで失礼します。従五位上安倍播磨守より衛門佐さまに取り急ぎ、お話があります。装束を改めお邸を訪問するべきですが衛門佐さまのお命にかかわる事態です、ご容赦を」


 靖晶は軽く会釈したが、丁寧なのはそこまでだった。扇で今度は衛門佐を指した。


下馬げばなさい、衛門佐さま。馬を下りなさい。あなたは正五位下しょうごいのげ、わたしは従五位上。位でわずかに劣れども同じく五位でわたしの方が年上です。人と話すときは馬から下りなさい。これは深刻な話です。馬から下りなさい」


 強い口調で言うので、衛門佐もぎょっとしたようだった。ほおがふっくらとして目つきがまっすぐで、いかにも親に叱られたことのない顔つきだ。それが下から声をかけられて惑った。


「ず、受領如きがわたしに声をかけたか」

「かけました。受領如きですが従五位上です。馬を下りてわたしの話を聞きなさい。非常のときですが上臈じょうろうには上臈の掟がありましょう」

「受領が上臈だと、ほざけ。我が祖父は太政大臣だぞ。お前如きのために下馬など――」

「大臣ではなくあなたにお話ししているのです、今すぐ馬を下りられよ!」


 まさかこの人に子供を叱責することができるとは。衛門佐は気勢に呑まれてすぐには返事をしなかったが、横の大尉が何やら気まずげに少年にささやいていた。


「話が違います、本物の播磨守が出てくるはずではなかったのですが」

「さっきからこやつはわたしの身が危険とか申しているが」

「何のことやらわかりません、聞いてみなければ」

「話を聞けとはわたしに馬を下りろと?」

「受領とはいえ播磨守は殿上人です、むげになさらない方が」


 何やら揉めていたが、ほどなくして馬のそばに踏み台が用意された。馬が立派すぎて踏み台がなければ乗り下りできないらしい。

 少年が地面に下りると靖晶より小さい。周りの図体の大きな大人は皆、頭を下げているので遠近感がおかしくなりそうだ。


「先ほどの木簡をお見せください」


 と靖晶が扇を帯に差して右手を差し出した。


「何だと。呪詛の証拠だぞ、なぜお前に」

「安倍は陰陽道の大家でございます。呪詛は我らの扱うところです。陰陽頭が嫡子としてそのように危険なものを看過するわけにはいきません。お見せください。あらためます」


 衛門佐は目を逸らした。


「――別の陰陽師に祓い清めさせてある。お前が確かめる必要などない」

「信用できません」


 靖晶はつっぱねた。


「たとえ清められていたとしてもそんな危ないものをあなたのような小さい方に持たせるなど検非違使庁の別当さまは何をお考えなのか。呪詛を甘く見ている。浅慮と申すよりありません。まだ呪いの匂いがします。見せなさい。わたしは専門家ですよ。そのままでは衛門佐さまのお命にかかわります」


 すらすらと心にもないことを言っているわりに強い口調は本当に怒っているみたいだ。


「誰が祓い清めたか知らないがこんな半端な仕事で童を危険に晒すとは許しがたい。剥き出しでお持ちであれば目標を見失って滞った呪いがよそに祟りますよ。近場で一番弱い者に移ります。子供や年寄りや病人など。衛門佐さまは使庁で一番お若いでしょう。間違いなく呪いにつけ込まれます」

「馬鹿な、今何ともないぞ」

「後から効くのです。何日もかけてはらわたをじわじわと腐らせて、まず物が食べられなくなる。腹は空いているのにのどにつっかえて詰まるのです。めまいがして長く歩けなくなる。そのうち眠いのに眠れなくなって頭がぼんやりしてきます。腹、手足、頭の順に冒されて頭がやられた頃に慌てても手遅れです」


 ――やたら具体的なのは自分が経験した暑気あたりの症状か?


「お命が助かっても背が伸びなくなりますよ。お役目でこんなことをさせられていると知ったら親御さまが大層お嘆きになるでしょう。お見せください、さあ」


 衛門佐はちらちらと大尉を見た。大尉も戸惑っているようだ。そうか。賢木中将から直接手渡されたのだとすると陰陽師が祓ったかどうか彼らは知らないのだ。

 少し迷ってから、帯に差していた木簡を靖晶に手渡した。靖晶はじっとそれを眺めているようだった。


「も、もういいだろう。戻せ。大事な証拠だ」


 衛門佐が木簡を取り返そうと手を伸ばすと、


「いいえ、これは我が家に持ち帰って清めます。他の者に任せるなどできません」


 靖晶の方が大きいのをいいことにひょいと避けて、それを狩衣の懐に入れてしまった。子供同士がふざけているような動きもわざとか。


「別当さまにそのようにご報告ください。木簡は陰陽寮で管理する、播磨守が申していたと。異論あるならわたしに直接おっしゃいと」


 それは衛門佐の異論は聞かないという意味だ。

 衛門佐は言われるまま、自信なげに自分の右手を見ていた。木簡を素手で触っていたのが今頃穢らわしくなったのだろうか。衣装の裾にこすりつけ始めた。


「それとそちらの巫女ですが」

「何だ、知り合いか」

「そうです。わたしはこの者が呪いをなしたことを知っておりました」


 靖晶が言い放つと、縄で縛られた藻がびくりと顔を上げた。衛門佐も面食らったようだった。


「何だと」

「畏れ多くも主上に仇なす大罪、わたしが気づかぬとお思いか。密かに呪詛の気配を感じ取り、己が身を使ってその力を打ち消した後、術者が誰か式を打って探し出しました。それでじかに会って話をして改心するよう言葉を尽くして説得しました。呪いは命を縮めます、若く見えても長くないのが一目でわかりました。このままでは死んでしまう」


 ぬけぬけと、一体どんな表情でそんなことを言っているのか。

「せめて残りの人生、悔い改めて来世のために人を助けて功徳をなせと言って聞かせました。そうしてわたしの弟子となり、この者はこちらの社で占いをするようになったのです。世の中を騒がせぬよう、わたし一人で処理したつもりでしたがどこで行き違ったのか妙な噂になってしまって。今思えば浅はかでありました。木簡はわたしが説得する前に書いたものでしょう。まだこんな大きな呪物まじものが残っていてこれほどの力を溜め込んでいたとは、昔の罪が追いかけてきたのですね。わたしの不覚です。今もこの娘から命を吸い取って呪いを撒き散らしておりました。因果とは皮肉なものですが、わたしが回収できてよかった。使庁のお裁きは必要ありませんしここでの占いは何も穢らわしいものではありません。この者が自分なりに反省し、人を助けるためにしていたことです」

「さ、裁きが必要ないということはないだろう。お前は何を言っているのだ」


 流石に衛門佐の表情が白けた。そんな話が通るはずがないと預流も思ったが。


「獄につなげば今日明日にも死んで皆さまの身の穢れとなるでしょう。獄を穢しますので我が家で引き取ります。死穢しえは恐ろしいものです。尋常の死穢でもひと月は参内できないそれはおぞましいものなのに、この者は呪詛で死ぬのですから凄まじいことになりますよ」

「元気そうなのにそんなはずがあるか、人がそんな簡単に死ぬものか。わたしを馬鹿にしているのだろう。大罪人を庇い立てするとは、お前も縛につきたいのか? 受領如きが言いたい放題、後悔させてやる」

「いえ、あの、衛門佐さま、そういうわけには――」


 横の大尉が何か口を挟もうとしたが、靖晶が一歩進み出た。


「百聞は一見にしかず、まあご覧ください」


 縛られた藻の前に進み出、両手をその顔の前にかざす。


「臨、兵、闘、者、皆、陣、列、在、前」


 素早い動きで両手の指を組み替え、印を切り――

 最後に左手の指を握って気合いを入れた。


「えいっ!」


 うさんくさそうに見ていた衛門佐だったが――途端、地面にへたり込んだ。

 赤く鮮やかな血が一滴、藻の右目から滴り落ちていた。わずかとはいえ赤い色は本物だった。


「ほら、ちょっと気合いを入れただけで目から血が。もう少し強い術だと身体が泥のように崩れ落ちます。獄の中で見苦しい死に様を晒しては使庁の皆さまも片づけるのが大変でしょう、我が家で引き取ります」


 靖晶がしれっと藻の肩に手をかけるので。


「ま、待て、待て! 死ぬから捕らえずともよい、とはならん!」


 腰を抜かしたままで衛門佐が喚いたが。


「……あれは播磨守の血では?」


 高貴の御方にすら感づかれていた。

 どう見ても左手の千切れたささくれから搾り出したものだ。印を切るときに藻の顔になすりつけたのだろう。今は左手は袖の中にしまっている。

 だがいくら相手が子供でも、こんな子供騙しが通じるのか――


「大体お前、大逆、弑逆未遂をお前の一存で対処して連絡もせず〝どうせ死ぬから〟と見すごしてきたと言うのか! お前こそ逆臣ではないか! 誰かこやつに縄を打て!」


 まだ立てないまま、衛門佐が靖晶を指さしている。そこに。


「いえあの、それはまずいのです衛門佐さま」


 大尉がそばにひざまずいて耳打ちを始めた。


「播磨守安倍靖晶は、関白さまが肝煎きもいりという話で」


 そのまま何やら話し込み始めるのに、高貴の御方が首を傾げた。


「……まずいとは何が? 血の穢れは恐ろしいがそれで検非違使は務まるのか? 捕り物で怪我をすることくらいあろう」

「あれは血の穢れを恐れているのではありませんし死ぬと真に受けたのでもありません。


 明空が淡々と答えた。


「逃げ道? なぜ逃げる。衛門佐ではなく大尉?」

「この光景、みこさまはどのようにご覧になっていますか」

「どのように――」


 高貴の御方はもう一度蔀戸の外を一望して――


「――


 呆気に取られた声を上げた。預流もやっと気づいた。

 往来の人々は大尉以外、まだお辞儀したままだ。放免たちも社の者たちも通りすがりも皆、頭を下げてそのまま動かない。


「播磨守の相手は、衛門佐ではありません。大尉です。その他の者は見ることすら拒んでおります。己の頭で判断するのを諦めました。――屈強な男どもに見えましたか。皆、地下なので播磨守が〝頭を上げてよい〟と言うまでこのままです。大尉だけは衛門佐の補佐として口を挟んできますが、あれも地下です。播磨守が叱責すれば平伏しますが、幼い衛門佐では話の機微がわからないので参加させているのです。使庁の長官かみは別当ですが、実務を行うのは次官すけの衛門佐。大尉は恐らくそれより下。あそこには衛門佐以外に播磨守と対等に口を利ける者がおりませんが、まともに話を聞いて判断できる者は大尉しかいないのです」

「大尉が判断とは、衛門佐の命令に従って放免が播磨守を捕らえてしまえばよいのでは」

「いえ。そもそも使庁では六位より上の貴族を裁くには特別の沙汰さたが必要なのです。〝姓〟〝名〟〝朝臣〟で五位の貴族を表します。陰陽寮の並みの陰陽師なら七位で巫女ともどもひとまとめに縄を打たれて仕舞いの話ですが、従五位上播磨守が相手では使庁全体で支度して出直さなければなりません。衛門佐は官職を得ただけでまだそのような道理を理解していない。どこの馬の骨とも知れぬ巫女を捕らえるだけの仕事ならわからずともよいと周囲が油断していたのでしょう。また衛門佐に対して放免は身分が低すぎて直接やり取りできません。間の官が衛門佐に代わって放免に命じねばならない。その途中が詰まったらあのように。――播磨守の名乗りを聞いて怯んだ時点で大尉の失着です。そんなやつは知らん、お前のような貴族がいてたまるか無礼者めと突っぱねるべきでした。上官を下馬させるなど言語道断です。あれで播磨守は何をしてもよいということになりました」

「六位とは……大抵の受領は六位より上ではないのか」

「そうです」


「検非違使にはそんな掟があったのか?」

「あります。これは法です。受領と言えど貴族を検非違使が裁くにはあらかじめ政治的に根回ししておく必要があるのです。放免どもが播磨守に触れず、ああして頭を垂れているのは法で定まっているからです。あれらは無位無官むいむかん盗人ぬすびとなどには強く出るのでしょうが大国の受領、殿上人と聞いて怖じ気づきました。播磨守に従者がいればそちらを殴るなどしたでしょうが、生憎と一人でした。本人を捕らえて殴る度胸など誰にもないのであのざまです。偽者を見逃すより本物の播磨守に無礼を働く方が後で咎められたらまずい、と。何せ検非違使の放免は盗人などの罪人を世に放つ代わりに下官として使っているのです。己も獄につながれた経験があり後がないので並みの民草より罰を恐れており、権勢ある者を前にするとすくみます。それで上官の大尉に判断を丸投げしました。頭を下げる代わりに責任を取らなくて済む方を選んだのです。しかし大尉も地下で、播磨守に関白の後ろ盾があると知っていた。播磨守に手を出せば関白が黙ってはおらず、使庁の裁きに関白が口を差し挟んだら大変体裁が悪い。中途半端に小賢しかったせいで瞬時にそこまで思い至って放免ども以上に身動きが取れなくなりました」


 それで預流は唖然あぜんとした。


「検非違使って相手が大臣だの何だのだと腰が引けるの!?」

「当たり前だ。この京の都で摂関家がゴネれば大抵のことは何とかなる。お前、自分の兄君や父君が悪事を働けば検非違使に縄を打たれるなどと思っていたのか?」

「……捕まらないの?」


 呆然とする預流に、明空が目を細めて少し呆れたようだった。


「お前、自分の五位の命婦みょうぶの位を弁えておけ。そんなことも知らずにこれまで自由に無体をしていたのか」

「でも、だってそれじゃ検非違使って庶民の喧嘩を仲裁したり盗人を捕らえたりするばかりなの? 貴族が悪いことをしてもお咎めはないわけ?」

「そうだ」

「やりたい放題じゃないの」

「そうだ。無理矢理女をさらって手籠めにしても、人を殺めても大したことはない。――とはいえ清涼殿で主上をお助けし大功をなした播磨守本人ならともかく、わけのわからぬ地下の小娘を庇うのに引き合いに出されては関白も迷惑だろうな。見も知らぬ巫女のために太政大臣より連なる小野右衛門佐の一族とことをかまえるなどできるか。大尉が勝手に忖度して萎縮したのにつけ込んだのだ。運がよかったな。三十過ぎの左衛門佐やそれなりの明法家法学者が来ていたらあの程度のハッタリでは歯が立たない。子供の使いもできない連中だっただけだ」


 ――いや、きっと。

 この計画のかなめは、明空よりも靖晶を怒らせることにあった。

 悪い噂で嘲ったり連れの女を突き飛ばしたり数珠を切ったり手を握ってみたり。預流も二、三度「なぜ怒らないのか」と思った。

 ――大尉が「話が違う」とこぼした。「百鬼夜行に行き遭って木陰に隠れて半泣きで震えていた安倍播磨守が藻に助けられた」というあの噂話、靖晶を怒らせて藻と決裂させるためだったのに決まっている。検非違使たちは、あれで藻を助ける気をなくさせたつもりだったのだろう。

 明空は挑発に乗らないように気をつけていたようだが、靖晶は多分ただへらへらしてぼんやりして怒りそびれていただけだった。「どうやら腑抜ふぬけだから放っておいても問題ない」と思われたのではないか。

 今だって明空に詰め寄られて勢いで飛び出していったのであって、何を考えているかさっぱりだ。

 全くもって度しがたい。

 ――しばらくして立ち上がった衛門佐は全然納得した様子ではなかったが、大尉があまりに泣き言を言うのにうんざりしたようだった。


「そんなに言うならもういい、帰る」


 駄々っ子のように不貞腐ふてくされ、踏み台から馬上に戻った。

 こうして放免たちはやっと顔を上げて藻にかけた縄を解き、衛門佐も大尉も来たときの威勢はどこへやら。逃げるように去っていったが。

 社の前に並んでいた人々はもう占いどころではなく、ひそひそと耳打ちし合っていた。てっきり藻が捕縛されると思い込んでいた列整理や餅屋の主などは子供を抱えて逃げる始末で。

 藻はまだ助かったとも思えないのか、一人でぼうっと立ちつくしていて。靖晶がその背中を叩いてやる。


「藻、お前は死んだことにするから急いで京を出て播磨に行きなさい、うちの家人と一緒に。向こうにもうちの家の者がいるから。お前が暮らしていけるよう手配する。播磨まで行けばごまかせる」

「播磨守さま……」


 今頃、藻はぽろぽろと涙をこぼし始め、袖で拭っていた。血の痕はすぐに紛れてしまった。


「さてそろそろこちらもお帰りの支度を。女の童も木簡も播磨守のものになりました、言いたいことはありますがひとまず預けておきましょう」

「そ、そうだな。悪いことにはならんだろう」


 明空と高貴の御方は履き物の支度をしていたが、預流は裸足のままで蔀戸から外に出た。

 放ってはおけなかった。

 二人の前に立ちはだかる。藻は袖で顔を押さえ、靖晶は今頃少しまごついて彼女から一歩離れた。

 ――何だその態度。気持ち悪い。


「もしかしてわたしが〝よく頑張った〟とか言い出すと思ってる? この大嘘つき、その人形わたしに見せてみなさいよ」


 預流は右手を差し出したが、靖晶は目を逸らした。

「何のことですか?」

「懐に持ってる人形はそのまま隠してしまうの? 燃やして、なかったことにするの? わたしにも見せなさいよ」

「危険なものですから」


 ――預流にもそんなことを言うのか。


「その人形、藻が書いたものじゃない。――いえ」


 怒りで目がくらみそうだ。

 こんな男だったなんて。

 預流は袂から料紙を引っ張り出した。


。今上の御名みなは難しい字よ。手本の通りになぞったって絶対無理よ」


 畳んであるのを広げて靖晶に突きつける。


『この藻という娘は安倍播磨守靖晶の恩人です。よくしてやってください。端仕事でも何でもさせてやってください。読み書きも教えてやってください』


 間違いなく靖晶の筆跡だった。和歌どころか気の利いた言い回し一つなく愚直で最小限でとにかくわかりやすく。

 預流ではなく山背式部卿宮邸の家人に見せるためのものだ。


「書いた人が他にいるの、あなた知ってたじゃないの。どうしてそう言わなかったの。無実だから釈放しろって言えばいいだけだったのに、呪詛で死ぬとかごちゃごちゃと。どうして藻は京を出ていかなきゃならないの。答えなさいよ」

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